第31話『ココロ』
「テメェ、この野郎!!」
ガスッ!!
「勝てると思ってるのかよ!!」
ドカッ!!
2色の鬼が叫ぶ度に鈍い音が響き、僕は地面を転げ回る。
もう、どれくらい殴られているのだろう……
もしかしたら、まだ大した時間ではないのかもしれない。
だけど感覚が麻痺してきて、今の僕には、それすらわからなかった。
僕は痛いのが嫌い。
自他共に認める痛がり屋だ。
注射のときだって、刺される瞬間は目を逸らすタイプなのだ。
それが、今はこんなに殴られている。
血だって、いっぱい出てる。
――なぜ?
理由は簡単。
それは、ミサキの心を踏みにじったからだ。
「ウラァッ!!」
赤鬼の蹴りが胸を捉える。
激しく吹き飛んだ僕は、『ゴミはゴミ箱に』と書かれた立て札にぶつかって動きを止めた。
ぶつかった立て札は根本から折れ、僕と同じように地面の上を転がった。
「いやー!!」
ミサキの悲鳴が響き渡る。
「だ、誰か来てー!!」
叫ぶミサキに、青鬼は薄ら笑いを浮かべた。
「この時間帯じゃ誰も来ないよ」
「そ、それなら……」
ミサキはふらふらと立ち上がると、公園の出口を見た。
「待っててガク! 誰か呼んで来るから!」
長い髪が、ふわりと舞い上がった。
だけど――
その髪はすぐに動きを止めることになる。
「い、いやっ、離して!!」
ミサキの悲鳴。
青鬼が、その手をつかんだのだ。
「どこに行くんだい?」
青鬼は、薄ら笑いを浮かべたまま言う。
「離してよ!!」
「……ダメだよ」
その鼻が、フフンと鳴った。
「君は、このあと一緒に遊びに行くんだから」
「だ、誰があなた達となんか!!」
「そんなに嫌なの?」
頭を振るミサキに、青鬼はため息をついた。
「当たり前でしょ!」
「そっか~……」
そして、その視線を僕に向けた。
「あんまりワガママ言ってると、お友達がいつまでも痛い目に合うよ?」
「な……!?」
驚きに瞳を見開くミサキ。
「それでもいいのかな~?」
「そ、そんなの卑怯よ!」
ヘラヘラと笑う青鬼を、ミサキはキッとにらんだ。
――ミサキ!
瞳に映る彼女は、下唇を強く噛み締めている。
僕が情けないから、ミサキは……
「くそーっ!!」
僕は叫びながら立ち上がると、再び赤鬼に殴り掛かった。
「おっと」
だけど、渾身の攻撃はあっさりと避けられてしまう。
勢い余った僕は、足がもつれて硬い地面の上を転がった。
「くっ……」
僕の攻撃は、最初の一撃以外はまともに当たっていない。
悔しい――!!
こんなにも無力なのか!!
僕は、うつぶせに転がったまま、手を強く握り締めた。
巻き込まれた砂や小石が、手の中でジャリジャリと音を立てる。
「オラ、寝てんじゃねーぞ!」
赤鬼の足音が近付いてくる。
外灯に照らされ浮かび上がった影は、僕のすぐそばで止まった。
影の足が、ゆっくりと持ち上がる。
踏み潰す気だ!!
勢いの付いた足と、硬い地面に挟まれる。
想像するだけで、身の毛がよだつ。
「
な、何てことを言うんだ!?
