第38話『もう一度走り出すために』

「カズマ……」


 バイクを運転するカズマに、僕は後ろから話しかける。


「夏休み前の体育で、100メートルを走やったの覚えてる?」

「……ああ」


 ややあって、カズマから返事がきた。


 100メートル走――

 あのときの僕の相手はカズマだった。


 結果は……

 ゴール直前で力を抜いた僕の負けだった。


「あのとき言ってた『テメェは、そうやってまた……!!』……あれってどういう意味だったの?」

「はぁ……本当に何も覚えてないんだな」


 カズマは、やれやれとため息をつく。


「お前、中学1年のときの陸上の夏の大会、覚えてるか?」


 中1の夏の大会――

 それは、僕がオーバーゾーンで失格になった大会だ。

 そのせいで、キャプテンの……そして蜂須賀はちすか先輩の夏を終わらせてしまった。

 僕の不注意が、先輩たちの3年間を台無しにしたんだ。

 忘れたくても忘れられない過去。

 それは、今でも僕の胸を締め付けている。


「……覚えてるよ」


 絞り出すような声が出た。

 ズキン――

 と、胸の奥が痛む。

 僕は、強く手を押し当てた。


「で、でも……カズマと何の関係が……?」


 カズマは、僕と同じ中学校ではない。

 怨まれる筋合いなんてないはず……


 疑問の嵐が吹き荒れる中、カズマの口が開いた。


「お前……1年の100メートル走で1位になったよな」

「う、うん……?」


 100メートル?

 確かに僕は、400メートルリレーの他に、1年の100メートルにも出場していた。


 で、でも……

 400メートルの、あのことじゃないとなると……

 全然心当たりないよ?


 疑問の嵐は、更に勢力を増していく。


「ふう……」


 カズマは息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。


「……俺は2位だったんだよ」

「あ~…………

 って、ええっ!?」


 疑問の嵐の後に待っていた衝撃の言葉。


「カ、カズマ、陸上やってたの……!?」

「それすら覚えてないのかよ……」


 カズマは、がっくりと肩を落とした。


「俺さ……昔から足は速くて……誰にも負けたことがねぇんだ」


 そう言って少しだけ笑う。


「……だけど、お前には完敗だった」


 カズマは、真っ直ぐ前を見詰めたまま言葉を紡いでいく。


「その上、1年なのに上級生に混じって400メートルリレーも出ちまうしよー」


 その口から、深いため息が漏れた。


「お前とは次元が違ったんだよな……」

「そ、そんなこと……」

「だからな!」


 慌てて否定しようとした僕を、カズマは遮る。


「俺は努力したんだ! 必死にトレーニングして、自己ベストを何度も塗り替えて……

 だけど……お前は次の大会に出てなくてよ……

 聞けば陸上を辞めたって言うじゃねーか!」


 カズマのグリップを握る手に力が入る。


「勝ち逃げってやつだよな」

「そ、そんな!」


 そんなつもりはなかった。

 僕はただ……

 先輩たちに申し訳なかっただけで……


 僕は、思わずうつむいた。


「それで……そんなモヤモヤした気持ちのまま高校に入ったら、お前がいてさ……」


 そんな僕には気付かずにか、カズマは言葉を続ける。


「物事すべてに本気を出すことをためらって、中途半端に生きてる姿にムカついちまってな」

「カズマ……」

「まあ、今となっちゃ過去の話だけどな」


 そう言って、カズマは笑う。


「違う……」


 喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。


「それは違う……」

「ん? 違う?」


僕は、勢い良く顔を上げる。


「僕はただ、自分のせいで、また誰かが傷付くことが嫌だったんだ!」

「お、おい、落ち着けって……」


 僕の豹変ぶりに、驚いたようになだめようとする。

 だけど、僕はそれを振り切って叫んだ。


「僕がどれだけ苦しんできたか! 

 いつも自分勝手に生きてるカズマには、僕の気持ちなんてわかんないよーっ!!」


 その瞬間、カズマはバイクを急停止させた。


「テメェ……」


 唸るようなカズマの声に、僕は我に返る。


「あ……や……こ、これは……」


 ヘルメットを取ったカズマは、僕に向き直った。

 鋭い瞳でにらむカズマ。

 その目力に、全身から汗が吹き出した。


 僕はなんてことを……

 カズマは善意でバイクを走らせてくれている。

 なのに、怒らせるようなことを言うなんて……


 カズマの目が怖い!

 と、とにかく謝らないと!


「カ、カズマ、ゴメ……」

「わかんねーよ!」


 謝ろうとした瞬間、カズマの叫びが響いた。


「そんなもん、わかりたくもねーよ!

