さっちゃん
僕のさっちゃんは、普通より少しだけ小さく産まれた。小さいから、少しの間だけ特別な病室で母親の胎内と同じ環境をつくる透明なケースの中で育った。千人に一人以下の確率で産まれた瞬間から特別な存在だから、僕と妻だけでなく。看護士さんや先生にまで強く愛された。
僕のさっちゃんは、普通と呼ばれる子供達より少しだけ幸せ。その子達が感じる不幸を大きな出来事として感じることが出来ないから、さっちゃんは不幸が少ない分だけ幸せ。
僕のさっちゃんは、困ったり失敗したりしたときに自分の頭を軽く叩いて舌を出す。感情を表現するのが苦手なさっちゃんの、そんな瞬間を見れた日は幸せ。その日一日がラッキーデーとなる。
僕のさっちゃんは、今年で小学校を卒業する。産まれる少し前に先生から伝えられた命の期限を毎日更新する。平坦な毎日に魔法を掛け続けてくれるさっちゃん。僕は感謝を込めて毎日強く抱き締める。
【 野田卓巳 】
出張からの帰り道は酷い渋滞だった。
「あぁ、俺だけど。もう直ぐTSUTAYAの前だよ。そう、でも渋滞で車が全く進まないの」
薄暗くなり始めた通い慣れた通勤路。角を曲がれば自宅までは直ぐだった。僕は前進も後進も出来なくなった渋滞の中でスマホを片手に動き出す気配すらない渋滞の先に目を凝らす。
「さっちゃんは?」
振り返って、後部座席に置いてある大きな包みに目をやる。淡いピンクの包装紙の下には白い熊の縫いぐるみ。最近人気のご当地キャラで、さっちゃんのお気に入りのキャラクター。
「そうなんだ。きっと送迎バスもこの渋滞に掴まってるんだね」
妻に答えて、さっちゃんの無邪気な笑顔を想像する。さっちゃんはきっと抱き締めた白い熊に名前を付けてずっと大切にするに違いない。
「うん、お腹すいたから。さっちゃんが先だったら、ご飯から食べるよ。じゃ、後で」
通話を切ってからネットで渋滞の具合を検索してみる。片側二車線のさして大きくもない通り。渋滞の原因が解る筈もなく、諦めてスマホをポケットに締まった時だった。車の脇を、さっちゃんと同じスイミングスクールに通う明莉ちゃんのお母さんが走り抜けて行く。確か、明莉ちゃんの自宅は進行方向と逆の筈。嫌な予感がして、僕は車から降りると大きな声で呼び掛けた。
「どうしました?」
明莉ちゃんのお母さんは一瞬立ち止まって声の主を探すような仕草をしたが、直ぐにそれももどかしいような感じで再度走り出した。
「明莉ちゃんの……」
もう一度呼び止めようとして止めた。急いでいる様子だったが、車は渋滞の中で目的地まで乗せてやることも出来ない。ただ、車の外に出たことで微かに聴こえてくるサイレンが、明莉ちゃんのお母さんが走る姿を見た時に感じた嫌な感覚を甦らせる。考える必要も無いことを考えさせる。僕はスマホを握り締めたまま、ふらりふらりとサイレンの音が木霊する方へ歩き始めた。車と車の間を擦り抜けるように進む僕に奇異の視線が集まっているような気もしたが、どうでも良かった。
そして、一ブロック進む頃には僕は全速力で走り出していた。大きくなるサイレン。重なる不快な音が緊急車両が一台では無いと告げている。事故なのだとすればかなりの大事故なのは間違いない。僕は自宅に向かうためには曲がらなければいけない角を無視して、その先のサイレンの音が鳴り響く場所を目指した。送迎バスのルートがサイレンの方角に重なっている。乱れる呼吸と加速していく不穏な予感。明莉ちゃんのお母さんが走り抜けた時には、その表情など見ていなかった筈なのに必死の形相が頭にこびりついて離れない。
「さっちゃん……」
喘ぐように吐き出して走り続けた。
そして、渋滞の切れ目は突然現れた。警官達は到着したばかりらしく数人で赤く点灯する誘導棒をしきりに振りながら野次馬を牽制し、黄色のテープにkeep outと書かれている規制線まで追いやっている。その奥にも数台の救急車両が停車していて隊員たちが走り回っていた。僕は、野次馬の一人に話し掛けた。
