Once upon a dream~はじまらないはじまりのものがたり~
50まい
10月8日(水)
「きゃっ」
何を考えるでもなく廊下を歩いていたら、どん、と体に衝撃があって、誰かを突き飛ばしてしまったとわかる。いけない。とりあえず謝らなければ。
「ごめんなさい」
「どこ見て歩いてらっしゃるの!?―…あ」
尻餅をついた人に手を差し出しかけて、止まる。緑のブレザーを着込んで、くるくると巻き上げた髪をツインテールにしている少女がこちらを見上げている。吊り気味の眦(まなじり)が、わたしをその瞳に映して燃え上がるようにきつく歪められる。
「うげ、久遠寺揚羽(くおんじあげは)」
隣で、クセっ毛をぴょこぴょこと跳ねるポニーテールに括った友美(ともみ)がそう言って、嫌そうに舌を出した。
「―…あら、これはこれは。高波海月(たかなみみずき)さんじゃありませんこと?」
久遠寺揚羽はわたしの手を払いのけ自分で起き上がると、これ見よがしにゆっくりとした動作でスカートの埃を落とす動作をする。
「―で、謝って下さる?」
「オイ!さっき謝っただろ!?」
わたしのかわりに血の気の多い友美が答えた。
「そうかしら?聞こえませんでした。相手に聞こえない謝罪などただの独り言と等しいとご存じないの?ちゃんと、ヒガイシャのわたくしにも聞こえるように、セイシンセイイ謝って下さるのが礼儀じゃ無くて?」
「海月、いいよ、行こ。こいつ、海月にイチャモンつけたいだけなんだから。こないだのテストで海月に負けたこと、まだ根に持ってやがるんだよ」
友美がわたしに囁くふりをして、揚羽に聞こえるように言った。当然揚羽も黙ってはいない。
「まぁ!あれはたまたまですわ。わたくし体調が優れませんでしたもの。それで勝ったつもりでいらっしゃるなんて高波海月さんもズイブンとワイショウな方ね」
「ふーん?じゃあ言わせて貰うけど、おまえ、いつ体調が良い日があるんだろうなぁ?入学してからたッたの一度も海月に勝ててないくせに」
それは久遠寺揚羽にはタブーだったのだろう。顔を真っ赤にさせた挙げ句、言葉も出てこないようで、ぶるぶると震えていたかと思えば、「覚えてらっしゃい!呪ってやるから!」と捨て台詞を吐いて走り去ってしまった。
「おーおー負け犬が吠えた」
勝った友美はご機嫌だ。口笛をヒュウと吹いてからわたしの肩を抱き、ゆさゆさと揺さぶる。
「あいつもさーなんでいつもいっつも海月にからむんだか。ヒマなんだかねぇ」
「…でも、ぶつかったのはわたしのほうだから」
「え?まさか海月、久遠寺揚羽に悪いとか思ってる?むしろ踏みつぶすくらいでも足りないと思うけど…あいつに何されたか忘れたわけじゃないだろ?」
何されたか…机の中にヘビが入っていたことだろうか。でもわたしは生き物の中でヘビが一番大好きだから、真っ白なあの子は丁重にお持ち帰りさせて貰って今や家族の一員だ。かわいいし買う手間もお金もいらなかったし大大大満足だ。それとも教科書の偉人の顔にちょびヒゲや「イモ娘。」などの吹き出し付きの落書きがあった件だろうか?でも一切勉学に支障は無かったし…。
考え始めたら枚挙(まいきょ)に暇(いとま)が無いが、でもどれもこれも嫌がらせとしてはどこか抜けている、と言うか…子供のお遊びだと思えば全く気にならない。
「まぁ、あいつはバカだけどさぁ」
「それより友美、友美の好きな携帯小説更新されてた?」
「海月ッ!それが!今回急展開でッ!」
話を変えたら一瞬で久遠寺揚羽のことなど頭から吹き飛んだらしい友美の小説トークを聞きながら、わたしたちは教室へ戻る。
「ところでその小説ってどんな話だっけ?」
「ええっ!ひどっ!前話したじゃん!」
「ごめんね」
「むーいいよ。海月だから特別。許す。『銀とき』はね、設定はよくあるものなのよ。中世ヨーロッパに似た異世界で何不自由なく暮らしていた主人公が、ふとある日夢を見て気づくの。この世界は、自分が前世である『日本』で生きていた頃にやったゲームの中の世界だって」
「ま、待って、待って友美」
「なに?」
「その設定、すごくない?なんか色々こんがらがってない?」
「え?海月は小説見ないからなァ…今の携帯小説もライトノベルも、こんぐらい普通よ。むしろこっから自分が転生したのが主人公じゃ無くて悪役令嬢とか、殺される役とか、そういう属性がいろいろついてくんだから」
