3 私のとっておきの場所

 懐かしい友達と会ったり。

 小さい頃から慣れ親しんだ景色を見てまわったり。

 私の故郷での日々は、飛ぶように過ぎていった。

 

 どんなに距離的に離れていても、時間が経っても、そこに帰ってくるだけで、スーッと元いた場所に帰っていける。

 故郷というのは、本当に不思議なところだ。

 

「今日は私の秘密の場所に行ってくるね……」

 朝からいそいそと準備に励み、まだ午前中の早い時間にわざわざ大袈裟に宣言して出かけようとした私に、日曜日で家にいた兄が、

「なんだよそれ! 秘密でもなんでもないじゃないか……!」

 と意地悪く叫ぶ。

 私は最高のしかめっ面をしてみせた。

 

「お昼には帰って来るんだろう?」

 台所に立ったまま、背中で話しかけてきた母は、昼食にも私の好きなものを出そうと、今日も朝から頭を捻ってくれている。

 

 そんな生活もいよいよ明日で終わりだ。

 だから今日のお昼も夕食も、心置きなく味わって帰らなければ。

「もちろん! 帰ってくるよ!」

 

 何年も前に買ったつばの広い白い帽子と、白いワンピース。

 お気に入りの服に身を包んだ私は、

「行ってきます」

 と、新聞に目を落としたままの父にもう一度声をかけた。

 

 小さく頷いてくれる様子を確認して、玄関を出る。

 

 明日には、大学のある街に帰るとはとても思えない。

 まるで何年も続くなんでもない日常のごく当たり前のひとコマのような、日曜日の朝だった。



 

 小さな漁船がぎっしりと並ぶ港を通り抜けて、私は海岸沿いの堤防をずっと歩いた。

 もともとが漁業のためだけの港だから、堤防はとても高くて、水面は遥かに低い。

 

 釣りをするにはもってこいだけれど、子供が水遊びをするような浜はどこまで歩いてもまったくなくて、小さな頃、港に遊びにきた私は、

「海で泳ぎたいのに!」

 と駄々をこねては母を困らせた。

 

 そんな私の手を引いて、長い長い時間歩いて父が連れていってくれたのが、私の『秘密の場所』だった。

 

 父に教えてもらったのだし、兄も一緒に行っていたんだから、私だけが知っている場所ではないのだが、いくつになってもそこはやっぱり気持ち的には『私の秘密の場所』だった。

 

 普通の道路からは行けない。

 堤防をずっとずっと歩いて行くしかたどり着く方法がない。

 岩に囲まれた小さな小さな砂浜。

 

 だから、私以外の人はきっと知らないと思う。

 もし万が一知っていても、わざわざ行かないと思う。

 

 兄だって子供の頃に一回行ったっきり、

「あんな遠いところに……誰が行くか!」

 と私の誘いを断り続けている。

 

(だからやっぱり……私の秘密の場所なんだもん)

 

 港からも、町からも、確実に遮断されたその小さな砂浜を私はひさしぶりに訪れ、あまり広くはない空間のちょうどど真ん中に膝を抱えて座った。

 

 大好きな海が、手を伸ばせば届くくらいの距離に広がっている。

 

 あまり広い砂浜ではないのに、不思議なことにこの場所は潮の満ち引きによって、なくなることがない。

 大きな岩に囲われているからだろうか。

 それとも、実際には沖のほうの海とは繋がっていないのだろうか。

 

 どちらにしろ、まるで世界から切り離されているかのように、静かで、いつも変わらずここに存在している。

 

 目の前には海。

 見上げれば大岩に切り取られたような青い空。

 背後には数メートルも高い位置に、私の降りてきた堤防からの階段の降り口。

 

 完全な周りからの孤立は、いつもここに来るたび、私に自分の心を見つめ直す時間を与えてくれ、、落ちこんだ心にもう一度立ち上がる勇気を蓄えさせてくれた。

 

(私は今……本当に幸せだよ……?)

 自分に確認するように、心の中だけで呟く。

 

(大学にまた通えるようになって……友だちも家族もいてくれて……夢に向かって確実に前向きに歩いてる……)

 

 確かにそうだ。

 少し前の私が望めるはずもなかったものを全て、今の私は手にしている。

 

(これ以上……何を望むっていうの?)