「事故ですか?」
「良く分かんないんだけど、小さい子が乗ってるバスの中に男が立てこもっているみたいだな」
初老の胡麻塩頭の男性が僕の問いに何度も頷きながら腕を組んで答える。その表情には緊迫した感じは微塵もなくて、テレビの特番かなにかを眺めているように空々しい。僕は規制線の最前列まで野次馬達を押し退けて進んだ。
「事故ですか? 子供達が乗ったバスですか?」
目の前の警察官に訊ねる。僕の他にも同じような質問を繰り返す野次馬がいて、警官は無言で僕と野次馬達を少し押し返した後、「下がって」と短く答えた。
「子供が、娘が乗っているバスかも知れないんです」
僕が繰り返すと、警官は騒然とする奥の方を見詰めてから、「下がって」ともう一度答えた。僕も身を乗り出して奥を睨み付ける。警察車両で封鎖された通りの奥の救急車両から更に奥に走っていく警官や救急医達。だが、角の建物が邪魔をしてそこから先が見えない。咄嗟に以前仕事で近くのビルに打ち合わせに来たことを思い出した。少し後戻った場所にあるそのビルは八階の喫煙室から下界が細かく見渡せた。
急いで身動きすら出来なくなり始めた野次馬の壁を押し退けて来た道を取って返した。
直ぐに目的のビルに着くとエレベーターに飛び乗り、昇降ボタンを連打した。「早く、早く」心の中で叫ぶ。それに抗うようにエレベーターの位置を知らせるランプが上階からゆっくりと瞬きを繰り返し降りてくる。到着したエレベーターに飛び乗ると八階のボタンを叩いた。
それにしても、事故であるなら規制線など必要だろうか。初老の男が言ったようにバスジャックのような事件ではないのか。焦りが不安を呼び、不安が更なる焦りを煽る。
僕は八階に到着すると喫煙室の窓ガラス越しに、さっちゃんが乗るバスを探した。道路から視界を遮っていた建物を探す。そして、二階建てのその建物横の細い通りに警察車両に前後を挟まれて身動き出来なくなっているバスを見付けた。スカイブルーの車体。間違いなく、さっちゃんが通うスイミングスクールの送迎バスだ。慌ててスマホを取り出し妻に連絡を取る。騒ぎに気付いていたのか着信と同時に妻が出た。
「さっちゃん。さっちゃんのバスが」
どうしたの? と、繰り返す妻に返す言葉が上手く出てこない。もどかしくて、喫煙室に設置されている分煙機のテーブルを掌で叩く。
「さっちゃんが大変な事になってる。いや、分からない。とにかく、君も直ぐに来い。場所は……」
ビルの名前と場所を妻に告げると、僕は喫煙室の窓ガラスに顔を擦り付けるようにしてバスを覗き込んだ。ビルの上から見下ろしているので細かな事は分からない。だが、バスからも警察車両からも人が動いている気配はしない。それでも、更にその外側では警官や救急医と思われる男達が走り回っている。
普通、事故であれば大小関係なく事故を起こした車体の側に警官や救急医は居る筈で、況してや渋滞を引き起こすと分かっていてバスの前後を挟み込んで動けない状態にするなど考えられない。
「なんだよ……なんなんだよ、これ。なにが、どうなってるんだ……」
誰にともなく呟いて頭を抱えてしゃがみ込む。頭の中を淡い痺れのような感覚が走る。考えようとする意識が緩慢と動いていて、酷く漠然とした集中しか出来ない。頭を過るのは送迎バスの座席で小さな身体を更に縮めて、さっちゃんが白い熊の縫いぐるみを握り締めている映像。その顔に表情は無い。
「大丈夫なのか?」
不安を言葉にしたことで焦燥感が加速度的に増していく。
僕は妻を待つことすら出来なくて、その場を離れた。エレベーターが下の階から昇ってくることも我慢出来なくて階段を数段飛ばしで駆け降りる。縺れる足を必死に前に突き出して七階……五階と駆け降りる。一階のフロアーに繋がる踊り場に出る直前に足を踏み外して僕は壁に頭から激突した。
「あなた! 起きて!」
一瞬、脳震盪を起こしたのか妻が僕の肩を必死に揺り動かし叫んでいた。
