振り返って笑った君が、繋いだ手を離すまで。

森音藍斗

序章

 赤く擦りむいた膝に為すすべもなく泣く君の、手を取った。

「い……痛いのはさ、すぐに治るって証拠なんだよ」

 口から出任せだった。何か慰めなければならないと思った。取り敢えず思いついたことを口に出しただけだった。

 しかし、君は顔を上げて僕を見た。

「ほんと?」

「ほんとほんと!」

 涙を止めなければ。それだけを考えて根拠のない丁稚上げを並べた。

「痛いってことはさ、バイ菌が入ってこないようにさ、ゆうちゃんの体が戦ってるんだって」

 それは風邪を引いたときの発熱の理由である気がした。でもそんなことはこの際どうでもよかった。君はその僕の説明を最もらしく感じたようで、口の端をちょっと上げて笑った。

 僕は安堵の溜息を飲み込んで、続けた。

「バイ菌と戦うの助けるのにさ、お膝、洗いに行こう?」

「うん」

 君は素直に頷いて、僕の手を頼りに立ち上がる。

 僕と君は、公園の端にある水道を向いた。手を離すという考えは一ミリも浮かばなかった。

「数えながら歩こう」

 君はそう提案した。

「水道まで何歩あるかなあ。たっくん、いくつまで数えられる?」

「……きゅうじゅう、きゅう」

 頭をフル回転させて、そう答えた。僕が知っている範囲での最大の数を発音するためには、九を繰り返せばいいはずだった。昨日お風呂の中で、父親に教えてもらったことだ。ただ、まだきゅうじゅうきゅうまで自分で数えたことはなかった。いちから順番に数えて、自信を持って正しいと言えるのはさんじゅうまでだった。

 しかし、君の前で、僕はきゅうじゅうきゅうまで数えられると言った。

「きゅうじゅうきゅう? たっくんすごいね!」

 理論はわかっている、数えられるさ、と僕は気丈に頷いて、彼女とともに歩き始めた。

「いーち、にーい、さーん……」

 一歩ずつ声に出し、大股で歩く君に、いつの間にか引っ張られるようにして僕は歩いていた。

「しーい、ごーお、ろーく……」

 君の声に自分の声を重ねる。君の声に隠れるように僕の声がくすむのは、僕の心がくすんでいるから。

 十を数えたときに後ろを振り返り、さっきまでいた場所とこれから行く場所への距離を比べた。大丈夫。そんなに大きな数にはならなさそうだ。

 そんな僕に気付くことなく、君は僕の手を引き続けた。

「じゅうさんのつぎは?」

 君が僕を見て首を傾げる。

 その頬に伝う涙の跡はとっくの昔に干からびていた。僕は進行方向をまっすぐに見て、緊張と果敢がない交ぜになった状態で次の足を踏み出した。

「じゅうよん」

 君も黙って前進する。血の滲んだ膝を懸命に動かす。

 さんじゅうまで数えたとき、水道は目前に迫っていた。

 にじゅう、の次が、にじゅういち、だから、さんじゅう、の次は、

「さんじゅういち」

 煙が出そうなほど脳味噌が動いている。

「さんじゅうに」

 そんな僕の内部心理を知ってか知らずか、

「さんじゅう、さん」

 僕がそう言ったと同時に、君は僕の手をぐいと引っ張ったのだった。

「着いたよ!」

 君は、蛇口に手を掛けると、思い切り水を出した。

 コンクリートに当たって弾けた水が、僕の顔にまで飛んできた。

「うわあ」

 思わず目をぎゅっと閉じ、また開けたときそこには君の笑顔があった。

「これで怪我なんてすぐ治っちゃうね」

「治っちゃうよ」

 同調する。

 君は、僕と繋いだ手を頼りに片足で立ち、もう片方の手で膝を綺麗に洗った。

 僕なんかじゃなく、水道に捕まった方が安定するんじゃないかと思ったが、僕は何も言わなかった。

 君の手は子供らしく柔らかく、あたたかく、頼りなげに、しかし確かにそこに存在した。

 僕の手の内に存在した。


――――――――――――――――――――


 俺は布団を跳ねて起き上がった。

 苛々していた。

 苛々している、と客観的に自分を観察している自分にまた苛ついた。

 喉が渇いた。

 夢で泣くとか俺は乙女かよ、とやけに冴えた頭で慈悲のない自評を下し、部屋を出て暗闇の中を手探りで歩く。

 家族を起こしてしまえば、どうしたと問われる。それは御免だ。電気をつけずに階段を下りる。一、二、三、四、五、六、七、八。踊り場からふたつ下の段は軋むのでとばして下りる。十、十一、十二。終わり。

 二桁も満足に数えられなかった俺は、自分を僕と称し神崎かんざき優陽ゆうひのことをゆうちゃんと呼んでいた自分は、優陽からたっくんと呼ばれていたあの頃の俺は、無知で、無垢で、愚かで、まっすぐで、

 そのままキッチンに向かい、水道の蛇口を捻る。ステンレスの流し台に落ちても水しぶきで周囲を濡らさない手加減を習得したのは、いつのことだったのだろう。

 水切り籠に伏せてあったグラスを取って、水を飲む。ぬるく、無機質なにおいがした。おいしくはなかった。

 あの日家に帰ってから父に尋ねると、怪我したときに痛みを感じるのは、脳に怪我したことを伝えるため云々で黴菌の駆除とは無関係だと教えられた。当時は難しすぎてわからなかった。今なら理解できる。自分が根も葉もない嘘をいたということを。

 グラスを最後に水だけで軽く漱ぎ、俺は腕を伸ばしてそれを籠へ戻そうとした。

 ふと、君の手を思い出した。

 手中のグラスは硬かった。冷たくもないが室温に染まり、確かに物質としてそこにあるのに、どこか自分とは違う世界に存在する気がした。

 俺はそのまま手を離した。グラスは位置エネルギーを運動エネルギーに変え、床に当たった瞬間に音エネルギーを放出して割れた。

 当たり前だった。

 しまったな、と思ったのはグラスが割れてからだった。

 今の音で誰かが起きたかもしれない。顔ぐらい洗っておけばよかった。涙の跡が残っているのは、今回に関しては君の頬ではなかった。裸足の甲に、ガラスの飛沫が掛かったような感触があった。スリッパぐらい履いてくればよかった。いま足を動かせばガラスの破片を踏んでしまうことは明白だった。

 キッチンの電気がつけられたとき、割れたグラスの前に素足で佇み、顔を手で覆って静かに涙を流し続ける俺を見つけた両親は、一体何を思っただろうか。

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