3 本当のキミ

 海で会ったあの日が、本当に私たちの最後のサヨナラの日になった。

 確認したわけでも、誰かが知らせてくれたわけでもないけれど、私にはなんとなくそのことがわかった。

 

 どんなに離れていても私を包みこむように守ってくれていた海君の気配が、近くに感じられなくなったから。

 だからもうきっと、彼はこの世界のどこにもいないんだと思う。

 ――胸が張り裂けそうな思いで、私はそれを事実として認めた。

 

 真剣な顔で貴子にその話をしたら、

「真実って、そっち系の人だったのか?」

 と疑いの眼を向けられた。

 

 特別に霊的なこととか超常現象とかを信じているわけではない。

 けれど本当にそうわかってしまったのだから仕方がない。

 

 それだけ私にとって海君は特別な存在だった。

 ――そういうことなのだと思う。

 

 でももう会えない。

 今度こそ本当に、二度と会うことはできない。

 

 愛梨にも花菜にも案外あっさりとそう伝えることができたわりには、私はかなりまいっていた。

 

 せいいっぱい詰めこんだ大学の講義に頭と時間をフルに使って。

 空いた時間はバイトにも行って。

 掃除も洗濯も食事の準備も、できることは自分でなんでもやって。

 

「真実……本当に妊婦なの?」

 愛梨に何度も確認されるくらい、元気にフル稼働して。

 

 それでもふと何かの拍子に時間が空いたりすると、とてもまともではない自分の精神状態に気がつく。

 

(おいていくほうとおいていかれるほう……どちらがどれぐらい辛いんだろう……?)

 

 夜、布団に入ってもなかなか眠れない時。

 ふいに心に浮かんだそんな考えが恐ろしくて、なおさら眠れなくなる。

 

 料理を作ることは全然苦ではないけれど、それを食べることがとてつもない苦痛だった。

 

「お腹の子供のためにもしっかりと食べないと……!」

 時代錯誤な母が忠告をしてくれて、一緒に食べてくれる愛梨や貴子や花菜がいてくれるおかげで、私はかろうじて食べるという行為を機械的にくり返している。

 

 でも何もかもが虚ろだ。

 心は全然自分の中にないまま、ただ日々だけがすぎていく。

 

「真実がそんな調子じゃ、きっと海君は悲しむよ?」

 愛梨の叱責は、確かにそのとおりだ。

 

 私だって頭ではわかっている。

 私のこんな状態を誰よりも彼が悲しむだろうということはわかっている。

 

 だけどどうしようもない。

 目を閉じることもできない夜と、喉を通らない食事は、自分でもどうしようもない。

 

 笑うこともできなかった。

 彼があんなに望んでくれた笑顔を作る術を、私はすっかり忘れてしまった。

 

「しっかりしな! 一人でもちゃんと産んで育ててみせるって、あんなにキッパリと宣言したのは真実だったろ?」

 

 叱るように貴子に励まされて、私が今まで自分の強さだと思っていたものは、海君に大きく守ってもらっていたからこその強さだったんだと思い知らされた。

 

 どこにいても、何をしてても、いつも安心していられた毎日。

 どれだけ自分にとって、大切な存在を失ったんだろうと今になって悲しく思う。

 

 辛いよりも、切ないよりも、今は悲しい。

 どうしようもなく悲しい。

 

 そう思い至って、私はようやく、今の自分に何が足りなかったのかに思い当たった。

 

(そういえば……泣いてない……?)

 

 海君と本当にサヨナラして。

 もう二度と会えなくなって。

 だけどそれはあらかじめわかっていたことだからと、あんまり悲しむのは胎教にも良くないからと、私は泣かなかった。

 特に我慢したわけでもなく、自然と涙が出なかった。

 

(これって……ちょっとまずいんじゃないかな……?)

 背筋がヒヤリとする。

 

 元々が人より涙腺の弱い人間なのに、これ以上ないくらいの悲しみを前にして、泣くことができない。

 そんな自分の精神状態には、とうに赤信号が点っていたのだと気がついた。

 

(でも……どうしたらいいんだろう?)

 

 今さら海君のことを思ってふさぎこんでみたって、それで元の自分に戻れるとは思えない。

 だからと言って、彼がいない今、いったいどうしたらこれまでどおり生きていけるのかさえわからない。

 

 とりあえずは、

(やれることをやってみよう……)

 そう思った。



 

 あの最後の日。

 海君は確か私にこう言った。

 

「真実さん、本当の俺を探してくれる?」

 

 そう言って悪戯っぽく笑っていた。

 

 あまりの寂しさに、あまりの悲しみに、すっかり心の奥にしまいこんでいたその約束を、私は果たしてみることにした。

 

(うん……そうしてみよう!)

 自然とそう思えた。

 

 海君はいつだって、どうしようもない私のために先回り先回りでいろんなことを準備してくれていた。

 ふとした瞬簡に、私の心をふっと軽くしてくれる術を、彼は確かに知っていた。

 

 だからひょっとしたら、彼の最後の『お願い』は私が思っていた以上に意味があることなのかもしれない。

 

 私はやっぱり今でも、海君を信じていた。

 誰よりも何よりも、自分自身よりも信じていた。



 

 愛梨と花菜と貴子にも協力してもらって、とりあえずはこの街にある高校の生徒たちから情報を集めることにした。 

 

 高校と一口に言っても公立から私立までかなりの数がある。

 元々この街の出身でもない私たちには、その所在地を探すところから一苦労だ。

 

「なあ……そもそもあいつは高校生なのか? 全然そんなそぶりもなかったけれど、本当に高校に在籍していたのか?」

 貴子の疑問はもっともだった。

 