「あなた!」
妻が泣き叫びながら僕にしがみつく。
「早く……」
僕は妻の肩に手を掛けて立ち上がった。
【 小森悠二 】
18時03分 (現時刻より20分前)
警察への第一報は市内のスイミングスクールの送迎バス待ちをしていた主婦からだった。「送迎バスが子供を降ろさずに走り去った。その際に運転手を怒鳴り付けている男達を見た」その後、同じような通報が連続する。
18時10分頃
署からの連絡を受けた巡回車両がバスを発見。赤色灯とサイレンを鳴らして停止を促したが送迎バスは止まらなかった。
18時15分頃
追跡車両からの連絡で署に帰る途中だった俺達は、狭い路地で前後を挟み込むようにしてバスを停止させることに成功するが、犯人達は興奮していてバスに近づくことが出来ない。
そして、18時23分(現在)
早く決着を着けなければならない。
考えながら俺はバスの窓から見える男達を睨み付けた。長身で金髪の男の方が、バスの運転手になにかを怒鳴り付けている。恐らく警察車両をバスで押し退かせと命令しているに違いない。もう一人の太った迷彩服の男は後部座席に集めた子供達に手にした黒い塊を向けている。それが、何なのか今の段階ではハッキリとしないが仮に拳銃のような物だとすると一瞬で子供達の命が奪われる事になる。犯人達の要求はいまだ分からない。
「興奮してるな……」
俺と同じように送迎バスを睨み付けていた古里警部が銀髪に近くなった頭を掻きながら唸るように呟いた。
「はい」
「小森……お前は後方に下がってろ。俺が話してみる」
古里警部に言われて俺は押し黙った。警察は徹底した階級社会で、警部補である俺が古里警部の命令に背く事は許されない。だが、それでも目の前のこの事件は他とは違う。
「ですが!」
「分かってるよ。応援が来ても、お前を外したりはさせない。ただ、あいつらは今、酷く興奮している。今も運転手に怒鳴り続けているし、また無理矢理にでもバスが走り出したら、もっと面倒な事になる。時間を稼がないとな。まぁ、こんな時は、若いのよりジイサンの方が相手も素直に話を聞く」
古里警部が俺の肩を軽く叩く。俺は唇を噛み締めながら頷いた。慣習として、事件.事故に関係なく肉親の捜査には関わる事が出来ない。古里警部は俺がバスを見た瞬間に無意識に漏らした娘の名前と、妻に娘の所在を確認した電話の内容から明莉がバスの中にいることを悟ったのだ。
「大丈夫だ」
古里警部は自分自身に言い聞かせるように言ってから上着を脱いだ。細いが剣道で鍛え上げられた身体がシャツ越しにでも分かる。だが、私服の捜査では許可が出た時にしか拳銃などは携帯しない。凶悪犯罪であっても現行犯で逮捕する場合、警官は常に危険と隣り合わせだ。
「気を付けて下さい」
俺の言葉に片手を上げる古里警部。そのまま、両手を上げて大声で犯人達に呼び掛けながらバスに歩みよる。
「中の君達! 少し、話をしよう! 私は丸腰だ、何も持ってはいない。話をしよう!」
バスの直ぐ側まで近付いた古里警部に、運転手側の金髪の男が窓を開けて怒鳴る。
「近付くなって言ったよな! 子供を殺すぞ!」
「要求はなんだ ? 先ずは、それを聞かないとマズいだろ?」
「俺達の要求?」
金髪は暫く考え込むような感じで押し黙ると、迷彩服の男に何かを話した。直ぐに迷彩服の男が車内のカーテンを閉め始める。
「俺達の要求は金じゃない」
全ての窓から中の様子が窺えなくなったのを確認してから金髪が言った。
「金じゃないなら、なんだ?」
古里警部が更にバスの真横に歩みよる。半分だけ開いた窓の横に並んで見上げながら訊ねる。
「皆殺しだよ!」
金髪が叫んで、開いた窓から拳銃を突き出した。それに気付いた古里警部が頭を低くしながらバスから離れる。
一発、二発、三発。続けざまに乾いた銃声が響いた。俺は咄嗟にその場に腰を落として、直ぐに古里警部に視線を向け直す。古里警部は路面にうつむきに倒れていて、白いシャツの腰の辺りが既に紅く染まっている。
