第96話 謀略戦
「――――よし、もういいぞエリィ。神術を解いても大丈夫だ。ご苦労だったな」
「うん……ねえアラタ様、あと何人ホランド人をこうやって殺せばいいの?」
酔っ払いを川に沈めた二人は医師団に割り当てられた土地に張った天幕の中で腰を落ち着けていた。
一団が使っている天幕の中でエリィは、アラタに不満を述べる。オウルというのはアラタの偽名だ。彼だけは名前が売れすぎていることもあり偽名を使い、髭も剃らずにかなり伸ばしていた。今は周りにホランド人が居ない事から、多少警戒を解いて本名で呼ばせている。
「あと一月ぐらいだな。持ち込んだ薬はそれぐらいで使い切る。それまでに可能な限りホランド軍の指揮官を排除しないと、今後のドナウとの戦が不利になる。王都を出る前にそう説明しただろう。まだ幼いお前に汚れ仕事を手伝わせるのは俺も心苦しい」
ごめんな、とエリィの優しく頭を撫でる。無言でその手を受け入れ、少しだけ気分を良くしたエリィがアラタの膝の上に座る。こうして見ると、二人は仲の良い兄妹に見える。
正直、アラタもエリィを戦場に連れてくるのは間違いだったと感じていたが、既に巻き込んだ以上はその事を口に出来る資格など無いと自身を戒めた。
どうやら敵地のど真ん中に居て、アラタ自身も少し精神的に参っている部分があるのだろう。こうして娘と触れあっていると、その温かみにささくれ立った心が癒されているのが分かる。妻達との肌の触れ合いともまた違う充足感がそこにはあった。
諜報部としてアラタはホランド軍の弱体化を考えて、サピン戦のどさくさで指揮官を可能な限り暗殺する事を思いついた。軍集団を統率するには優秀な指揮官は不可欠だ。その司令塔となる者が居なければ集団は機能不全を起こす。今回のサピン戦にも勿論影響があるだろうし、不戦協定の切れる二年後の戦いにも大きく関わってくる。
その為、アラタ達は医者を偽り、酒と治療を商品にホランド軍への接近して、首尾よく内部へと入り込んだ。同行した医者の大半は貧民街で闇医者をしていた者だが、数人はホランド語を話せないと面倒になるのと、ルドルフへの嫌がらせに学務省から人を無理やり借りて来た。さらに念の為の護衛として、リトからガートを借り受けて同行してもらった。元々彼女はサピン人で、紆余曲折あってドナウに来たが、それなりに土地勘もあり、護衛以外にも帰りの道案内を頼むつもりでいた。
暗殺にはエリィの神術は遺憾無く力を発揮した。視覚を惑わし幻影を見せる神術は、容易く軍の内部までアラタを進ませ、今日まで五人の指揮官を暗殺出来た。勿論警戒されないように、今回のように酔っぱらって溺れた様に事故を見せかけて殺害している。あるいは酔い潰れて厠に頭から突っ込み、汚物で窒息死したように見せかけたり、宴会している最中に少量の毒を食事に混ぜて、死ななくとも徐々に体を弱らせ軍務に支障をきたせるなど、かなりあくどい事にエリィの神術を利用していた。
元軍人のアラタにとっても殺人はそれなりに精神的負担になっているが、まだまだ余裕がある。だが、幼いエリィは違う。自身の関係ない所で見知らぬ人間が死んでも気に留める事など無いが、自身が殺人の片棒を担いでいるという事実は相当精神に負担を掛けている。
今までに人を騙す事や、ゴロツキをあしらう事に神術を使った事はあったが、そこまで負担は感じなかった。だが、今回は違う。周りが敵だらけで不安な事も大きいが、自らの行為が直接人の命を奪っていると知って、恐ろしいと感じてしまった。アラタに引き取られた時に、『もっと効率の良い使い方を教えてやる』その言葉に嘘は無かったが、出来ればもっと違う方法を教えて欲しかったというのは贅沢なのだろうか。
村に居た時よりずっと良い暮らしは出来ても、相応の対価は支払わねばならないのは、アラタの教育で理解したが、辛いものは辛い。
