第3話「実技指導と実路と」②
『――そうそうそんな感じ。だいぶ様になってきたんじゃないかい? トリア』
『そお? なんか自分でも上手に出来てる気がする!』
まずは両手を適度な硬さに丸める。その後、その両手首を更に内側に丸めて決して爪が出ないよう気を付けながら両手で交互にしっかり顔をこする。その際特に目元は慎重に。丁寧に。
目ヤニの取り残しがあるといけないし、強くこすりすぎると目を傷つけてしまうから。
アードロフの指導内容は大体そんな感じで大雑把な教えではあったが、トリアリスは一時間程でこれを体得するに至った。が、その仕草は本家本元である所のアードロフから見るとどうもかわい……あざといのだ。
にゃんにゃんと口に出しながら上機嫌に猫が顔を洗う仕草をする少女を目の前に、アードロフは言い知れぬ背徳感に苛まれることになる。と同時に思慮深いトリアリスだ。いったい今の自分をどこまで客観的に捉え、計算を交えた上でその仕草をしているのかが計り知れないのが怖かった。
――ふわりと一枚の鳥の羽が落ちる。
部屋の真ん中でそんなやり取りをしていると不意に頭上から床に一枚の青い鳥の羽がフワフワと落下してくる。アードロフとトリアリスは、それが床につくまで見過ごした後、顔を見合わせ無理解を共有、そして上を見上げる。
部屋の中心の天井にはそれだけで室内一帯を明るく照らし尽くせるであろう大きく複雑な形をしたシャンデリアがぶら下がっている。
余談ではあるがトリアリスは今よりまだ少し小さい頃、いつかあれが頭に落ちてくるのではないか? との疑念がどうにも晴れず、ずっと室内中央は避けて移動していた次期がある。
『なんで羽が?』
『――あ! あそこ!』
シャンデリアの外枠の陰に鳥が隠れていた。青い羽を清楚に折りたたみ身じろぎしまいとじっとしていたが、二人に気づかれたのを悟ったのか、その態勢に警戒の色が濃くなってゆく。
『――ヒッヒッヒッ』
『ヒッヒッヒッヒッヒッ』
アードロフの口から普段からは聞き慣れない鈴を小さく揺らす様な声色で音が発せられると、それに呼応する様に青い鳥が同じ様に鳴くそんなやり取りが数分間続き、納得したように、そしてどこか普段より真面目な面持ちで頷き、トリアリスへと向き直る。
『彼女は東の空から渡って来たそうだよ。足を怪我しながら飛んでいる最中バランスを崩して、さっき窓を閉じるタイミングでちょうど中に入ってしまったそうだ』
『そうなの? 大変。直ぐに手当てをしなくっちゃ。 待っていて。直ぐにお医者様を呼んで貰うから! それにしてもアードロフ、あなた鳥の言葉も話せるのね。私驚いちゃった』
『まあね。これでも伊達に二百年も生きてないよ。それなりに学ぶ時間はあったのさ』
言いながら、そして聞きながら、扉の外に控える使用人に有事の際の合図をして扉を空けて貰い、ことを端的にまとめて医者を必要性を訴えているトリアリス。
その内心は複雑だ。まず怪我の容態がわからないので心配で仕方がない。また、トリアリスにとってこの青い鳥は、自室に訪れた始めての、そして最後になるかもしれない客人なのだ。こんなことはめったにある事じゃない、事実これまで一度もなかった事であり、もしそんな事態になったらどうしようなんて考えた事もなかったのだ。
そうは言っても、アードロフのお話しの中で彼が客人として人間の部屋に招かれる展開は何度となくあった。
まずこちらにどうぞ。と言って適当な場所に落ち着いて貰う必要がある。ずっとシャンデリアの上に居て貰うのも失礼かもしれない。次はお茶を出さなくてはならない。鳥は紅茶を飲むのだろうか? 何を飲むのだろう? 水? 来客にただの水というのは失礼に値しないだろうか? そのあとは、えっと、そのお茶に合うお菓子を添えなければならない。確かそうしていた。でも水に合うお菓子は思い当たる節が無い。えっと、えっと――。
『お水と、トリアの夕食のパンを一欠けら分けてあげるといいよ』
思考の深海に沈んでいくトリアリスに、アードロフはそのテンパり具合からおおよその心中を察して助舟を出す。トリアリスは羨望と慈愛に満ちた顔でアードロフを見つめている。
『僕が彼女と話しているからトリアも食事と入浴を済ませておいで。彼女も治療がある。医者が来るまでは僕の方でも彼女に出来る限りの事をしておく。だから安心して』
『う、うん。そうね。そうしようと思っていたところだったのよ。ではそうさせてもらうわ。アードロフ、鳥さんにどうぞごゆっくりって伝えてちょうだい。直ぐに済ませて帰ってくるわ。だからゆっくりしててって、ね!?』
初の予期せぬ来客によほど調子を崩しているのか、そう言う彼女に表情にはやや鬼気迫るものがあった。
アードロフが、わかったよ。と呆れた様に見送ると控えた使用人に連れられてトリアリスは部屋を後にした。
――取り残された一羽と一匹。
これが一介の猫と鳥なら、鳥の状況はやや切羽詰まったものだろう。手負いの上、脱出の手段は無し。おまけに高い所に居るとはいえ、恐らくこの場所は猫にとっては自分の縄張り、勝手知ったる庭に等しい。絶体絶命というやつだ。もうどうしようもない。
『安心していい。僕はこれでも精霊に昇華してからずいぶん経つ。それ以前もその辺の野良猫とは違って悪戯に命を脅かしたことなんてない。それより降りてきて話そう。色々聞きたいこともあるし僕の生命力を分ける必要もあるんじゃないのかな? それにどうやら君は酷くトリアに気に入られてしまったみたいだしね。今後の身の振り方を真面目に考えるべきだ。その点、僕は大いに君の力になれるはずだ』
猫にしては豊か過ぎると言わざるを得ない表情、にっと口角を持ち上げて笑顔を作りながらそう話し、降りて来た鳥と言葉を交わす。
その後、微かな音のノックと共に、やたらと遠慮気味に扉が開き一人の医者が顔をだす。アードロフの顔を見て深くお辞儀をすると直ぐに鳥の治療に入る。
時間が経過し、既に外は暗く、八割りほど欠けた鋭利な先端を有する月は今日も輝いていた。
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