第40話『MUGEN』

「はあっ……はあっ……」


 路地裏に、僕の荒い息遣いが響く。


「クッ、どこに行った!?」

「あっちじゃないのか!?」


 表通りには、僕を探す警官たちの声。

 次第に近付いて来るその声、そして足音に、僕は慌てて物陰に身を隠した。

 疲れと緊張から、心臓の鼓動が早くなる。


「落ち着け、落ち着け……」


 そう自分に言い聞かせる。


「落ち……」


 3回目を言いかけたとき――

 僕は不意に気配を感じて言葉を止めた。


「おい、路地裏はまだ探してないよな?」


 警官の声。

 緊張が、一気にピークに達する。


「行ってみるか!」


 もう1人の警官が言う。

 激しさを増す息遣いと心音。

 僕は思わず息を止め、胸を強く掴んだ。


 ゆっくりと近付いて来る足音。


 こ、このままじゃ見付かる――!

 今すぐここから逃げるしか!


 そう思い、足に力を入れた瞬間――


「うっ!?」


 足首に、激しい痛みが走る。


 多分、階段を飛び下りたときにくじいたんだ……


 足首に手を当ててみる。

 少し腫れている気がした。

 そうしている間にも、声と足音はどんどん近付いてくる。


 ダ、ダメだ……


 僕は、思わず体を強張らせた。


 ――そのとき!


「ちょっと待った、無線だ……!」


 警官の1人が言う。


「おい……至急、この先の大通りに来いとさ。高校生が騒いでるらしいぞ」

「俺たちが追ってる高校生かな?」

「かもな。よし、行くぞ!」


 ほどなくして、僕の前を数人の警官が走り抜けて行く。

 物陰に隠れている僕には……

 どうやら、気付かなかったみたい。


 僕は、ホッと胸を撫で下ろした。


「でも、一体何があったんだろ……?」


 そっと物陰から這い出し、警官が走って行った方を見る。

 でも、ここからだと何もわからなかった。


「……いや、それより、早く駅に行かなくちゃ!」


 足に力を入れて立ち上がる。

 が、その瞬間――


「あうっ!」


 襲い来る足首の痛み。

 警官がいなくなって少し安心したからだろうか?

 それは、先程より痛みを増している気がした。


「ううっ……」


 足を引きずりながら、それでも僕は駅を目指す。

 だけど……


「うあっ!?」


 足がもつれて、僕は派手に転がった。

 地面にはいつくばるような姿。

 もう足首だけじゃない、体中が痛かった。


 頑張れば達成感が待っている。


 誰かがそう言っていた。

 だけど、今の僕には無力感しかない。


 こんなにボロボロになって……

 足まで痛めて……


「やっぱり……こんなの僕のキャラじゃなかったんだ……」


 倒れたままの僕は、砂利を巻き込みながら拳を強く握り締めた。


 そのとき――


 ~~♪


 ポケットから流れるスマホの着信音。


「あれ……? 僕のスマホは壊れてるハズなのに……」


 僕はつぶやき、仰向けに寝転がってポケットを探る。


「あ……間違えて、レイジのを持って来ちゃったのか」


 取り出したそれは、紛れもなくレイジのスマホだった。

 あのときマキと話した後、ついいつもの癖で自分のポケットに入れてしまったのだろう。

 鳴り続ける着信音。

 画面に表示される電話のマークと委員長の文字。


 えっ、アサミから!?


