1.応援演説

 繭香が復活し、私たちの『HEAVEN』はもとどおり、生徒会選挙に向かって動き始めた。

 

 投票日までは残り一週間を切っており、貴人が全校生徒から集めたアンケートは『HEAVEN準備室』の机の上で、大きな山を作っている。

 

「これを一つ一つ読むのも、大変だな……」

 剛毅の呟きに、貴人はそれはそれは嬉しそうに笑う。

 

「そう? けっこう楽しいよ……? みんなの夢を読んでるだけでワクワクする……」

 あいかわらず貴人の笑顔は、みんなの気持ちを明るくした。

 その筆頭ともいえる私は、ついつられて頬が緩んでしまう。

 

「でも……その前に選挙に勝たなくちゃだけどね……」

 笑いながら言った私の顔を、隣に座る諒がひどく驚いた表情で見つめた。

 

「めずらしくまともなこと言ってる……」

「どういう意味よ!」

 ついげんこつで思いっきり殴りつけてしまう。

 ひょっとしたら怒るかなとも思ったのだが、意外にも諒はニヤリと笑った。

 

「やっぱり……お前はお前か……!」

 セリフのわりにはその表情が嬉しげで、なんだかドキリとする。

 笑顔があまりにも無邪気で可愛くって、見ているだけで不覚にもどんどん赤面していくのが、自分でわかる。

 

 諒には絶対にそんな顔を見られたくなくて、私は急いで席を立った。

 パソコンに向かっている智史君の後ろに移動する。

 

「今のところ、票数はどんどん開きつつあるといったわところかな……」

 ディスプレイを見たままふり返らず説明してくれる智史君に、順平君がうんうんと頷く。

 

「そりゃあそうだろ! この間の琴美の件は、完全にあっちの人間性を疑われるものだったからな!」

 言っておいて、ハッとしたようにすぐ私のほうをふり返って、両手をあわせた。

 

「悪い……嫌なこと思い出させた?」

 私はニッコリと首を横に振った。

 

「ううん。どちらかといえば、おかげでスッキリしたこことのほうが多いし……ね。繭香?」

 同意を求めるように繭香を見ると、部屋の中央の席に座った彼女は、強い光をたたえたあの瞳を煌かせてゆっくりと頷いた。

 

「ああ、そうだな……」

「本当に……繭香がまにあってよかったよ!」

 剛毅はそんな繭香の隣で、体に似あわない小さなため息を吐く。

 

「もし繭香が出てこなかったら、貴人の応援演説……俺がするはめになるところだった!」

 ホッとしたように胸を撫で下ろしながら、美千瑠ちゃんが淹れてくれたお茶を手に取っている。

 

(えっ? そうなの?)という意味をこめて、私は貴人の顔を見た。

 貴人は肩を竦めて笑う。

 

「他のみんなには断られたからね……」

「だって……俺にできるわけないじゃん?」

 両手を上げてお手上げのポーズを取る順平君に同意するように、可憐さんも美千瑠ちゃんも頷いている。

 

「難しい文章なんて……覚える気にもなれない!」

 おおいばりで言い放つ夏姫と、

「僕とうららはは、表に立つことはしないからね」

 あいかわらず目はパソコン画面のまま、背中で断言する智史君。

 

 私はみんなの顔をグルッと見回して、一人だけまだ発言していなかった彼に、話を振った。

「……玲二君は? いいんじゃないの?」

 

 ビックリしたように無言のまま大慌てで手を振る本人に代わって、思いがけない人が口を開いた。

「玲二はあがり性……大勢の前で話すのは苦手」

 

 うららに抑揚のない言い方で淡々と語られて、玲二君が真っ赤になった。

「よ、余計なお世話だ!」

 

 みんなで大爆笑した。

 そうしながら、ふと考える。

 

(そういえば……私と諒は?)

 私が心の中で思ったことに、いつも先回りして答えてしまう繭香が、唇の端を吊り上げるようにしてニタリと笑う。

 

「琴美はとんでもないことを言い出しそうだからな……それに、相手の演説の内容次第では、諒も琴美もきっとカッとなる」

 それは確かにそうかもしれないが、繭香の言葉の最後の部分がなんだかひっかかる。

 それじゃまるで、私と諒がそっくり同じような人間みたいだ。

 

「一緒にしないで!」

 と叫んだ私の声に、

「一緒にするな!」

 という諒の叫びが見事に重なって、『HEAVEN準備室』には再び大爆笑が起こった。

 

 話題になっている立会演説会の日まであと三日。

 平和といえば、平和すぎる私たちだった。



 

 立会演説会当日の朝。

 教室に一歩踏みこんだ私は、嫌な光景を目にした。

 

 私の机の周りに、黒山の人だかりがこできている。

 一瞬、黒板に中傷まがいの紙切れを貼られた時のあの感覚が甦った。

 

(まさか……!)

