カフェ・サンドリヨン

依田一馬

第一章 きこえる ――神楽亜衣

きこえる (1)

「最近、元気ないじゃない」


 ふと頭上から声が聞こえたので、神楽かぐら亜衣あいはのろのろと顔を上げた。

 今まで教室の机に突っ伏していたので、その額には制服のカフスボタンの痕が残っている。そんな彼女をからかうように、森永もりなが真理まりはその指先で亜衣の額を突いてやった。


「痕、ついてる」


 その一言に、亜衣はブレザーのポケットから白い小さな手鏡を取り出した。女子高生らしいポップな絵柄が入った手鏡を開き額の状態を確認すると、彼女は「うわ」と恥ずかしそうに顔を赤らめる。予想外に深く痕が残っていたのだ。


「どうしよう、まり。恥ずかしいよ」


 おろおろする亜衣に、真理は「仕方ないな」と言わんばかりの仕草でポケットからなにかを取り出した。彼女はそれを亜衣の左手に握らせ、にっこりと微笑む。


 頭の上にクエスチョン・マークを浮かべながら亜衣が掌を広げてみると、そこには紙に包まれたころんと丸い形の飴がある。しかも、亜衣の好きな味ベスト三には必ず入る練乳味だ。

 亜衣をなだめるには、甘いものが一番。幼馴染の真理は、それをとてもよく知っていた。


「うわぁ、ありがとう。よく覚えてるねぇ、練乳味ってなかなかないのに」

「一体何年の付き合いだと思ってるのよ。いい加減、大人の味も覚えなさいよね」

「たとえば?」

「うーん、黒糖とか」


 それは亜衣から言わせてもらえば「おばあちゃんの味」である。遠方に住む祖母宅に遊びに行くと、亜衣の祖母は決まって黒糖の飴をたくさん亜衣の手に握らせてくる。刷り込みの賜物と言っても過言ではないが、そんな訳で、黒糖味も好きだ。それを口に放り込むたびに、優しい祖母の姿が頭に浮かぶからだ。


 これが普通なのだと思っていたのだが、どうやら森永家ではそうではないらしい。一度その話を彼女にしてみたところ、真理は心底羨ましそうに「私、神楽家に生まれたかったわ」と言われてしまった。一体なにが彼女にそう思わせたのかよく分からなかったが、その点に関しては深く追求したことがない。するべきでないことくらい、幼い亜衣もなんとなく理解していた。


 さて、飴玉ひとつでそんな回想ができるくらいに、亜衣の機嫌は急激に回復した。少なくとも、額にくっきりと残ってしまったボタンの痕は記憶のかなたに追いやられてしまっている。そもそも、額の痕なんか放っておけばすぐに元通りになるのだ。今更気に病んでも仕方がないことなのである。


「それにしても、本当にどうしたの? 休み時間になっても、亜衣ったらぼうっとしちゃって、全然遊びに来てくれないじゃない。私、飽きられたのかと思ったぁ」


 わざとらしい口調で言う真理に、亜衣は苦笑ながら「そんなことないよ、うん、全然」と返す。


 真理がこの口調で話している時は、大抵亜衣を励まそうとしているのだ。


(……また心配かけちゃった。ごめんね、まり)


 だからと言って、彼女に心配をかけさせないような演技ができるほど亜衣は出来た人間じゃない。それくらい、自分でも分かっている。


「じゃあ、何? 悩みでもあるんでしょ」


 真理は亜衣の前の席に座り、机を挟んで亜衣の顔をじっと見つめる。

 いつもならちゃんと目線を合わせることができる亜衣だが、今日は違った。申し訳なさの方が先走って、ろくに彼女の顔を見ることができない。


 夕方の教室には、ほとんど人がいない。先程まで彼女らのほかに数人生徒がいたが、気がついたら彼女らもとっくに下校してしまっていた。今、この教室にいるのは彼女ら二人だけ。そんな状況だからこそ、真理はきっと亜衣が悩みを打ち明けてくれると踏んでいたのだ。


 しかし、亜衣はなかなか口を割らない。傾いた西日が、彼女の肩まで伸びる黒髪を優しく照らしている。陰った表情が、より事態の深刻さを物語っている。


「……私にも言えないんだ?」


 亜衣はゆっくりと首を縦に動かした。


「ごめんね。なんて言ったらいいのか、分からなくて」

「亜衣は昔っから口下手だからねぇ。はっはーん、さては、好きな人でもできた?」


 違う、と亜衣はきっぱりと言い放ち、首を横に振る。それだけは、断じて違う。「そんなに全力で否定しなくても……」と真理を呆れさせるほどに、亜衣の否定する様は緊迫している。


「……もしかして、この間のこと?」


 真理の質問に、亜衣はビクッと肩を震わせた。どうやら図星らしい。

 それを見た真理は、小さくため息をついた。


「何度も言うけど、は、亜衣が悪いんじゃないよ」

「……うん」


 亜衣は既に泣きそうだった。

 真理が言う「亜衣が悪いんじゃない」の一言は、もう何度となく聞かされている。同じことを、真理だけではなく、皆が口を揃えて言ってくれる。それでも、彼女はどうしても納得できないでいた。

 慰めてくれるのは、励ましてくれるのは本当に嬉しい。だが、自分で納得できなければ、この気持ちに終止符を打つことなど出来やしないのだ。


(――分かってはいるけれど)


 そんな亜衣の頭に、真理はぽん、と手を乗せる。そのまま優しく撫でてやると、真理はふと『とある噂話』を思い出した。

 どうして彼女にそんな話をしようと思ったのかは分からない。そもそも、真理は噂話なんてはっきりしないことを無条件に信じたりなんかしない。だが、なんとなく「この話なら亜衣は元気になるかも」と漠然とした思いが脳裏を掠めていったのである。


「ねぇ、亜衣は知ってる? 不思議な喫茶店の話」


 きょとんとして、亜衣は真理に目を向けた。おっ、と真理は嬉しそうに笑う。


「やっと目を合わせてくれた」


 あ、と亜衣が声を洩す。しまった、とでも言いたげな、気まずそうな表情を見せるものだから、その愛らしさに真理は思わず苦笑してしまった。

 亜衣はそのままでも充分可愛いのに、妙に引っ込み思案なところがある。親友として一番心配していることだ。


 いつか、この子にも彼氏ができるとは思うんだけど。なかなか大変そうよねぇ。


 その件は置いておくことにして、真理は「噂だけど」と話を続けた。なんにせよ、亜衣の興味を引くことができたのは収穫だ。


「この学校の近くに、何でも願いを叶えてくれる喫茶店があるんだって」

「喫茶店?」

「うん。ちょっと無茶な願いでも、ひとつだけなら叶えてくれる魔法のお店。だけど、誰でも辿りつける訳じゃないの。そのへんは運かもしれないけれど……、今の亜衣なら行けるかもしれないね。なにせ、眉間に皺を寄せながら悩んでるくらいだし」


 亜衣は苦笑しながら、真理の話に相槌を打った。普段そういう噂話には耳を貸さない真理が、わざわざ話してくれているのだ。こんなにも漠然とした話を。

 彼女は亜衣のことを本気で心配している。そして、どうにかしてやらなくては、と使命感に駆られているのだ。


 それが分かるからこそ、亜衣はまた心が苦しくなった。

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