 レイジに用事なのかな。

 だとしたら、このスマホは、僕が持っていることを伝えないとダメだよね……


 僕は、恐る恐るマークを通話の方にスライドさせた。


「……もしもし?」

『もしもし、梨川くん?』


 電話の向こうから聞こえてくる声。

 それは、間違いなくアサミだった。


「な、何? どうしたの?」


 あんなことがあったばかりだ。

 緊張から、思わず声が上ずってしまう。


『……何よ、私からじゃ嫌なワケ?』

「そ、そうじゃないけど!!」


 聞こえてくる不服そうな声に、慌てて取りつくろった。


「あ、レイジに用事でしょ? ……でも、ゴメン。このスマホは、今、僕が持ってるから……」

『うん、知ってる』

「あー、だよね……って、えっ!?」

『私は……梨川くんに用があって電話してるの』

「ぼ、僕に!?」


 予想外のその言葉に、僕は思わずスマホを握り直した。


 ま、まさか……

 まだ僕を引き留める気なんじゃ……


 僕は思わずツバを飲んだ。

 ツバは、ゴクリと音を立てて喉を通過する。


『梨川くん……』


 その緊張が伝わったのか、アサミは静かな声を出した。


「ゴメン、アサミ!! 僕は……」


 しかし、彼女は僕の言葉を遮って言う。


『梨川くん……今、諦めようって思ってたでしょ』

「えっ……!?」

『駅に向かうこと、後藤さんのこと……』

「な、何でそれを!?」


 驚きを隠せない僕に、アサミは軽く笑った。


『言ったでしょ……梨川くんのことなら、何でもわかるんだって』

「アサミ……」


 僕は体を起こすと、雑居ビルの壁に背中を預け、空を見上げる。


「うん……やっぱり僕じゃ、無理だったんだ……」


 ビルの隙間から見る空は、とても小さく見えた。

 その瞬間――


『なに弱気になってるのよ!』


 アサミの強い口調が響いた。


『あなたは、私を振ったんでしょ!

 自分には後藤さんしかいないって思ったんでしょ!