赤鬼の上げた足が、勢い良く下ろされる――
「待って!!」
その瞬間、ミサキの声が響き渡った。
ズウン――
と、足は僕の顔のすぐ横に下ろされた。
砂埃が舞い上がる。
「アァン?」
赤鬼は、ミサキに振り返った。
「わかったから……」
ミサキの口から、小さな声が漏れた。
「一緒に行くから……もうガクに、ひどいことしないで……」
「ミサキッ!?」
「……大丈夫、心配しないで」
愕然とする僕に、ミサキは微笑む。
「私……実は夜遊びとか慣れっこだし、こんな時刻から遊びに行くなんて初めてだから興味あるし……」
支離滅裂――
言ってることがめちゃくちゃだ。
自分でも、もう何を言っているのか分かっていないのだろう。
「だから、大丈夫なんだよっ!」
ミサキは笑った。
僕を救うために。
ふと見たその手は、強く握り締められている。
小刻みに震える体を、無理やり押さえつけているかのように。
それでも、彼女は笑顔を見せたんだ……
「ハハッ! 最初から、そう言えば良かったのに」
青鬼は笑う。
「手こずらせやがって……」
赤鬼は額の汗を拭うと、倒れたままの僕に背を向けて2人の方に歩き出した。
終わった――
解放された僕は、仰向けに転がった。
このまま寝ていれば、もう痛い思いはしなくて済むだろう。
こんなにやられて、つくづく思ったことがある。
僕は、やっぱり喧嘩に向いてない。
走ることしか能がない僕が、喧嘩で勝つなんて不可能なんだ。
そう、最初から不可能なことだったんだ……
だけど――
「待て……よ……」
だけど僕は、無理やりに体を起こした。
「テ、テメェ……!?」
2色の鬼に、動揺が走るのがわかった。
「ミサキの心を笑うヤツは……僕が許さないって言ったろ……」
足に力を込め、歯を食いしばる。
「ミサキの心を踏みにじるヤツは……絶対に許さない!」
「やめてガク! 私なら大丈夫だから!」
ミサキが叫んだ。
「ほ、ほら、その証拠に、私は泣いてないでしょ? 笑ってるでしょ? だから……」
精一杯の笑顔を見せるミサキ。
「僕が嫌なんだっ!!」
それをさえぎって僕は叫んだ。
「コイツらは、絶対に許せない!」
「ガク……!」
「うおおおお――っ!!」
体中が悲鳴を上げる。
だけど、僕は構わず立ち上がった。
そして、赤鬼を目掛けて走りだす。
「うああああ――!!」
口から、自然と叫び声が出た。
「コ、コイツ!? ぐはぁっ!!」
完全に意表をつかれたのか、赤鬼は僕のタックルをまともに受けた。
仰向けに倒れる赤鬼。
そのまま覆いかぶさるようにして、僕は相手の頭を強く押し付けた。
「ぐはっ!!」
地面に頭と体を強打した赤鬼から、うめき声が漏れた。
その上にまたがり、馬乗りの体勢になる。
「はぁっ……はぁっ……」
口から荒い息が吐き出された。
僕は、拳を高く振り上げる。
「ミサキを傷付けるやつは、僕が許さない!」
そして、赤鬼の顔を目掛けて振り下ろす。
拳に、鈍い感覚が伝わってきた。
「僕は……」
2発目の拳を振り上げる。
「ヒッ!?」
たまらず赤鬼は、両腕で顔を隠した。
「僕は……ミサキが先輩と上手くいかなかったことを、一瞬とはいえ喜んでしまった!」
両腕のガードも構わず、上から拳を叩き付ける。
「ミサキの心の隙間に入り、それを埋める存在になれるんじゃないかって、期待したんだ!」
僕は、3発目を振り上げた。
「ミサキの幸せを願っていたはずなのに……」
「ガク……」
思わず、僕の瞳に涙が
「謝れよ! ミサキに謝れよっ!!」
3発目を振り下ろす。
続けざま、反対の手で4発目を繰り出す。
5発目、6発目……
「謝れっ、謝れ――っ!!」
「な……何をワケのわかんねーこと、言ってやがる!!」
7発目を繰り出そうとしたとき、赤鬼は力いっぱい僕の胸を突き上げてきた。
不意の出来事と、力強いその一撃に吹き飛ばされて、地面を激しく転がる。
「はあっ……はあっ……はあっ……」
2人の荒い息が響く。
その中で、僕はゆっくり立ち上がると、赤鬼をにらみ叫んだ。
「どうした!! 僕はまだ終わってないぞっ!!」
2色の鬼へ、そして自分への苛立ちを乗せた魂の叫び。
それに呼応するかのように、一陣の風が僕たちの間を突き抜けていった。
「だったらよ……」
赤鬼も、ゆっくりと立ち上がる。
「これで終わりにしてやんよ……!!」
次の瞬間、僕は血の気が引いていくのを感じていた。
赤鬼の手には、僕がぶつかって倒れた立て札が握られていたのだ。
「バ、バカ!! そんなので殴ったら……」
青ざめる青鬼。
「知らねえよ!!」
赤鬼は言葉を遮ると、それを引きずりながら僕に近付いてくる。
逃げなきゃ!!