「古里さん!」
駆けよって肩に手を回す。既に意識が無いのか古里警部が反応することはない。
「どうせ、逃げられないんだろ。だったら皆殺しにするだけだ! 初めから皆、殺すつもりなんだからな。弾も腐る程、持ってる。誰かが近付けば殺すぞ」
金髪は怒鳴り散らすと、俺と古里警部に向けて拳銃を撃った。一発、二発。躊躇いなく向けられている殺意。俺は古里警部の両脇に手を入れて、引き摺るようにしてビルの陰を目指した。通常なら数秒で移動できるような距離だが、焦りから古里警部を上手く移動させる事が出来ない。三発、四発、弾丸が耳元を掠める。音とは呼べない気配のようなものが猛烈な速さで俺の真横をすり抜けていく。
「明莉、必ず助けるからな! 少しだけ待ってろ!」
俺は目の前の古里警部を見詰めたまま叫んだ。叫びながら恐怖に固まってしまいそうな手足を動かし続けた。そして五度目の銃声が鳴り響いた。
「明莉!」
俺は自分の身体が真後ろに引き倒されるような感覚の中で、もう一度叫んだ。
【 野田卓巳 】
ビルとビルの狭い隙間を、僕は無我夢中で進んでいた。妻も上着の肩が建物の壁に擦れて汚れている。それでも、遅れまいと必死に着いてくる。
「助けなきゃ……私達が助けなきゃ……」
妻は呪文のように呟いている。そしてその意味を、僕は痛いほど理解していた。
さっちゃんが生まれて、少しした頃。交通事故で義父が死んだ。男手一つで育てられてきた妻には過酷な出来事だった筈だ。酷いのは事故の当事者が現場から逃げた事だ。目撃者の証言で直ぐに犯人の車両は特定されていたにも関わらず警察が逮捕に向かう迄には数ヵ月の時間を要した。初動捜査で証拠を見逃し、それを隠蔽しようと捜査員の一人が故意に目撃者の証言をもみ消したのが原因だ。そして犯人はいまだに捕まっていない。それでも、僕達がその事を知ることが出来たのは妻が出した事件詳細の情報開示が認められた昨年で、それまで僕や妻は警察の怠慢による失態で犯人が逃げ続けている現実があることも知らなかった。警察は信用出来ない。国家権力を背景に傲慢な保身だけを求めるエゴイストだ。
僕達は警官達が道路面だけに強いた規制線の抜け目を走り続けている。警察の権限が及ばない敷地内の隙間を駆け抜けている。決して自分達で何かが出来るとは思わない。けれど、警察は保身の為に何をするか分からない。信用出来ない。さっちゃんに良くないことが起こっているなら、せめて何が行われているのか確認したい。何も出来ないとしてもじっと待っていることは出来ない。
ビルの上から見えていた角の建物の裏手に回り込んだ時に、怒鳴り声と聞き慣れない音が響いた。一回、二回と続けざまに鳴り響いた破裂音。大きな爆竹を筒の中で爆発させたような一方向に突き抜けていく乾いた音。聴いたことも無い筈なのに銃声だと確信した。
「さっちゃん!」
僕より先に、妻が喘ぐように叫ぶ。僕は妻の手を引いて壁と壁の隙間を走る。
その間にも、三回、四回と銃声が続く。
やっと、壁の隙間から道路面に飛び出した時に五回目の銃声が聴こえて、直後に男が首もとから大量の血液を噴き出しながら真後ろに倒れるところを視界の真ん中に捉えた。
「明莉!」
男は、もう一度叫んで派手にアスファルトの路面に後頭部を打ち付けた。
「明莉ちゃんの!」
妻が叫びながら路上に飛び出した。僕は一瞬妻の腕を引き戻して壁の隙間に身を隠そうと試みた。
「離して!」
僕の手を振りほどいて妻が男の横に駆け寄る。僕もそこに駆け付けると男を抱き抱えた。
「知り合いなのか?」
「明莉ちゃんの、お父さん」
妻とのやり取りの合間に後方の安全圏から聞こえる警官達の「離れろ」の連呼。公僕としての自覚の無さに呆れ返る。警察が市民の為に命を投げ出さないから僕らが助けていると言うのに。
「動くな!」