 リレーで失敗したくらいで、ここまで引きずるお前の気持ちなんてよ!!」

「えっ……!?」

「お前のその間違った優しさが、人を苦しめることだってあるんだ。

 リレーの先輩だって、お前が自分を責め続けてたら、いつまで経っても笑い話にできやしねーだろ」


 真っ直ぐに見詰めてくる真剣な瞳。


「誰も、お前にずっと背負ってほしいなんて願ってないんだ!!」

「カズマ……」


 僕は、思わず胸に手を当てた。


「お前はさ……すごく優しいヤツだと思うよ……」


 静かな声が響く。


「だけどさ……そろそろその優しさを、自分にも向けてやっていいんじゃないか?」

「自分……に」

「走ることの楽しさ、忘れたわけじゃないんだろ?」

「それは……」


 風と1つになれる感覚。

 全力を出し切った後の、心地好い疲労感。

 あのときの僕は、走ることが全てだった。


「忘れるわけ……ない」

「なら、もう一度走ってみろよ!!」


 そう言って、カズマは僕の胸を拳で叩いた。

 叩かれた胸に痛みはなく、ただ熱い想いだけが伝わってきた。


「僕……いいのかな……」

「ああ!

 もし、文句言うやつがいたら、そのときは俺が相手になってやるさ!」


 そう言って、カズマは笑った。

 

 今まで重くのしかかってきたもの。


 責任――

 自己嫌悪――

 罪の意識――


 僕を過去に引き留めていたそれらが、少しだけ軽くなった気がする。


「ありがとう、カズマ……」


 素直な言葉が口から出た。


「僕……頑張ってみるよ」

「その言い方……お前らしいな」


 カズマは笑うと、ヘルメットをかぶり直した。

 そして、再び前を向くと、


「――行くぞ!!」


 短くそう告げ、アクセルグリップを勢い良く回した。

 一際大きくなる排気音。

 周りの景色が、再び後ろに流れていく。

 それと共に、僕が背負ってきたものも流れていく気がして――

 僕は少しだけ笑った。


「あ……でも、なんでカズマがそんなに詳しく知ってるの?」

「ん? ああ……お前のこと、近くでずっと見てたからな」

「えっ、近くで!?」


 僕は、記憶を巡らせる。


 100メートル2位……

 近くにいた……

 ずっと見てた……


「――あっ!」


 そのとき脳裏に浮かぶもの。

 すべての糸が一本に繋がった。


「思い出したか?」


 カズマは笑いながら尋ねる。


「うん……そういえば、ずっと僕をにらんでた人がいた……」

「あれは、にらんでたんじゃねーよ」


 苦笑するカズマ。


「俺は、視力が悪いんだよ」

「そうなんだ……

 僕、絡まれないようにって、必死に目を合わせなかったよ」


 そう言って、僕も笑った。

 2人を乗せたバイクは自動車の間をすり抜け、大通りを快調に飛ばしていく。


「なぁ……」


 風の中で、カズマが口を開いた。


「これが終わったら……俺と100メートル、勝負しないか?」

「カズマ……」

「もう一度、ちゃんと走ろうぜ」


 真っ直ぐ前を見詰めたまま、カズマは言う。

 その言葉に、僕は微笑んだ。


「いいけど……さ」

「……けど?」

「僕は……速いよ?」

「言ってろ!」


 そして僕たちは、大声で笑いあった。


「俺たち、やっと分かり合えたみたいだな」

「そうだね……きっと人はみんな、分かり合えるんだよ」

「ああ……そうかもしれないな」


 あんなにいがみ合ってた僕たちも、今、こうして笑い合うことができる。

 人は分かり合える。

 綺麗事って笑う人もいるかもしれないけど……

 僕は、そう信じて生きていたい。


 バイクは、更に速度を上げた。

 流れる景色が、更に早くなる。

 これなら、あと10分ほどで駅に着くだろう。


 ミサキ……

 早く君に逢いたい……

 今なら、この想いを素直に伝えられそうだから……




 そして、それから数分後……


「まったく……何キロ出していたと思ってるんだ!」

「す、すみません……」

「2人乗りなのに、20キロ以上の速度超過! ほら、免許証出して」


 僕たちは、白バイの警察官にスピード違反で捕まっていた……


「すみません、ホントすみません!」

「俺たち、急いでるんです!」

「急いでいたからと言って、交通ルールを破っていいと思ってるのか!

 だいたい、最近の若い者は……」


 警察官は、ぶつぶつ文句を言いながら、カズマから免許証を受け取った。


「おい……」


 カズマが、そっと僕に耳打ちする。


「さっきの話だけど……」

「う、うん?」

「やっぱり、分かり合えない人種もいるみたいだぞ……」


 僕は、思わず苦笑いを浮かべた。




 ごめん、ミサキ……

 もう少しだけ待っていてください……

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