特にここに来てから目の前で人間が挽肉なったり、腕が落ちる所を目の当たりにしており、さらにはどこからも敵意を持たれる不安さもあり、どうにも夜は一人では寝付けない。
「―――今日も一緒に寝て良いですか?」
「んー、まあいいか。けど嫁入り前の娘があんまり男と一緒に寝るのは良くないぞ。俺にとってはお前は娘だし、手は出さないけど、他の男には軽々しくこんな事しちゃダメだからな」
ドナウの一団で女はエリィとガートしかいない。だが、ガートはあまり人と慣れ合うのを好まず、寝る時はいつも一人だ。一度エリィが一肌恋しさに彼女の毛布に潜り込んだが、締め出されはしないものの、翌朝に二度目は止めてくれと断られた。だから消去法でアラタしかいない。幾らエリィでもほとんど知らない男の寝床に入る気は無い。
エリィは今年12歳になるが、まだ初潮は来ていない。だが、飢えた男からすればそんな物は関係ないとばかりに襲うもので、現に宿営地で鎖に繋がれて慰み物にされている子にはエリィより年下の子もいるし、彼女自身初日から兵士の一人に襲われかけた。
その点アラタは異常に身持ちが堅く、エリィが知る限りアンナとマリア以外に関係を持った事が無いので、安心して寝床に潜り込めたわけだ。
アラタにとっても、孤児院時代に寂しさから時々年下の子がベッドに潜り込んできた事があり、そういう事には慣れていたので仕方が無いと割り切って毎日のように同衾している。何より精神的に負担を掛けているのはアラタの都合なのだ。これぐらいはメンタルケアしてやらないと無責任と言えた。
「じゃあ、もう寝るぞ」
「はーい、おじゃまします」
エリィが嬉しそうにアラタに抱きついて、人肌の暖かさを堪能していると、すぐに眠気がやってきて、可愛い寝息が聞こえてきた。寝つきが良いねえ、と呆れ半分、愛おしさ半分のアラタも明日の仕事の為に、毛布をかぶって眠りに就いた。
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ホランドが王都エルドラを攻め始めてから一か月余りが過ぎた頃、段々と戦況に変化が現れ始めていた。サピン側は城壁の上から、いつも通り日中には多くの投石器が稼働し、弓兵が矢を射かけてくるのだが、どうにも攻撃の手が弱い箇所が幾つかあるように見える。寄せ集めの軍なので何かしらの不具合を抱えているのかも知れないし、数日前から川を堰き止めているので、その影響が出始めているのかもしれないが、後で詳細を聞いてホランド軍は予定より早く終わりそうだと楽観視した。
王宮で内部対立が出始めているという。対立しているのは主に宰相派と軍部のようで、軍を構成するのは徴兵された平民とその領地の貴族が多い。彼等は王都防衛を担っていても、元はサピン各地から集められた寄せ集めだ。その兵士達の故郷が、ホランド騎兵の蹂躙にあっていると聞けば、助けに行きたいと思うのは当然だ。地方貴族とて自分の領地が荒らされ、家族らが嬲り者にされているのだ。すぐにでも救援に向かわせろと、まとめ役のアルフォンソに毎日陳情しているという。
だが、その願いは聞き入れられず、相当不満を募らせているらしい。特に宰相が王都を優先させて、地方を見捨てていると伝わると、目に見えて戦意が落ちてきているという。冷静になって考えれば、今ここで救援に向かうとなれば、城から打って出る事になる。そうなれば野戦に突入だ。それを喜ぶのは他ならぬホランドだろう。幾ら騎兵が出払っているとはいえ、兵の数は倍以上いる。籠城以上に勝ち目のない戦などすべきではないのだ。
そしてよしんば船を使ってホランドに気づかれずに地方に援軍を送った所で勝てる見込みが有るとは限らない。頼りのナパームは投石器などの投射装置が無ければ使い物にならない。だが、船にそんな大型の荷物は多くは乗らない。それでは仮に援軍を送った所で、ホランド自慢の騎兵に蹴散らされるだけだ。