 私は、あんなに止めたのに……それでもアナタは、自分の想いを貫くって決めたんでしょ!』


 波の様に押し寄せる、アサミの想い。


『だったら……』


 アサミは、短く息を吸い込んだ。


『だったら、もっと根性見せなさいよ!』


 その想いは、熱い波動となって僕の胸を貫いた。


「そう……だよね。

 僕はもう、逃げることはやめたんだった」


 僕はそう言うと、四肢に力を入れた。

 大地を踏み締める足に伝わる、確かな感覚。

 足首の痛みも、先程より引いている気がする。


「ありがとう、アサミ……僕は、まだ走れそうだ」

『うん……こんなことで負けたら許さないんだからね』


 聞こえて来るその声には、少し涙が混じっているようだった。


「……僕、行くね」


 静かにそう告げて、前を睨んだ。

 薄暗い路地裏の先には、まぶしい大通りが見える。

 大通りの先には駅がある。

 そこには、警察官たちが待ち構えていることだろう。


 けど――


「僕は最後まで諦めないから!」


 僕は、力強く宣言した。


『ねぇ梨川くん……今、どこにいるの?』

「え? 今は、駅のそばの路地裏だけど……?」

『そう……じゃあ……』


 僕の言葉に、アサミは

『ふふっ』

 と笑う。


『そのまま、大通りに出てみて』

「えっ、な、なんで?」

『いいから早く』

「う、うん」


 僕は、訳も分からず大通りに向かった。

 陽の光が当たりづらい路地裏を抜け、大通りへと出る。


「う……」


 そのまぶしさに、一瞬、目の前が真っ白になった。

 でも、それも次第に慣れてきて――

 はっきりと見えるようになった、僕の瞳に映るもの。


 それは――


「ガクッ!」

「梨川くん!」

「梨川!」

「えっ……」


 そこには、クラスの皆の姿があったんだ。


「遅いよ、梨川くん!」

「もう少しだ!」

「頑張れ、ガク!」

「えっ!? えっ!? えっ!?」


 飛び交う声援に、僕は驚きを隠せない。


「これはどういう……!?」

『ふふっ、驚いた?』


 電話の向こうから、嬉しそうなアサミの声がする。


『梨川くんのことをみんなに話したら、応援に行きたいって言ってくれて』

「そうなんだ……」

『今、うちらが出来ることは、梨川くんに声を届けることだからって……』

「みんな……」


 目頭が熱くなる。


「お前にそんな勇気があるとは思わなかった! 見直したぜ!」

「もうちょっとよ、頑張って!」


 皆が口々に叫ぶ。

 その声援を受けるたび、不思議な力が僕の中に湧いて来る。


『どう? ……わ、私に、ちょっとくらい感謝してくれてもいいんだからね!』


 そんな電話の向こうのアサミに、僕は少しだけ笑った。


「アサミ……」

『な、なに?』


 しばしの沈黙の後、僕は言う。


「これ、恥ずかし過ぎない?」

『な、なによっ! 私は梨川くんのことを思って……』

「あははははははっ!」


 取り乱すアサミ。

 その優しさが――

 そして、皆の気持ちが嬉しくて――


 僕は、思わず声を上げて笑った。


「ありがとう、アサミ。すっごい力出た!」

『もう……』


 不服そうな彼女だったが、その声は笑っていた。


『ゴールはもうちょっとよ! 頑張って!』

「ありがとう……行って来る!」


 そう言うと、僕は電話を切った。


「……よしっ!」


 そして、短く気合いを入れると、前をにらんだ。

 視線の先、クラスメートが立ち並ぶその向こうには、目的の駅がある。

 そこには、ミサキがいる!

 僕は、拳を握り締めた。


 ミサキ、今から行くよ……!


 湧き上がる無限の力。

 皆の声援に背中を押され、僕はその足を踏み出した。


「もうちょっとだぞ!」

「頑張って!」


 再び走り出した僕に、クラスメートから声援が飛ぶ。

 こんなにも沢山の声。

 嬉しさ半分、恥ずかしさ半分といった感じだ。


 いや……

 やっぱり、嬉しさの方が大きいかな……


 皆の顔を見ながら、しみじみそう思った。

 僕を応援する声。


「ガクーッ!」


 その中に響く、一際大きい声。

 聞き覚えのあるこの声は……


「マキッ!」


 僕の走る先には、手を振るマキの姿があった。


「ガクッ、ミサキのこと、お願いね!」

「任せて!」


 すれ違いざまに、その手とハイタッチを交わす。

 小気味よい音が、辺りに鳴り響いた。


「ふふっ……」


 僕は少しだけ笑うと、その手を胸に当てた。

 叩いた掌は熱く、服を通して胸に伝わってくる。

 マキの強い想いが込められていることを、僕は感じていた。


 だけどそのとき……


「あっ、いたぞーっ!」

「よしっ、逃がすな!」


 僕を現実へと引き戻す声が響く。

 クラスメートとは違う声。


「こ、この声は……」


 僕は、ゆっくりと振り返る。


「君っ、待ちなさい!」


 それは果たして、先程の警察官たちだった。


「だーっ、しつこい!」

「君が逃げるからだと言っているだろう!」


 クラスメートの間を走り抜ける僕。

 その後ろから追いかけてくる警察官。


「もう少しで駅だっていうのにっ!」


 苛立いらだち口から飛び出す。


「おおおおおっ!!」


 その感情を力に変えて、僕は走る速度を上げた。

 たちまち、警察官たちとの距離が広がっていく。


「どうだっ! 僕は、山の中で野犬と勝負したことがあるんだぞ!」


 その後、僕は川の中に落っこちたのだけど……

 そのことは、もちろん言わないでおく。

 

 信号が点滅している横断歩道を、全力で走り抜ける。

 程なくして信号は赤に変わり、道は自動車の列に遮られた。


「こ、これで少し時間が稼げるかな」


 僕はチラリと後ろを振り返り、思わず拳を握り締める。

 視線を戻した僕の目に歩道橋が見えてきた。

 駅に向かうには、これを渡るのが1番の近道だ。


「だあっ!!」


 歩道橋に到着した僕は、気合いと共に階段を1段飛ばしで駆け上がる。

 少し老朽化した橋は、所々にサビが浮かんで見えた。

 幅はそれほど広くはないけれど、橋の長さはそれなりに長いんじゃないかな……


「……あっ!?」


 その橋の真ん中に、誰かが立っているのが見えた。

 ピンと背筋を伸ばし、大地に対し垂直に立つその姿。

 陽の光を浴びて、顔の眼鏡がキラリと輝く。


 それは……


「ハ、ハカセ!?」


 そう、それは紛れも無くハカセだった……

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