直ぐ目の前に金髪の大男が拳銃らしきものをこちらに向けて立っていた。状況から考えて金髪の男が騒動に関係しているのは間違いない。僕は咄嗟に足下の男を跨いで、金髪の男に体当たりをするような体勢で突進した。
「逃げろ!」
妻に叫ぶ。金髪の腰辺りにしがみつくように両腕を回す。猛烈な力で身体ごと宙に投げ出されたような感覚がして、実際に僕は腰から強かに路面に打ち付けられた。激痛に意識が遠退く。
「殺すぞ、コラ!」
金髪の怒鳴り声と妻の悲鳴が聞こえて、その直後に下半身に痺れに似た強い衝撃が走った。瞬間的にその部分に視線をやる。右足の太股辺りから湧き出るように鮮血が溢れ出す。
「逃げろ!」
不思議と痛みに呻くよりも先に、妻に叫んでいた。
「黙ってろ!」
金髪に顎を蹴り上げられて僕の意識は飛んだ。
【 小森悠二 】
「早く、中に入れろ」
金髪の怒鳴り声に、迷彩服の男が俺の両脇に手を入れてバスの階段を引き上げる。覚醒し始めた意識は漫然と現在の状況を垂れ流す意味のない映像のようで、俺は呻きながら手足をバタつかせた。刹那、左肩の辺りに激痛が走ってそこに視線をやると、黒いスーツの上からでもその部分から血が噴き出し続けているのが分かった。
「ヴァッ……」
呻き声にもならない声を出して傷口に手をやる。左肩の上部が、初めから無かったかのように欠損している。さっきの銃撃で抉り取られたに違いなかった。痛みを堪えながら辺りを見渡す。運転席にはハンドルに倒れ混む運転手。フロントガラスに飛び散った血液や脳のような塊。一目で殺害されているのが分かる。バスの奥座席に追いやれた子供達の中に明莉を探す。声に出してはイケないと理解しながらも明莉の名を叫んだ。
「なんだ? お前……この車の中に、自分の子供がいるのか?」
迷彩の男が、俺の身体を前輪の上辺りに位置する窓側の座席に投げ置きながら訊いた。
「黙れ! 子供達を解放しろ!」
「お前が黙れ!」
怒鳴った俺の肩の傷口を狙って迷彩の男が拳銃の柄を打ち付ける。俺は再度絶叫してシートに顔を埋める。
「サイトウ! こいつの子供が、この中にいるってよ」
悶絶している俺を眺めながら迷彩の男が金髪に声を掛ける。それに反応して薄笑いの金髪が直ぐに俺の側に来た。
「この中にいるのか?」
前の座席から後ろ向きに身を乗り出して、金髪が息が掛かる場所まで顔を寄せて訊く。俺は押し黙った。
「子供達を見てから、アカリって呻いてた」
「お前に訊いたんじゃない」
俺への問いに嬉しそうに答えた迷彩を、低い声で言って金髪が睨み付ける。
「お前達の要求はなんだ?」
俺は男達の意識を逸らしたくて訊いた。
「要求は、ない……俺達は……って、どうせ殺しちまうから良いかな……陽動作戦って知ってるか? 今日、何が行われてるかも?」
俺には金髪の言葉で直ぐに思い当たる事があった。俺と古里警部は正にその事で県境の南署に出向いたのだ。
「お前達……市山源次郎の……」
「なんだ? 知ってるのか? 関係者か? つまんねーな。あの人は世界を変える人なんだよ。あの人は神なんだよ。ムショになんて入れさせないんだよ。あの人さえ居てくれれば俺達のような人間は救われる。クズにはクズの英雄がいるのさ。俺達が注目を集めてる間に別動隊が動く」
「分かっているのか? アイツは……」
俺は金髪がニヤつくのを見て言葉を飲み込んだ。
市山源次郎。今の日本で奴の事を知らない人間は居ないだろうとさえ思えた。
数ヵ月前に殺人の容疑で逮捕された市山は一躍時の人となった。それは捜査が進むにつれて明らかになった数ヵ所のアジトに、それぞれ数十体分の人間の臓器が保管されていたからだ。そして何より世間を騒がせたのはその猟奇的な犯行手口をSNSを利用してネット公開していて、熱狂的なファンまで存在していたことだ。日本最高峰の大学を卒業した明晰な頭脳と知的で聡明な外観も相まってマスコミは連日その話題を取り上げている。
俺と古里警部は、その市山が捜査の為に護送されるのを警護していた。
