第一章 フシギサークル
君の涙を見て、俺は殺さないと、と思った。 01
2055年 夏
夏の青空は凶器になりうる。
窓枠という額縁で入道雲ごと切り取られたそれが、一枚の絵画のようにどれだけ美しいとしてもだ。
そんなことを考えながら、俺は汗ばんだ掌で目を通し終えた本の表紙をゆっくりと撫でていた。
「……あ」
また悪癖が出た。小さく舌打ちをしてシャツの裾で表紙を拭き本棚へ戻す。
続き物の小説で、戻した棚からは貸出中の四巻と六巻が抜けている。そのせいで所々情報が欠落していたが、そこは本が戻り次第補完すればいい。
俺にとって、順を追って話を読むということに意義は無い。
あくまでも、何冊読んだかが大事なのだから。
「これでBF―6からBF―10までの棚は完了……っと」
俺はそう呟くと、五時になっても未だ明るい空を見上げた。全ての窓は開け放たれ、熱を孕んだ風がカーテンを限界まで膨らませてから室内を吹き抜けていく。
申し訳程度にその風はほんの僅かに皮膚を伝う汗を気化させて、図書室を利用している生徒に涼を与えていた。
『本日の貸出業務は終了します』
窓口係の珠洲さんのアナウンスが、マイク越しに部屋中に響いた。俺はその声にパブロフの犬のごとく反応してカウンターへと足早に戻る。
可愛らしい珠洲さんの一声が口火となって、貸出カウンターに本を抱えた利用者が殺到していた。だからこの時間だけは俺も貸出用の古臭いハンディスキャナーを手にして粛々と居並ぶ生徒を捌かなければいけない。一時期は部屋の出入り口を通過するだけで、自動的に本に貼付されたタグを読み取り貸出手続きがなされるRFID(Radio Frequency IDentification)のシステム導入も検討されたが、膨大な量の本へのタグの貼付の手間とコストに対して、いくら使っても金の掛からない図書委員という名の学生労働力は、よほど教育委員会の目には魅力的に映ったらしい。
結果としてこの二〇五五年まで旧技術、旧体制然とした図書委員による図書室の管理がこの学校では続いていた。
「殆ど仕事しないのに、ホントにスキャナーの操作だけは適確だよね」
そんな俺を生真面目な珠洲さんは呆れ半分感心半分といった顔で評してくる。
「珠洲さんに褒めて貰えるなんて恐縮です」
やっと未練がましく居座っていた利用者たちを部屋から追い出して、俺は重たい木の扉を閉じた。
無人の図書室は、びっしりと居並ぶ本達が醸し出す濃密かつ静謐な知識の気配にぎゅうぎゅうと占められていて、俺は案外好きだ。今は夏なのでその気配は希薄だが、真冬になればその気配ははっと息を呑むほどに間近に感じられる。
それは、まるで自分の第六感が還ってきたのではないかと錯覚されるほどにだ。
田舎の有り余った土地に建てられた、体育館サイズの二階建ての図書室は、もはや学校とは独立した図書館と読んだ方がしっくりくる。
この辺りで昔力を持っていた地主が、道楽で建てたレンガ造りのモダン建築をそのまま利用しているのだとは、この図書室にある郷土資料から得た情報だ。事実既に関東一円で最多の蔵書数を誇りながらも、まだ余裕のあるスペースや地下の保管庫へ周りの小さな地方図書館の閉架書庫に収まりきらなくなった本を受け入れている。
貪欲かつ無差別に知識をその腹に収めながら、それでも尚紳士めいた洗練された佇まいを失わずに利用者を迎え入れるこの建物は、年数が経つほどに味わいが出て地域の頭脳派の人間の目を引くらしい。
その結果、この地域で三度の飯より本が好きな連中は、大体この高校を受験しているのは有名な話で、珠洲さんもそんな生徒の中の一人だった。
「うーっ……重たいーーーーー!!」
静寂を無遠慮に破り取るかのような鈍い音を立てて、珠洲さんは返却図書の積み上がったキャッシャーをカウンターの外へ押し出す。業務時間中に戻しきれなかった分の返却本も、その日の内に片付ける。それが図書委員会の決まりだった。
