第91話 馬鹿し合い



 ドナウ最大のイベントが終わり、招待客の大半が帰路に着いた数日後、相変わらず忙しい様子の諜報部の執務室で、娼館の娼婦が祝い客から抜き取った情報を持って来たリトが、アラタと情報の確認をしていた。


「流石に次期国王の結婚式ともなれば王都に滞在する貴族やその護衛に供回りまで、完全には把握出来ませんでした。一応出来る限りの情報は得ていますが、取りこぼしも相応に有ります。まだこちらで精査する段階ですから、もう暫く待ってください」


「量が量だから時間にそこまで注文は付けんよ。だが、よく働いてくれた。貴方方の苦労への対価はきっちりと払おう」


 多くの王政府関係者や王都に住む平民達は、祭りが終わればまた元通りの生活に戻るだけだが、一部の人間はまだまだ仕事に追われている。諜報部もその内の一つに該当し、祝い客から集めに集めた情報を、今度は必要な情報かどうかを選定して無駄を取り除き、報告書に上げねばならない。

 むしろどれだけ貴重な情報を手に入れても、それを必要な役職の人間と共有してこそ、情報とは始めて価値を持つ物だ。それを諜報部の人間は理解しており、ここからが本番の作業と言えた。



 そして今回引っ掛かった獲物は外からの祝い客だけでなく、中の人間も多く含まれている。リトはその中でも特に重要そうな情報を、いち早くアラタへと報告しに来ていた。尤もその情報は既にアラタもV-3Eによって知り得ていたが。

 その報告の途中にリトとの会談を遮る形で使用人がアラタを呼びに来た。カリウスからすぐに来てくれと、呼び出しを受け、リトを執務室に待たせて義理の父でもある国王に会いに部屋を出た。



 案内されたのはカリウスの執務室だった。部屋の主以外にもエーリッヒとルーカスが椅子に座っており、入って来たアラタに視線が集まる。カリウスは心なしか声が硬い。いや、どちらかといえば不機嫌というべきか。


「仕事中に済まんな。そなたに関係のある話なので、直接呼んで話す事にした。まあ掛けろ」


 カリウスに言われた通りアラタは空いている椅子に座り、三人の顔を見渡す。三人とも不機嫌そうな面持ちで、苛立ちも混じっている。特にエーリッヒは折角結婚したばかりだというのに、非常にイライラしており、腕組みした自分の肘を指でトントンと一定のテンポで叩いて、不快感を隠しもしていなかった。


「その様子ですと、良くない話なのでしょうね。諜報部の方からも色々と情報が集まっていますが」


「耳が早いなレオーネ殿。まあ、そういう役割なのだから当然と言えば当然だな。あまりにも陛下の機嫌が悪いので私が説明しよう。

 昨晩だが、ザルツブルグ家当主が塩の供給を絞ると言って来た。名目上は疫病が流行って作業者が集まらないという物だったが、そんな事実は無い。南西部の代官や官僚の関係者からも裏は取れている。そして、その上で恥ずかしくも無く上奏をして来た」


 ルーカスも内心相当怒りを感じていたが、どうにかその感情を飼いならしているものの、それでも僅かに不機嫌さが顔に滲み出ていた。


「君を要職から追放すれば、その疫病も治まるらしい。王家に相応しくない男が近くに居るので始祖の怒りを買い、国が乱れているそうだ。ふざけたもの言いだよ。ドナウの民を人質に取って、ぬけぬけと王家に喧嘩を売って来たのだからな。さらにその言葉に同調する者が何人かいる。恐らく塩の供給を断つと脅されたのと金で転がせた者、そして単に君に対して反発している者を抱き込んだようだ。名前は挙げていないが、それなりの数が居るだろう」


「あの肥満体、君の事が余程気に入らないらしい。以前から事ある事に君とマリアの結婚に反対して、父に直訴までしてきたが、完全に取り合わなかったから諦めたと思ってたけど、今になって蒸し返してきた。本来ならこんなふざけた要求をしにきた時点で蟄居させるが、今は他国の目がある。ドナウ内の、それも王家の縁戚の不祥事なんて表沙汰に出来ない。それを分かっていて、こんな馬鹿げた事を口にしてるんだろうよ」


 エーリッヒが美形と呼べる端正な顔を歪めながら、王家を虚仮にしたマンフレート=ザルツブルグの顔を思い出して、悪態を吐く。彼は暗愚かつ不愉快なまでに肥え太った男が元から嫌いだった。事ある事に自分に流れる王家の血を自慢げに語っていたが、その血に相応しい責務を碌に果たしておらず、あまつさえ領内で好き放題に振る舞っているのを知っていた。

 今回の一件でエーリッヒはあの男の首を挿げ替えたいとさえ考えていた。本当にそれが出来ればスッキリするが、他国の祝い客がまだドナウ国内に居る以上はそれも出来ない。だからこそここまで機嫌が悪いのだ。折角の新妻との満ち足りた時間をぶち壊した男への恨みは極めて深いと言える。


「私の方からも確定していませんが、それらしい話は入ってきています。ザルツブルグ家当主と別の領主の何人かあるいはその縁者が、王都で頻繁に密談していると、リト…貧民街で情報を集めてくれる男が先程教えてくれました。どうあっても私を遠ざけたいのでしょう

 ホランドがまだまだ健在だというのに、何を考えているのやら。ああ、どうせ何も考えていないのでしょうね」


 余程、あの時自分に楯突いたのが許せなかったのか。もしくは卑しい平民が高貴なる貴族を恐怖させたと認められなかったかだ。肥大化したプライドというのは害悪にしからならないらしい。こんな事をした所でドナウに利があるとは到底思えない。