 

 それは傲慢だ。

 どうしようもないわがままだ。

 

 両手で顔を覆って、私はそのままうしろにゴロンと砂浜に仰向けに倒れた。

 頭から落ちた帽子が、風に煽られて、少しだけコロコロと転がっていく。

 

 ちょうど私が転がった位置からは、太陽が大岩の陰に隠れて、海よりも青い空だけが、箱庭のような形に切り取られて見えるだけだった。

 

 真っ白な雲が一つ、じいっと見つめていると、かなりのスピードでその小さな空を通り抜けていく。

 

 時間はこんなにも駆け足だ。

 過ぎ去った雲のあとには、次々と色も形も違う雲が続いていくように、私の時間も、この先ずっと止まることなく流れていく。

 

(その中には、きっと新しい出会いだってあるはずだ……)

 

 それは素晴らしいことじゃないだろうか。

 素敵なことじゃないだろうか。

 これまで何度も何度も私の心を救ってくれた、未来への希望や夢なのに、どうして今はこんなに用を成さないんだろう。

 どうしてこんなに色褪せて見えるんだろう。

 

(他の誰かなんていらない! ……いらないのに!)

 私の心は、どうしてこんなに頑ななんだろう。

 

(ここに来れば、少しは割りきれると思ってた……)

 なのにどうして、涙は次から次へと頬を流れ落ちていくんだろう。

 

 砂に吸いこまれていく涙と一緒に、叶わない願いも、苦しい想いも、いっそなくなってしまえばいいと思った。

 ここに全て置いて帰らなければ、本当に自分の心が壊れてしまうように思えた。

 

 だから両手を空にさし伸べて、私はなりふりかまわずに泣くことにした。

 

 空っぽになるくらい泣いて泣いて泣いて。

 海君へのどうしようもない想いを、全部この場所に置いていこうと心に誓った。



 

 それからどれぐらいの時間が経ったのかはわからない。

 ただ泣き疲れてしまって、いつの間にか砂浜に寝転んだまま眠ってしまっていたことだけは確かだった。

 

 太陽の位置が少し移動して、私の顔に直接当たるようになっていたから、目が醒めてもすぐに目を開くことはできない。

 代わりにゆっくりと思考を巡らす。

 

 体中に照りつける日光の熱さから考えると、太陽はきっとまだ高い。

 お昼に帰る約束の時間を過ぎて、兄が怒りながら迎えに来ていないところを見ると、そんなに長い時間眠りこんでいたわけでもないようだ。

 

(よかった……)

 胸を撫で下ろして、ひとまず太陽の当たらない位置に、目を瞑ったまま移動しようかと考えた時、真っ赤に燃えるようだった瞼の裏の色が、突然かげった。

 

(えっ? そんなはずない!)

 慌てて目を開けようとした私は、その時ふいにすぐ近くに人の気配を感じた。


(……誰? お兄ちゃん?)

 眩しさに耐えながら、やっとの思いで薄く目を開いた瞬間、そこに幻を見たと思った。

 あまりにも根を詰めて考えすぎて、遂に自分の頭が壊れてしまったかと思った。

 

 大好きな人の顔がそこにある。

 誰よりも何よりも大好きなあの笑顔が、優しく私を見下ろしている。

 

(……嘘……でしょ?)

 声も出せず、ただ目を見開くばかりの私に、綺麗な瞳が近づいてくる。

 

「真実さん……迎えに来たよ」

 まちがいないその声が耳に響いて、彼のてのひらが私の頬を包んだ瞬間、あんなに泣いて泣いて、全部捨てきったと思った感情が、あっという間に私の心を埋め尽くしてしまった。

 

(海君!)

 どんなにダメだと思っても、彼に向かって腕を伸ばす自分の体を、自分で止めることができなかった。


 

 

「どう? 一日早く来てみました……」

 並んで砂浜に腰を下ろしながら、海君は笑ってそう言った。

 

 迎えに来てくれるという海君に、私は自分の実家の住所を教えていた。

 だから海君がこの町にいること自体はそんなに不思議ではないが、いったいどうして私の秘密の場所に来れたんだろう。

 それも今このタイミングで。

 

 あまりにも驚き過ぎて、なんだか上手く言葉が見つからない。

 

 じっと砂浜を見つめたまま、(どうして? どうして?)と必死に考え続けている私の顔を、海君はのぞきこんだ。

「びっくりした?」

 

 今の私の心を一言で言ってしまうと、つまりそういうことだったので、私は素直に頷いた。

 海君はとても満足そうに微笑んで、悪戯っ子みたいな顔でもう一度笑った。

 

「愛梨さんが……どうせ帰省するんだからって一緒に連れてきてくれたんだ。真実さんのとっておきの場所だからって、ここを教えてくれた……!」

 そう聞いて、私はやっと全てのことに納得がいった。

 

(そっか! 愛梨……!)