「それに名前もわからないんじゃ……なんて尋ねたらいいのか、難しいよね……」

 愛梨のため息も当然だ。

 

 とにかくこういう感じの男の子でと、いちいち説明することに時間を取られて、なかなか多くの人に話を聞くのは難しい。

 

 それにこのことばかりにかまけてもいられない。

 本来の学業だって、手を抜くことはできないところに来ているのだ。

 

 誰にとっても時間に余裕がない中、私は、

「一人で時間をかけてゆっくりと探すから……みんなはもう気にしないで……」

 と三人の手伝いを断った。



 

 季節はすでに秋から冬へと移り変わろうとしていた。

 少しずつお腹も目立ってきた中、無理せずちょっとした運動代わりに歩くことは、今の私にはピッタリで、私は焦らずにゆっくりと海君の足跡を探すことにした。

 自然とそう思えるようになれたことが嬉しかった。

 

 あんなに神経を張り詰めて、このままじゃどうにかなってしまうんじゃないかと思っていた自分の毎日が、いつの間にか彼がいないことに、少しずつ慣れてきている。

 

 それは胸が張り裂けそうなくらい悲しいことなのに、これから一人で生きていく上では、やっぱりどうしても必要なことなんだ。

 ――とうに納得している自分がいる。

 

 海君のことはどこかで区切りをつけて、もう思い出として大切に抱えていくしかない。

 私がこれからも前を向いて生きていくためには、きっとそうするしかない。

 

 だからその『区切り』が欲しくて、私は探している。

 

 私の記憶の中にしか存在しない『海君』という男の子が、確かにこの世界に存在していたという証拠が欲しくて、毎日少しずつ歩いている。

 

 見上げた空は薄い色で、風も頬に刺さるように冷たかった。

 自分自身というよりは、私の中の彼の分身を労わるように、そっとコートの前をあわす。

 

 二人で過ごした眩しいくらいの季節はこんなに遠くなってしまった。

 あの夏にはもう二度と戻れない。

 

 そんなことを思っても、胸が痛いばかりでやっぱり涙は浮かんでこない。

 だからきっと、嬉しいことがあっても笑顔にもなれないんだ。

 

 こわばった表情の自分を、変えれるものが本当に存在するのだろうか。

 ――彼以外に本当に変えれるものがあるのだろうか。

 

 苦しい思いを抱えながら、毎日少しずつ歩き続けた。



 

 バイトが休みだった日曜日。

 遅い学園祭がおこなわれている少し遠い高校にまで足を運んだ。

 

 お祭り気分に浮かれている高校生たちと、そこに参加している近所の住人たち。

 なんだかアットホームな温かい雰囲気に包まれて、私は本来の目的もそっちのけであちらこちらを見てまわった。

 

 ベビーカーを押した若いお母さんが、小さな子供の手を引いて歩いているのが目に止まる。

 

「かっわいいー」

 高校生の女の子たちに囲まれて、頭を撫でてもらって、小さな男の子はとっても嬉しそうだ。

 

 ニッコリと花が咲くように笑って、それと同時に、風船の紐を握りしめていた大事な左手まで開いてしまった。

 

 あっという間に空へと吸い込まれていく風船に、みるみる表情が崩れていく男の子が泣き出す前に、お母さんがそっと男の子を抱きしめた。

 

 一言二言、何か声をかけられた男の子は、泣くことも忘れてコクコクと頷くと空っぽになってしまったその手をお母さんと繋いだ。

 

 ニッコリと、本当に嬉しそうに笑ってお母さんの顔を見上げている。

 

 立ち止まったままその光景を見ていた私は、隣を通り過ぎる母より少し年配の女性に声をかけられた。

「……大丈夫?」

 

 心配そうに顔をのぞきこんで、見ず知らずの私にハンカチまでさし出してくれたから、そこで初めて私は、自分が泣いていることに気がついた。

 

 その親切な女性に心配をかけないように、小さく笑い返す。

「大丈夫です」

 

 いつの間にか涙が零れていたことも、自然と笑えたことも、私にとっては驚きだった。



 

 近くのベンチに腰を下ろして、もううしろ姿が見えなくなったベビーカーの親子の行ってしまった方向を見ながら、コートのポケットから自分の右手を出して、空にかざした。

 

『ずっと繋いでることにしようか』

 

 まるですぐ隣にいてくれるかのように、彼の声が耳元で響いた。

 

(そうだった……この手はいつだって海君と繋がっているんだったのに……!)

 

 そう思った瞬間。

 これまで音のなかった私の世界にさまざまな音が甦り、色のなかった世界が色とりどりに染め上げられていくのを感じた。

 

(いつも繋いでる……その約束が永遠だってことを、いったいいつから忘れてしまってたんだろう……?)

 

 カラカラに乾いていた心に水が染みこむように、涙があとからあとから溢れ出た。

 

(いつも一緒だよ……だから私は笑える……! 悲しい時には思いっ切り泣ける……! いつだって一人じゃないもの……)

 

 彼がずっと以前に私にかけてくれた魔法をもう一度有効にするために、心の中で何度も何度もくり返す。

 

 その時、お腹の中の小さな命からポンと合図を貰った。

 

 まるで、

(自分もここにいるよ)

 ――そう言ってくれたみたいに。

 

(いつだって一緒だよ)

 ――そう知らせてくれたみたいに。

 

 だから嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。

 海君が『真実さんが笑ってると、それだけで俺は嬉しい』と言ってくれた笑顔のまま、涙が止まらなかった。

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