「う…そうなの?でもわたし小説は読むよ」
「あれ、読んでたっけ?ちなみにラインナップは?」
「夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、あとは…」
「どぉぁあーストップストップ!なんじゃその夏休みの読書感想文の宿題みたいな面々は!カビ生えきったオッサンばっかじゃ無いの!あんた若いんだから、そんなズーンと暗い話ばっか読んでないで、もっとキラキラ花びら舞い散るライトノベルを読むべきよ!時代はライト、ライトなのよ!」
「…近代文学、面白いよ」
「そりゃあ、面白くなきゃ読んでないでしょうとも。でも、読むんなら恋愛小説!ここは譲れません。そんで一緒に恋バナで盛りあがろ。あーあ!私にも王子様現れないかな-!」
友美はすねたふりをしながら教室のドアをやや乱暴に開けた。
あ。
わたしは友美の腕を引く。友美がおよ、と言うように引かれるがままよろけて、わたしの胸にとん、とぶつかった。
その横を、のっそりと大きな影が通る。光を遮る大きなシルエットはまるで熊のようだ。友美もやっと自分が誰かにぶつかりかけたということに気がついたらしく、わたしと同じようにその人を見上げる。
彼は、ちらりと一瞬だけ、射抜くような強い眼光でわたしを見てすれ違ってゆく。
「…ひゃ~すごい威圧感。海月ありがとね」
隣で友美が感動したようにそう言っていた。
「あいつも、顔だけ見れば王子様と言っても差し支えないんだろうけど…二年の教室に何しに来たんだろ」
「友美、知り合い?」
「えっ、まさか海月知らないの!?」
こくりと頷けば、あちゃーと大袈裟に友美は自分の手を額に当てた。
「一年の由路翔。本当に知らない?」
「えっと、ユロショウってそれ名前?本当に知らない」
「あんな有名人、いや目の保養を…ッ!」
何かよくわからないが友美は横でビッタンバッタン悶えている。
「いや、でも、海月らしいと言う他はないわ。私そんな海月が好きよ」
「ありが、とう…?ねぇ、その人って知らないと不味い?」
「ううん、全然マズくない。海月は私含む学校中の女子みたいなミーハーと違ってそのままでいて」
ぎゅっと抱きしめられたからそっと抱きしめ返す。
「海月、かわいいっ!」
「友美の方がかわいいよ…」
そんなふうにじゃれていたら授業開始の鐘が鳴ってしまった。今回の授業は英語。わたしの不得手とするところだ。日本国に産まれ、日本語にどっぷり浸かりきってしまっている身としては、どうしても英語にあまり興味が持てない。勉強だから、しかも主要五教科のうちでも重要度の高い科目だから勿論勉強自体するはするのだけれど…。
なんてことを考えていたら、いつの間にかうとうととしていたらしい。
夢を見ていた。夢の中で「これは夢だ」と自覚している奇妙な夢。
目の前に、ピンクの大きな四角のワクがある。それはまるでビデオカメラを覗き込んでいるように、わたしの視界の端から端までを覆っている。左上には、10月15日(水)と小さく表示されている。下半分は、何かシートでもかけたように少し不透明になっている。
『海月、起きなさい』と声がして、父の顔がその四角のなかに映る。同時に、その視界の不透明な部分に「父:『海月、起きなさい』」と出た。それがどういうことなのか、夢の中だからかわたしは頭がぼーっとして深く考えることができない。まるで自分の体なのに自分じゃ無い人が操っているような感覚で、わたしの視界は勝手に移動し、トントンと階段を降りながら父に連れられてダイニングに来たようだ。
『おはよう、海月』。母の声がして、これまた下の部分に「母:『おはよう、海月』」と表示される。ぼけっとした頭でふとこれは便利だと思う。他人の発言を可視化できるようになれば、聞き間違いという状況は存在しなくなる。友美に聞かれたら「ホント海月ってずれてる。ツッコむとこ、そこ?」と言われそうなことを考えていると、母が次の言葉を発した。『じゃーん。今日は、豚汁です。昨日おばあちゃんからいいゴボウ貰ってね、早速お味噌汁にしてみたのですえっへん』と言った。如何にも母が言いそうなことだ。下にも当然のように「母:『じゃーん。今日は、豚汁です。昨日おばあちゃんからいいゴボウ貰ってね、早速お味噌汁にしてみたのですえっへん』」と出ている。ああ便利だな、これ。授業でも採用されないかな…授業?