 ようやく目の前の海君が幻なんかではないと、確認できた気分だった。

 

 愛梨は私と同じこの県の出身だから、よく一緒に帰省したし、お互いの家に遊びに行ったこともある。

 この場所にも、愛梨だったら以前連れて来たことがあった。

 

「そうか……愛梨か……」

 納得したようにうんうんと頷きながらも、私は内心、心の中で、(困ったな)と思っていた。

 

 海君がこの町に来たら、この場所に連れてこようとは思っていた。

 そしてこれまで聞きたくても聞けなかったことを、勇気を出して尋ねてみようと思っていた。

 

 でもそれらは全部、私の心の中で、明日の予定だったのだ。

 

 今日のうちに、自分の気持ちに区切りをつけて、明日はどんな話でも大きく受け止められるような私になっているつもりだった。

 

 実際にそうなれていたかどうかはわからない。

 だけど少なくとも自分ではそのつもりだった。

 

 それなのに海君は来てしまった。

 予定よりも一日早く、私の前に現われてしまった。

 

 それが嬉しくてたまらないことは事実だけど、困っていることも事実だ。

 

 今の私じゃきっと受け止めきれない。

 きっと海君を困らせることになる。

 だけどゆっくり心の準備をしている時間が――私たちにはもうない。

 

「海君……」

 震える声で呼びかけた私に、彼はいつものように、首を傾げて瞳だけで返事する。

 

(何?)

 

 本当のことを教えてもらったら、その時私たちの関係はどうなるんだろう。

 

 海君は自分のことを話したがらない。

 それを無理に聞き出すということは、こんなに好きで、傍にいたいと思う人を、失ってしまうことに繋がったりはしないんだろうか。

 

(恐い……)

 

 思いあぐねて勇気が出せない私は、その時ふと、あることに思い当たった。

 そしてまるで逃げるように、そのことのほうを口にした。

「私ね、明日帰るつもりだったんだけど……」

 

 海君は、「ああ」というように破願する。

 

 目の前で私を見つめてくれるのは、私の大好きな笑顔。

 この笑顔をもう見れなくなるなんて――やっぱり私には耐えられない。

 

「真実さん、何で帰るつもりだった?」

 

 どんな表情も心に焼きつけておこうとするかのように、ただただ海君の顔をじっと見つめるばかりの私に、突然頭を使うようなことを問いかけたって、咄嗟に答えが出てくるはずがない。

 

「えっと……たぶん新幹線かな……?」

 しばらく考えた末に、苦しい答えをようやく搾り出せた私に、彼は見惚れるくらいに笑って、一枚のチケットを胸ポケットから出した。

 

「真実さんを迎えに行くんなら、これで帰ってきなって、貴子さんがくれたんだけど……」

 そう言って、海君が見せてくれたのは、この町の隣の町から出ているフェリーの予約券だった。

 夜中にその町を出て、明け方早くに、大学のある街に到着するかなり大きな旅客船。

 

「すっごい貴子……! どうしてこんな情報まで知ってるんだろ……」

 感心するばかりの私に、海君がニッコリと問いかける。

 

「真実さん、乗ったことあるの?」

 私は首を横に振った。

 

 フェリーは寝ている間に移動ができるし、とても便利だけれど、一人ではなんだか寂しいような気がして、私は今まで利用したことがなかった。

 それに大部屋に見ず知らずの人たちと一緒に眠るというのも、なんだか気が引ける。

 

(周りに気兼ねしなくてもいいように個室もあるけど、一人では贅沢だし……)

 そこまで頭を巡らして、

(まさか!)

 と息をのんだ。

 

 海君の手から奪い取るようにそのチケットを取って、印字されている文字に改めて目を凝らす。

(やっぱり!)