そうは思うのだけれど……
両の
「お、おいっ、やめろって!!」
「大丈夫……運が良けりゃ生きてるさ」
青鬼の制止を半ば自嘲気味に笑うと、赤鬼はゆっくり立て札を振り上げた。
「頼むから、俺を殺人犯にさせないでくれよ……!!」
笑う赤鬼。
僕は、思わず目をつぶった。
その瞬間――
「もう、やめてってばーっ!!」
「おふっ!?」
響き渡るミサキの声。
そして、青鬼の悲鳴。
えっ!?
瞳を開いた僕の目に飛び込んできた光景、それは――
両手を力いっぱい突き出しているミサキと、体を“く”の字に曲げた青鬼の姿だった。
「おぅあっ!?」
突き飛ばされた青鬼は、赤鬼に激しく激突する。
2色の鬼は、揉み合うようにして地面に転がった。
「ガクッ!!」
ミサキは、こちらに走ってくると僕の手を握った。
「逃げよう!!」
そして、出口に向かって走り出す。
僕も、それに引かれるように走り出した。
「テ、テメェ、待ちやがれ!!
「イテテテ……」
「お、お前は、早くどきやがれ!!」
背中で鬼たちが何か叫んでいたけど、僕たちは構わずに走った。
鬼たちの声はどんどん小さくなり……
やがて聞こえなくなった。
10分以上は走りつづけただろうか。
僕たちの足は次第にゆっくりになり――
そして停止した。
「はぁっ……はぁっ……」
2人の口から、荒い息が溢れる。
「なんとか逃げられたかな……」
僕は、後ろを振り返った。
広がる夜の闇。
誰も追いかけてくる様子はない。
もう一度大きく息を吐くと、僕はミサキに振り返った。
「ミサキ、僕……」
その瞬間、ミサキは崩れるようにしゃがみ込んだ。
左胸を手で押さえるミサキの顔色は悪く、その顔からは尋常じゃないほどの汗が吹き出していた。
「ミ、ミサキ!?」
「だ……大丈夫……」
ミサキは
「ちょっとだけ……待ってて……」
荒い息遣いが、辺りに響き渡っていく。
「で、でも……」
「大丈夫……だから……」
繋いだ手が強く握られる。
「ミサキ……」
僕もその手を握り返した。
どれくらいそうしていたのだろう。
やがてミサキは、ゆっくりと顔を上げた。
「ミ、ミサキ……?」
「うん……もう大丈夫」
先程より顔色は良くなっているけれど、それでもやっぱり辛そうに見える。
「ミサキ……」
「怖かったねー!!」
そんな僕の心配を払拭するかのように、ミサキは一際明るい声を出した。
「ガク、怪我は大丈夫?」
「うん……」
殴られた跡は痛く、熱を持っている気がする。
だけど、今はそれよりも心が痛かった。
「情けないよね、僕……」
「ガク……?」
「だって……助けに来たのに、逆にミサキに助けられてさ……」
「そんなことない!!」
僕の言葉を遮るミサキ。
繋いだ手が、一際強く握り締められた。
「あっ……」
そのとき初めて、まだ手を繋いだままだったことに気付く。
「ゴ、ゴメン!」
そう言って、どちらからともなく手を離した。
沈黙――
夜風が吹き抜けていく。
その沈黙を破ったのはミサキだった。
「ガク……」
「……うん?」
「助けに来てくれて、ありがとう……すごく嬉しかった」
「いや……僕は……」
見詰める視線に少し恥ずかしくなり、僕は頭をかいた。
「でもね……」
ミサキは、悲しげな表情を浮かべて瞳を反らす。
「もう、あんなことしないでね」
「えっ?」
「私のために、ガクが傷付くのは嫌だから……」
ミサキはくるりと踵を返し、僕に背を向けた。
「私なら大丈夫だから、さ」
「で、でも!」
「私、案外強いんだよ? 力だって結構あるし……」
彼女は顔をこちらに向けると、力こぶを作る真似をする。