「市山は、今頃は既に南署からも移動されている筈だ」
俺は金髪を見ながら言った。既に自分達の手の届かない場所に移された市山の事を話すことで男達の考えが変わってくれることを祈った。
「そっか……それでも良いんだよ。なぁ」
金髪が呟いて、迷彩がそれに頷いた。
「俺達は、あの人の為に……いや、俺達はあの人を越える。世界中の人間が驚愕するような事を成し遂げるんだ」
迷彩が言った市山を越えるという言葉を訊いて、俺は直ぐに男達がバスに乗り合わした人間全てを殺害するつもりなのだと感じた。市山の犯行を数で上回ることは常人には出来ない。ならば幼い子供達を猟奇的に殺害することでその不足分を補おうと男達は考えている。狂っている。男達の考えはまるで狂っている。マスコミに神格化された市山のような人間に対する憧れも、それを模倣して自分達も市山のような存在になれると信じている浅はかな心理も常軌を逸脱している。俺は顔を近付けている金髪の額に、自分の額を押し付けて怒鳴った。
「子供達を殺せば、お前達は市山のようには成れない! 市山は子供を殺していない。今なら、まだ大丈夫だ。投降しろ」
「ウザいな、お前……」
金髪が言って銃口を俺の口の中に押し込む。無理矢理に侵入してきた異物に身体が従順に反応する。俺は何度も嘔吐(えずき)ながら金髪を睨み続けた。
「サイトウ。俺、凄いこと思い付いた。これは絶対にウケるって」
迷彩が金髪の耳元に何かを囁く。金髪が薄く笑って「最高」と呟いた。
「アカリちゃーん? 手を上げて? 黙ってると、お父さん死んじゃうよー?」
金髪は半笑いのまま後部座席の子供達を見詰めた。その金髪を迷彩がスマホのカメラで撮影している。俺は恐ろしい予感がして必死にもがきながら「止めろ!」と叫んだ。だが、それは口内に突っ込まれている銃口で呻きにしかならなかった。
【 野田卓巳 】
「起きろよ」
僕は肩を揺する強引な力で目覚めた。ハッキリとしない意識の中で辺りを見回す。目の前には、紅く染まっているフロントガラス。隣には頭から血を流した状態で座っている妻。
「おい! 大丈夫か!」
僕は妻の肩を揺すり、何度も声を掛けた。だが、妻は意識がないのか反応のないまま浅い呼吸を繰り返し、壁に寄りかかっている。
「あぁ……これは、死ぬかもね……」
迷彩服の男が他人事のように呟いたので僕は男を睨み付けた。
「お前が!」
「バスに乗るように言ったのに関係ないことばかり叫んで面倒臭いから、拳銃のグリップで殴ってやったんだよ」
僕の言葉に当然のように答える迷彩。僕は飛び掛かろうとして身体を起こした。
「バカなのか?」
迷彩は僕の身体を座席に押し戻すと持っていた拳銃の柄で僕の頭を躊躇いなく殴り付けた。痛みに頭を抱える。手のひらに大量の血液が付着した。
「心配するなよ、頭は血が出やすいんだよ。アンタにはゲームに参加してもらわないとイケないからな」
迷彩が腕を強引に引き寄せて、僕は通路に引き摺り出された。そこから後方を見た僕の視線の先。さっちゃんと沢山の子供達が必死で泣き叫ぶのを堪えた様子で、後部三列分の座席に身を寄せ合うようにして震えている。さっちゃん以外のどの子も、眼球が零れ落ちそうな程に目を見開いてこちらを見ているのを見て僕は泣き崩れそうになった。
「早く歩け」
迷彩が背中を何かで小突く。硬く冷たいそれ間違いなく拳銃。僕は瀕死の妻を見たときの激情とは違う、恐ろしく冷めきった恐怖を感じた。迷彩が言うゲームに決して参加してならないと感じた。『さっちゃん』僕は叫んで、さっちゃんの座る場所まで走り出したいのを必死で堪えた。
「窓側に座れ」
迷彩が言って僕を前輪の上辺りにある座席に押し込んだ。よろめきながら言われた場所に腰掛ける。通路向の座席を見ると路上で血を流して倒れていた男が、僕と同じように腰掛けてこちらを見ている。だが、その男の口の中には金髪の男が嬉しそうに拳銃の先を突っ込んでいた。
「何をさせたいんだ」