「無理しないでください」
珠洲さんは俺の先輩で三年生の図書委員だ。入退院を繰り返していた幼少時代にすっかり本の虫として羽化し、読書量に関しては自分など足元にも及ばない量を誇っている。俺知る中で数少ない尊敬できる人間の一人だった。
「これぐらいやっておきますよ」
俺の腕が珠洲さんの頭上を通り越しキャッシャーの取っ手を掴む。そう、珠洲さんは頭脳に反して見た目はまだまだ子供。小学年にさえ勘違いされる小さく細い体では、分厚い本を数冊運ぶことにさえフラついてしまう。
「ほんとに~?ありがとう!私丁度図書館に寄って帰りたかったんだ!!」
この規模の図書室の後に地元の小さな図書館まで行くとは筋金入りの読書家だ。ちなみに前冗談でその後は本屋ですか、なんて言ったら家には書斎があるから、なんてそれならずっと家にいたらいいんじゃねって思ったりもしたりもする。
「じゃあ戸締り宜しくねー」
珠洲さんが出て行き人のいなくなった図書室で、俺は黙々と本を元の場所へと片付ける。傍から見たら取り出した本をパラパラとめくり、破損が無いか確かめ、正しい位置に戻しているだけに見えるだろう。
だが実際は高速でめくられるページの文字はすべて頭に叩き込まれているし、一度読んだ本は二度読む必要は無い。後五年もあればこの図書室の本は全て俺の記憶領域に取り込まれ、読む本がなくなった俺は新刊リクエストをひたすらに出すか、近場の本屋に居場所を移すことになるか、もっと離れた大きな図書室のある学校に引っ越すのだろう。
「情報収集が任務って、終わりが見えねえのが難点だよなぁ……」
無人であることに油断をして、つい仕事の愚痴がこぼれてしまう。最後の一冊を仕舞い終えると俺は施錠をして図書室を後にした。
「ったく、いつまで学生やってりゃいいのかねー」
一サイクルが学生生活三年間、気付けばもう七サイクル目に突入している。来年はまた受験生。俺は偽造した大学の合格通知なり、企業からの内定書だったりを提出して、恙無く皆とこの学校を卒業するのだろう。
そしてその瞬間サイクルが回り、この高校での俺の記録記憶は完全にリセットされ、短い春休みを休息に充て、桜舞い散る頃にまた俺はこの高校に入学するのだ。
はい、リピートリピート。だがプログラムが組まれている以上、俺はそれに従うしかない。
二十年も高校生をやっていれば年季も入ってくるもので、特に勉学に勤しむ事も無く牧歌的な高校生活を堪能できるのは当然の事。そんな中でも俺はこの弛んだ感じの二年生が一番気に入っている。
だから折り返しの夏になると、早すぎるサザエさん症候群に、ほんの少しだけ憂鬱になってしまう。
「あー……殺してえなぁ……」
鬱積とした思いが引き金となり、口を出た未だ抜けない物騒な口癖を「バッチコーイ!」と野球部の掛け声が吹き飛ばす。影が焦げ付きそうな日差しの下、汗を流して練習に励む少年達。日が長いので、部活時間も長い。ご苦労な事だ。
青々とした針葉樹林が生茂る山々に程近いこの明洛西高校は、山に囲まれた巨大な盆地の縁に存在している。
夏は暑く、冬は底冷えする寒さ。夏休み直前の今は俺の
「……この星の学生は真面目だ……」
ああ、自己紹介が遅れたな。
あたりまえのように事実を話すと、俺は宇宙人だ。
実際は俺以外にもたくさんいるので、そこを考慮すれば、
我々は宇宙人だ。
と言った方が正しくて地球人受けも良いのではないだろうか。
ガガーリンより先に地球の青さに目をつけていて、色々と複合的かつ自業自得的な事情が重なった結果、死に物狂いでこの星に漂着した残念な宇宙人。
その“我々”の一員として、俺は二十年前からこの地球にお邪魔させてもらっていたりする。
まあ、よろしく。
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