白く細い二の腕は、どこが盛り上がったのか良くわからない。
だけどミサキは、そんなことを気にせずに言葉を続ける。
「この前、テレビで護身術っていうのも見たし……」
そして、再び僕に背を向けた。
「だから私、泣かなかったでしょ?」
ミサキは、ゆっくりと夜空を見上げた。
「私ね……ちっちゃい頃から泣き虫で……そんな自分を、ずっと変えたかったんだ」
「ミサキ……」
「だから……もう……大丈夫なんだよ……」
そう言って、僕から遠ざかろうとする。
「ミサキ!!」
僕は、去っていくその手をつかんだ。
「ガ、ガク!?」
驚き振り返るミサキ。
僕は静かに口を開いた。
「……いいんだよ」
「えっ……?」
「もう……強がらなくていいんだよ」
「だ、だって……私……」
うろたえるミサキに、僕はそっと首を横に振った。
「もう……いいんだ……」
夜風が、頬を撫でる。
「あ……あれ?」
その風に
「あれ? おかしいな……泣き虫は卒業したはずなのに……」
「いいよ――」
僕は、静かに微笑んだ。
「ミサキは、そのままでいい」
「ガク……」
ミサキの両の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「ダメ……そんなこと……言われたら……」
「ミサキ……」
「ゴメン……少しだけ……泣かせて……」
彼女は、僕の胸にそっと頭を預ける。
その小さな体を、僕はしっかり抱きしめた。
「泣きたいときは、泣いてもいいんだよ」
「ガクゥ……」
胸の中で、声を上げて泣くミサキ。
僕は、その頭を優しくなでた。
「私……私……!!」
「うん……うん……
ミサキは、いっぱい頑張ったよね」
恋免のこと――
ナオさんとのこと――
鬼たちに絡まれたこと――
そして、逃げた僕をずっと探してくれて……
こんな僕と、正面から向き合ってくれたこと――
ミサキの想いが、その優しさが心に伝わり、いつしか僕の瞳からも涙が溢れていた。
どれくらいそうしていただろう。
やがて2人はゆっくりと離れた。
「帰ろうか」
「うん……」
僕の言葉に、ミサキは小さくうなずく。
合宿所を目指す2人。
街灯の明かりを頼りに夜道を歩いていく。
僕たちの間に会話はない。
だけど、繋いだその手は、ずっと離れることはなかった。
「ここでいいから……」
合宿所の女子宿舎の入口まで来ると、ミサキは静かにそう告げた。
「ミサキ……今日は、本当にありがとう」
僕の言葉に、ミサキは微笑み首を振った。
「私の方こそ、ありがとう」
真っ直ぐに僕を見詰める瞳にはもう、先程までの陰りは見られなかった。
「明日の試験、頑張ってね……」
「うん……」
「それじゃ、ね……」
「うん……」
僕は手を離すと、2、3歩後ろに下がった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ミサキは手を振り、宿舎の中に消えていった。
「ミサキ……」
その名をつぶやく。
ミサキがいなくなった後も、僕はそこに立ち続けた。
冷たい風が吹く。
それと共に、頬に水の粒が落ちてきた。
夜空の厚い雲は雨雲となり、大粒の雨となって辺りに降り注ぐ。
ミサキのためにも、明日の追試は絶対に受からなくちゃいけない……
僕は、土砂降りの雨に濡れながら、そう心に誓った。
冷たい雨粒は傷口に少し染みたけど、熱を持った体には心地良く感じられたんだ……
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