僕が言うと金髪がこちらを見て嗤った。
「助けたい人がいる。違う?」
笑い声が漏れるのを必死に堪えているようすの金髪が後部座席の子供達を指差す。僕は必死でその方向を向かないようにした。そんな僕と車内の様子を迷彩がスマホで撮影している。
「ヴヴゥ……」
口に拳銃をくわえたままで向の男が何かを叫んでいるが、それは言葉にならない。
「コイツの事は、気にしないで。アンタさ、このバスの中に……子供いるでしょ?」
言いながら、金髪がゆっくりと子供達を見渡す。僕は恐怖で叫び出したくなるのを必死で堪える。さっちゃんの存在が知れれば、この事態が加速度的に悪化する予感がしてならない。
「黙りを決め込んでも、俺達は知ってるんだよね。アンタさ……諦めてゲームに参加しなよ。勝てば良いんだから」
「ヴウゥ! ヴウウ!」
ヘラヘラと嗤う金髪に何かを叫ぶ男。そう言えば、路上で倒れていた男を助ける為に飛び出した妻が「明莉ちゃんの、お父さん」と叫んでいた。
だとすれば、この男も子供を助ける為にバスに向かったのかも知れない。
「マジで、ウザッ」
金髪が呟いて拳銃をくわえたままの男の頬を殴る。派手さは無かったが男の口からは血が滴り落ちてくる。
「止めろよ。僕は、お前達が言うゲームには参加しない」
僕は金髪を睨んだ。不思議に、バスジャックの犯人達に恐怖を抱かなかった。僕が恐れていたのは金髪と迷彩が拳銃という道具で子供達を襲う事で、二人の人間にではない。
「ゲームをする、しないの押し問答をするつもりは無いの。しないとドンドン子供が死ぬだけ。なぁ、サトウ」
金髪が迷彩に目配せをする。迷彩は頷いてスマホを子供達に向ける。そして、反対の手も同じように子供達に向ける。
その手には拳銃が握られている。
「右端の男の子。サトウ!」
金髪は冗談のように後部座席の男の子を指差した。
「ヴヴ! ウゥ……!」
男が手足をバタつかせて酷く暴れた。
「サトウ!」
もう一度、金髪が叫ぶ。同時に迷彩が子供達に向けていた拳銃の先から火花が噴き出した。それは、映画のワンシーンのように、どこか非現実的で嘘にまみれた虚構の世界に感じられた。
【 小森悠二 】
「止めろ!」叫び続けた声は言葉にはならなかった。後部座席の子供達が泣き叫ぶのを、俺は呆然と見詰めた。手足に力が入らない。絶望が俺を喰い殺そうとしている気がした。
「なぁ? ドンドン死ぬだろ?」
金髪が運転席の後ろに座らされていた男に声を掛けた。その男の顔からは表情が消えている。男も、今、正に俺と同じ絶望の中にいるに違いなかった。金髪と迷彩は本気だ。いや、それは古里警部と俺を躊躇なく銃撃した時点で分かっていた。それでも、子供達を無感情に殺せる感覚が俺にはどうしても理解できなかった。コイツらに理由なんて必要ではないのだ。コイツらに感情なんて存在してはいないのだ。コイツらはSNSやネットの世界から現実に接していて、それが架空の世界なのか現実の世界なのかが判断出来なくて、つまり、人間として生きていないのだ。俺には明莉を救うことなんて出来ない。
「さて、ゲームの説明をするよ。簡単だから二人とも良く聞いてろよ」
俺と男を交互に見た後で、金髪は迷彩が握るスマホに向かって話始めた。
「アンタ達には先ず、互いの子供を膝に抱いてもらう。そして、膝に置いたその子供の首に手を回して、先に絞め殺した方が勝ち。簡単だろ? 勝った方の子供は逃がしてやる。二人ともやる気がないなら両方の子供は殺す。つまり、ヤらないと確実に子供は死ぬ。アンタはアカリちゃんを、そしてアンタは……さっちゃんだな」
嬉しそうに男を見る金髪。男が呆然としながらも金髪の顔を見詰め返す。
「アンタの奥さんが、頭殴られる前に叫んでたよ。知らないと思ってた?」
大声で笑う金髪。それを聞いた男は、意識を失いそうな程に血の気が引いた顔をしていた。
「もう、止めてくれ!」