その二つの理由から援軍は送れないと陳情を却下しても、納得出来ない者は大勢居るのだ。特に教育を受けていない農民兵はそれが顕著で、明らかに王都を護ろうという気概が無くなっていた。
「どうして故郷を護ってくれない王様を護る必要があるんだ!?」
彼等の心はこの一言に尽きた。
その情報をホランドにもたらしたのが、サピンに物資を運んでいたレゴス商人だった。彼等は王都の港に乗りつけて、食糧などを高値で売り払った後、すぐ近くのホランド陣営に仕入れた情報をすぐさま売りつけて、情報提供料を貰っていた。
商人からすれば他国の戦など、恰好の儲け話でしかない。現にホランドが布陣して一か月経つ頃には多くのレゴス商人がやって来て、兵士相手に儲けている。商品は多岐に渡り、酒や菓子のような嗜好品に、将棋盤のような娯楽用品もある。他にも鍛冶職人がやって来て、鎧や剣の手入れを請け負ったり、脚竜の鞍の修理などを担当し、金を稼いでいた。流石にアラタ達のように医師団を引き連れるような者は居なかったが、薬を取扱う商人はそれなりに来ていた。
彼等の多くはレゴス人だったが、サピンを攻め滅ぼす事には大して興味を抱かなかった。サピンと大口の取引を行っていた商人は打撃を受けただろうが、ここに来ている商人の大半は零細商人で、誰を相手にするかなど、どうでも良かったのだ。貨幣、あるいは貴重な戦利品さえ対価にあれば、他国がどうなろうと知った事ではない。生活の為、成り上がる為には手段は選ばない。それが彼等の生き方と言えた。
そんな商人とはいささか毛色の違う集団と見なされていたドナウの医師団は、ここ一ヵ月で複雑な評価を得ていた。腕の良い医者とよく効く薬を用意して、兵士を治してくれるありがたい存在と、子供に剣を向けた非があるとはいえ、二十人以上の同僚を殺した復讐対象、その二つだ。
特にオウルと名乗る一団の長と、護衛のサピン女への憎しみは拭い難く、何度か復讐をしようと襲撃を掛けた者が居たが、その悉くが返り討ちにあい、十人の兵士が犠牲になっている。流石にその兵士は擁護出来ないものの、感情はまた別であり、二人はかなり嫌われていた。
尤も、アラタが医者として活動しながら裏で何をしているのかを知ったら、その程度の感情では済まなかっただろうが、暗殺の影すら掴ませなかったので、その程度だった。
この一ヵ月でアラタがエリィの助力で殺害したホランドの指揮官は優に二十を数えた。そのどれもが事故死、あるいは戦の負傷が元で死んだ事になっており、軍の統率に僅かだが綻びが見え始めていた。今の所、各地で略奪を繰り返して士気を上げているものの、こうした統率の綻びは、士気が下がっている時に影響が出やすい。だからこそ目に見えない内から秘密裏に排除しているわけだ。特に今は目の前にサピンと言う敵がおり、和平を結んだドナウを警戒する余裕が無い。万が一、指揮官が暗殺されたと気付いても、第一に疑うべきは不利な状況に置かれているサピンなのだ。アラタはそれを見越して、今も自ら暗殺を繰り返していた。勿論情報漏洩を考え、他の医師には単に情報収集に来たとだけ伝えてあるので、彼等から暗殺が発覚する事は心配していなかった。
そうして表向きは精力的に兵士の命を救い続けていた一団にユリウス王子から呼び出し命令が届いた。呼び出されたのはアラタ一人だったが、一商人が王子が会うというのは異例の事態だ。他の団員やエリィが不安そうに見ているが、アラタは彼等程不安には感じていない。
「分かりました、今から伺います」
不安そうなエリィ達に見送られて、伝令役に宿営地の中央に設置されたユリウス王子の本陣まで案内された。
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