 

 そこにははっきりと「一等洋室」と書かれていた。

 

(やっぱり個室だ! 海君と二人で……? もうっ、貴子ったら……いったいどういうつもりなんだろう……!)

 

 貴子の例の『世の中全部、自分の思いどおり』というような顔が頭に浮かんで、思わずチケットを握りつぶしそうになった私の手から、海君が間一髪それを取り戻した。

 

「今夜、夜中に出発だよ……真実さん、準備まにあいそう?」

「海君! 乗るつもりなの!」

 叫んだ私に、海君はハハハハッとお腹を抱えて笑いだす。

 

「もちろんそうだよ。何? 真実さん嫌なの?」

 当たり前のように聞き返されると、なんと答えていいのかわからない。

 

「い、嫌じゃないけど……でも……だって……!」

 言いよどむ私の髪を海君はクシャッとかき混ぜて、鮮やかに笑った。

 

「心配しなくても大丈夫だよ……何もしやしないから!」

「そうじゃなくって!」

 

 思わず真っ赤になって、こぶしを握りしめて叫ぶ私に、海君が真顔で問いかける。

「じゃあ何?」

 

 改めて聞き返されても、なんとも答えることができない。

 海君と二人きりになることを、私が意識して意識して、意識し過ぎてるだけだから――。

 

「いいよ……それで帰る……」

 俯いて呟いた私を、海君はまたおかしそうに笑った。

 

(もう好きに笑って……! どうぞ気の済むように笑って……!)

 悔しくって俯く私の頭を、海君がまたポンと優しく叩く。

 

「じゃあ、準備しておいでよ……出発は夜の十一時だから、その前に待ちあわせればいいでしょ? 一日早く連れて帰りますって……真実さんの家に俺も挨拶しに行けたらいいんだけど……ゴメンね」

 悪戯っぽい顔をして、わざとそんなことを言ってみせる海君に、私は慌てて何度も首を横に振る。

 

「そ、そんなことしたら、大騒ぎになっちゃって帰るどころじゃなくなっちゃうよ!」

「そうだろうね」

 おかしそうに笑った海君の瞳は、笑っていなかった。

 

 見ているこっちの胸が痛くなるくらいに、悲しい色をしていた。

 

『いつまでも二人で一緒にいるのなら、そんな日も来るかもしれないけれど……』

 

 いつか、胸が痛いくらいにそう思ったことがあったのを思い出す。

 海君もそう思ったんじゃないだろうか。

 ひょっとしたら私たちは、同じ、叶うことのない願いを抱えているのじゃないだろうか。

 

(ダメだ……今そんなことに気がついたら、きっと海君の前で泣いてしまう……私にはもう……いろんなことが限界すぎる……)

 

 だから私は目を逸らした。

 いつだって見つめられたらそれだけで幸せで、ずっと見ていたいと思っていた海君の綺麗な瞳から、そっと目を逸らした。

 

 なんて簡単なことなんだろう。

 なんて微かな動きだけで、私たちの世界は完全に隔てられてしまうんだろう。

 

 もうわからない。

 彼の考えていることも、彼の抱えている痛みも、目を逸らしてしまった私には何も伝わってこない。

 

 それはなんて寂しいんだろう。

 なんて悲しいんだろう。

 こんなにすぐ傍にいるのに、何もわからない関係なんて――そんなの絶対に、私が望んだ愛じゃない。

 

 見えない何かに抗うかのように、私はもう一度海君の瞳を見つめた。

 私が目を逸らしていた間も、きっと一瞬も揺るがなかったであろう真っ直ぐなその目を見つめ返した。

 

(失くしたくない! 失くしたくないよ……! 他にはなんにも要らないから……海君だけ傍にいて欲しいのに……!私の願いは、本当にただそれだけなのに……!)

 

 我慢できずに、私は彼に向かって手を伸ばした。

 その手を待ち構えていたように、海君がしっかりと掴む。

 

「真実さん……ゴメンね……」

 いつものように謝って、私のことを抱きすくめるから、それに負けないくらいの強さで私も彼を抱きしめ返す。

 

「謝らないでいいよ……海君……お願い! 謝らないでよ……!」

 

 何を口に出して、何を黙っていたらいいのか。

 言葉の境界線さえ、私の中ではもう危うかった。

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