俺は銃口をくわえて傷だらけになった口を大きくあけて怒鳴った。止めようもなく溢れ出てくる血液に舌が上手く回らない。それでも、痛みは全く感じない。
「駄目だよ……」
「お願いだ……お願いします……もう、止めて下さい」
金髪の手を握り締めて懇願した。無意識に涙が溢れ出る。
「泣いても、駄目だよ。これは俺達の為にやってる事なんだよ? アンタ達には止められないの。分かるかな?」
金髪が子供に話すように答える。俺は嗚咽しながら懇願し続ける。
「さっちゃーーん。アカリちゃーーん」
金髪は俺を無視して子供達の名を呼ぶ。俺は懇願しながら金髪にすがりつく。警察は犯人の狂暴性や銃声に怯えて突入してくることは無い。上層部は人命第一と叫んで様子を伺うことしか考えていない筈だ。全ては悪い方に転がり続けている。バスの乗客は金髪が叫んだ通りに皆殺しにされる。
【 野田卓巳 】
「さっちゃーーん。アカリちゃーーん」
金髪が嬉々として子供達を呼んでいる。現実感を取り戻せないままに、その光景を眺めていた。
「君が、アカリちゃん?」
金髪が言って後部座席を指差したので、僕はゆっくりとその方向に目をやった。手を上げていたのは、さっちゃんだった。
恐れる様子もなく真っ直ぐに上げられた手を見て僕は声にならない声をあげて泣き叫んだ。
「お父さんが泣いてるよ。早く、このおじさんの膝に座ってあげないと、お父さん。もっと泣いちゃうよ」
金髪が向いの席で泣きすがる男の方を指し示す。さっちゃんが金髪に言われるがままに男の膝に座る。そして、いつものように表情のない顔を僕に向けて軽く頭を叩いて小さく舌を出す。それを見た瞬間に涙が溢れて嗚咽が止まらなくなる。
「アカリちゃーん。さっちゃんは出てきたのに、お父さんを殺しちゃうよ?」
金髪が冗談のように笑う。その横で、さっちゃんを膝に乗せた男がいやいやの仕草を繰り返して嗚咽している。それを撮影する迷彩がしきりにカメラを片手に持ち変えて自分も映像の中に入り込もうとしている。身体の痛みも感覚も次第に薄くなって行く気がする一方で飛散した血液だろうか、濃厚な鉄の臭いが車内にたちこめているのを感じる。視界の端の紅く染まっているフロントガラスと、反対側の恐怖に固まる子供達の表情が両方同時に脳内に強い映像として流れ込む。フワフワとした異常な感覚に脳内全てが淡い痺れのようなものを感じている。
朦朧と仕掛けた時に、また金髪が声をあげた。
「君が、アカリちゃんかい? 駄目だよ直ぐに名乗り出ないと」
金髪が声を掛けて、僕の膝の上に明莉ちゃんを導く。僕はそれを呆然と見詰める。そして、これは現実ではないと何度も呟く。何度も何度も呟く。
「よーし、手を叩いたら。スタートね」
金髪が声を張り上げる。向かいの男は泣き叫んでいる。僕は涙は出ているのに声が出ない。それを迷彩が撮影している。明莉ちゃんの身体は鋼鉄のように固まっている。
さっちゃんが僕を見ている。
僕のさっちゃんは、普通より少しだけ小さく産まれた。小さいから、少しの間だけ特別な病室で母親の胎内と同じ環境をつくる透明なケースの中で育った。千人に一人以下の確率で産まれた瞬間から特別な存在だから、僕と妻だけでなく。看護士さんや先生にまで強く愛された。
僕のさっちゃんは、普通と呼ばれる子供達より少しだけ幸せ。その子達が感じる不幸を大きな出来事として感じることが出来ないから、さっちゃんは不幸が少ない分だけ幸せ。
僕のさっちゃんは、困ったり失敗したりしたときに自分の頭を軽く叩いて舌を出す。感情を表現するのが苦手なさっちゃんの、そんな瞬間を見れた日は幸せ。その日一日がラッキーデーとなる。
僕のさっちゃんは、今年で小学校を卒業する。産まれる少し前に先生から伝えられた命の期限を毎日更新する。平坦な毎日に魔法を掛け続けてくれるさっちゃん。僕は感謝を込めて毎日強く抱き締める。
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