 クラスメートの壁をかきわけながら進むと、案の定、私の机の上に大きく引き伸ばされた二枚の写真が貼ってあった。

 あまりのことに、私は全身から血の気が引く思いだった。

 

 写っていたのは、私と貴人。

 あの日、非常階段で私を抱きしめた貴人と、手を繋いで学校を出て行く二人の写真だった。

 

 震える手で、私はその二枚を机からひき剥がした。

 

「やっぱり本物なんじゃない?」

「ええっ、加工じゃないの?」

 

 ざわめきの中、顔を上げると、教室の一番前のほうからこちらをうかがっていた柏木と目があった。

 フッと鼻で笑いながら私に背を向ける態度に、怒りと悔しさで眩暈がした。

 

(どうしてこんな写真……いったい誰が? それも、よりによってこんな大切な日に……!)

 答えはわかっている。

 それが何のためかも。

 それでもたまらず、唇を噛みしめる。

 

(どうしよう! ……どうしたらいいんだろう?)

 いつの間にかそっと私の隣に来てくれた佳世ちゃんに支えられて、立っているのがやっとだった。

 

「ホームルームを始めるぞー早く席に着けー」

 教室に入ってきた担任の呼びかけで、クラスメートたちはそれぞれ自分の席に帰っていったけれど、いつまでもざわついた空気が教室を満たしていた。

 

 私はそれを、居たたまれないような気持ちで感じていた。

(どうしよう! どうしよう!)

 その言葉だけが、私の頭を駆け巡る。

 前の席で微動だにせず座っている諒の背中が、とてつもなく遠く感じた。

 

(諒も見た……? 見たよね……?)

 そのことがなぜだか鋭く私の胸をえぐる。

 

 いつもなら真っ先に私に声をかけて来る諒。

 こんな時、これからどうしようかと一緒に考えてくれる諒。

 その諒が、決して振り向こうともしないことが、全ての答えだ。

 

 私を拒絶するかのような背中を見ていることが苦しくて、私は机に目を落とした。

 

「近藤……この後職員室に来なさい」

 担任が小さな声で私を呼ぶ。

 

「はい」

 俯いたままの私の返事は、教室中に起こった大きなざわめきにかき消されて、担任まで届いたかどうかわからなかった。

 

「琴美ちゃん……大丈夫?」

 職員室の前までついて来てくれた佳世ちゃんに、私はかろうじて笑顔を作り、しっかりと頷いた。

 

「うん……行ってくるね」

 まるで戦いに行く恋人を見送るかのような佳世ちゃんの表情に、ほんの少し救われる。

 心配させないようにしなければならないと、スーッと冷静になることができた。

 

 職員室の扉を開けると、私の担任の横にB組の担任が並んで座っており、その前に背の高い男子生徒が立っていた。

(貴人!)

 姿を見れば、やっぱり胸が痛んだ。

 

 私の担任が、「来たか」といわんばかりに私を手招きする。

 ふり向いた貴人とあわす顔がなくて、私は俯いたまま三人のところへ歩いていった。

 

「だいたいの説明は芳村から聞いた……まあ、あの時は事情が事情だったし、学校を抜け出したことは大目に見てもいい。だがな……」

 思いがけない言葉に私は顔を跳ね上げたが、担任の表情がまだ渋いままなことを目にし、軽く失望する。

 

「ただ……こうなるともう、お前達が生徒会を作ろうっていうのは、諦めたほうがいいんじゃないだろうか?」

 その言葉に、B組の担任も大きく頷いて同意する。

 

「そのとおりよ。以前の噂の件もあるし……もう諦めたほうがいいと思うわ」

「幸い二人とも成績はいいんだし、これからは勉強に専念してだな……」

 ため息を吐きながら担任が言いかけた言葉を、貴人が遮った。

 

「お願いします。最後までやらせてください」

 深々と頭を下げる貴人に、担任が、

「しかしなあ……」

 とボヤく。

 

 それでも頭を上げようとしない貴人の、隣に並んで私も頭を下げた。

「お願いします」

 

 B組の担任が、呆れたように呟く。

「これ以上やったって、あなたたちには何のメリットもないと思うわよ?」

 

 思わず「そんなことはないです!」と叫びそうになった私の手を、先生たちからは見えないように、貴人がギュッとつかんだ。

 

 だから私は大きな声を出して全てをだいなしにしたりせずに、頭を下げたままもう一度、

「お願いします」

 と言うことができた。

 

 二人の担任は私たちの固い意志に降参して、このまま生徒会選挙に向かって活動を続けることは了承してくれた。

「でも、もう問題は起こさないように……!」

 

 渋々つけ足された言葉にもう一度頭を下げて、私と貴人は職員室をあとにした。

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