「…Of course.You said so yoursekf:Once upon a dream!」
ぱちんと水泡がはじけるように、現実の音が戻ってくる。重い頭を働かせようと頑張るけれど、そうすぐには動いてくれるわけも無い。それでもようやく授業中だったことを思い出して、くっつきたがる瞼を引き離し引き離し先生を見たけれど、わたしの視界にあのピンクのワクも無ければ、先生の言ったことを文字として表してくれるあの半透明な部分も無い。ああ、便利だったのになぁ…やっぱり夢は夢かぁ。
多少残念に感じながらも、わたしは普段夢を見ることが少ないので、その時は珍しくはっきり覚えている夢をみた、というぐらいの認識だった。
そして家に辿り着く頃にはそんな夢を見たことなどすっかり忘れてしまっていた。お風呂から出たほかほかの気持ちよさで、わたしはついベッドの上で微睡んでしまった。明日の、予習、しなきゃ…まだ寝ちゃダメ…と理性が引き留めるけれど、体は眠気に引きずり込まれてゆく…。
そしてまた夢を見た。ピンクの四角い枠の左上に、10月15日(水)と出ている。確か昼間の夢も同じ場所に同じ数字が記されていた気がする。これは誰がどう見ても間違いなく日付だろうから、授業中に見た夢の続きかな、とぼんやりした頭で思った。ただ場所が違う。見慣れた家では無く、わたしは道を歩いているようだった。不意に、目の前のワクの中央にぽつん、と小さな黒猫が映った。そして、透明の部分に、初めて台詞じゃ無い言葉が出てきた。「子猫が道路に飛び出してきた!」とある。その下に、「飛び出して助ける」と、「見て見ぬ振りをする」という言葉が縦に並んでいた。わけがわからずただ見ていると、ぴこん、という音と共に、「飛び出して助ける」の横に小さな三角が出た。
すると、ぐるりと視界が回った。キキーーーーッ!という激しいトラックのブレーキ音と共に、「???『危ない!』」と文字が出る。
わたしの視界は黒一辺倒に塗りつぶされている。死んだ…のかな、と思っていたら、がさ、という衣擦れの音と共に、視界は元に戻り、人でも殺してきた後なのかと思うぐらい怒気を立ち上らせている顔がドアップで出てきた。わたしは驚いた。あれ、この人、見覚えが…。
『何をやっている!死にたいのか』
「由路翔:『何をやっている!死にたいのか』」と出たのを見て、あっと思った。ユロショウ。そうだ、今日、教室ですれ違った人だ。友美がそんな呪文のような名前を言っていた気がする。さらさらの黒髪に眦のつり上がった瞳。「イケメン」好きの友美が目の保養と言っていたから、この人は「イケメン」なんだろう。わたしはこのひとがイケメンだろうがイケメンじゃ無かろうが特に興味ないけれど。
『たかが猫一匹に命をかけるなど、頭がおかしい』
けれどこの言い草にはカチンときた。普段、わたしは友美や一般的な女の子に比べると感情が表に出ない方だと思うけれど、これはない。命は、たかが、って言ってしまって良いものじゃ無い。ちょうど良いことに、「由路翔:『たかが猫一匹に命をかけるなど、頭がおかしい』」と出た下に、「すみません…」と、「命をたかがって言ってしまえるあなたの方が頭おかしい」の二つが並んで出た。後者!…後者!と念じていたにも関わらず、無情にも、ぴこん、と音がして「すみません…」の後ろに小さな三角マークがついた。
すると、きゃらりらら~んと妙な音がして、由路翔の顔の横に大きなハートが出てきた。え、何これ。比喩的な意味で無く人を食ってきたような由路翔の悪人顔と、真っ赤なハートの組み合わせと言うのが、笑えるぐらいシュールだった。
『…あ、いや、俺も強く、言い過ぎた…』
視線を彷徨わせ、少しだけ後悔するようなふりをする由路翔。でもわたしの心は全然揺れない。何度も言うようだが、たかが猫一匹、みたいな他者を貶めることを言う人間がわたしは嫌いだ。卑下される対象がわたしならばなんの感慨もわかないが、プライドとか見栄とかそういう下らないもののために、自分よりか弱いものをあえて貶(けな)す、というところが全く以て気に食わない。わたしは普段しつこく絡んでくる久遠寺揚羽ですら嫌いでは無い。別にそれは優しいとかプラスの感情からでは無くて、わたしは我ながら冷めているところがあって、人に嫌いという感情を持つほど関わろうとしないからだ。でも由路翔は満点で嫌い認定。わたしの人生初の嫌い。拍手を送ってあげたいくらい。
すると、ぱららら、とページがめくられる音がして、左上の数字が変わる。11月21日(金)となった。場面も変わり、それでも目の前には由路翔が居る。うげ、とわたしは顔を歪めた。どうやらわたしたちは学校にある中庭の木陰に居るようだった。
彼は張り詰めた顔をしている。何かにひどく緊張しているようだ。そして、結構な時間が経ったのち、ようやく口を開いた。
『…海月。もう、わかっていると思うが…おまえのこと、好きだ』
はぁ?
わたしは戦慄した。なにを言っているの、こいつは?
頭でも打ったの?
しかし悪夢は続く。「由路翔:『…海月。もう、わかっていると思うが…好きだ』」の下に、文字が打ち込まれる。「わたしは、好きじゃ無い」と、「うん…わたしも好き」の二択だ。いや、二択では無い。これは断固とした前者一択だ。後者は考えるだけで全身に原因不明の震えが来る。キライキライキライキライキライ!と激しく、そうこんなに神に祈ったことは無いんじゃ無いかと思うぐらい必死で願っていたのだけれども、ぴこん、と音がして、残酷にも三角マークが…「うん…わたしも好き」の、よこ…横に…。
「いやーーーーーーーっ!」
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