 アラタにとっては今の地位など仕事のオマケで付いて来た程度の物でしかない。必要ならばすぐにでも返上して構わないとさえ思っている。

 元よりホランドという外圧を跳ね除ける為に力を貸していたにすぎないのだから、そこまで惜しいとも感じない。ホランドの驕り高ぶった矜持と傲慢さをへし折られて屈辱に塗れる顔を見たいとは思うが、何を置いても優先する気は無い。


「今更そんな事を蒸し返した所で、マリア殿下との婚姻が覆るはずが無かろうに。あまつさえレオーネ殿の子を身籠った以上、相応の扱いは当然だろう。慶事のすぐ後に処罰をするのは外聞が悪く、表沙汰に出来ないのを狙ってやったにしてはあの男に利益が無い。単に君への反発で、王家からの信頼を失うとはどう考えても割に合わん。あるいはあの男ならそんな事も分からんのだろうが」


 ルーカスの言う通り、普通の貴族ならまずは損得勘定で動く。貴族の矜持や面子とやらは大事だろうが、まずは自身、あるいは自分の家や配下への利益が無ければそうそうに動く事は無い。アラタを王家から遠ざけた所で自尊心は満たせるだろうが、腹が膨れる訳では無い。これがマリアとの結婚前で、ホランドとの戦いが無いのであれば、既得権益を奪いかねない新たな貴族を生み出さないよう動いたと筋は通るのだが。

 愚か者の思考は理で動く人間には非常に読みにくい。


「―――入れ知恵した者がいるのでしょう。確定情報ではありませんが、ザルツブルグ家の屋敷に、多くの国内貴族や領主が出入りしています。その中にデーニッツ殿やハインリヒ殿も居たそうです。屋敷で何を話していたのかは探れませんが、あの二人が入れ知恵した可能性もあります」


 学務長官と財務長官の名が出て来てアラタ以外の三人の顔が強張る。婚儀の数日前に二人が、そして終わった後にはデーニッツが再び屋敷に招かれているとの情報があったのだ。他の閣僚も誘われていたそうだが、以前アラタの結婚についてカリウスに相当食って掛かり、煙たがられていたのを覚えていたので適当に理由を付けて断っていたが、あの二人だけは誘いに応じていた。

 この情報はリトと、農務長官のラルフからもたらされた物だ。リトは仕事なのだが、ラフルは彼等と一時期距離が近かったが、最近は精神面で距離を取っていた。アラタからビートモドキと製糖を教えられて、借りが出来たと感じており、表向きは二人にすり寄りつつ、時々情報を持って来てくれる。言ってみればスパイ行為をして、こちらに恩を売って乗り換えるつもりなのだろう。


「だが、あの二人が何故アラタを敵視する?まあ平民が王家に入り込むのは貴族として面白くないだろうが、そこまでして排除したいのだろうか?それも無用な騒動を起こし、民を苦しめてまで」


 根が真面目なエーリッヒは考え込んでしまう。彼は凡庸だが、決して愚鈍では無い。才が無いからこそ必死で考えて、常に最良の選択を選び取ろうと努力している。そんな男から見れば、碌に利益の生まれないどころが、徒に国を荒らすだけの彼等の行為はまるで理解出来ない。

 アラタも理解出来ないが、逐一観測機器を使って情報を得ているので、頭の中までは覗けないものの、その前後の会話からある程度は意図を読み取れた。


「恐らく、彼等も成功するなどとは最初から思っていないのですよ。あの暗愚を利用して、私へ抗議したかったというのが本音でしょう。『知識や知恵は必要だが、平民が出しゃばるな』そう言いたいのでしょう。それであの男に目を付けた。

 まあ適当に煽てて言質を取らせずに深入りしなかったのと、不祥事を起こしたザルツブルグ家の領地を没収させて、塩の供給を王家が一括管理する。それならば国の税収も増えますから利益になる。どう転んでも自分達の手を汚さず、利益が転がり込みつつ主張できると踏んだ。―――あくまで憶測ですが」


 主張に関してはデーニッツが、財源に関してはハインリヒの考えだろう。どちらも詳細を語っておらず、それらしい口ぶりしか語っていないので、九割九分事実でも確定では無い。恐らくそれを追求した所で証拠も無いし、簡単にシラを切って終わりだ。実の所マンフレートは使い捨ての駒程度なのだろう。



 アラタの情報を聞き、今まで口を閉ざしていたカリウスが普段は見せないような鋭い眼光を見せ、重い口を開く。


「やってくれるな、あの痴れ者どもが。これ程の屈辱はホランドが併合要求を突き付けた時以来だぞ。貴族の矜持を示すのは構わんが、関係の無い民まで巻き込みおって。あの者共への処分はいずれするが、今は塩の供給をどうにかせねば。

 だが、アラタよ。そなたを罷免する気は一切無いぞ。何の罪もない男を処罰するなど、余の矜持が許さん」


 カリウスが君主である自分や義息子のアラタを虚仮にした三人や、その取り巻きを処断する決意を固めつつも、今後の対応を考える必要がある。

 だが、事はそう単純ではない。今回の一件は何もマンフレートだけの問題では無い。アラタという異物が王家に居る事で発生した歪みが表面化したに過ぎない。ホランドという強大な敵を前にして緊急処置として今まで眼を瞑って来たのが、余裕が生まれた故に我慢の限界を超えてしまったのだろう。

 この問題はアラタが居る間、これからも出てくる問題だ。例えマリアが子を産んでも、その子は王家の一員と認めても、アラタは決して認めないに違いない。

 例えここでマンフレートの提案を受け入れても、今度はあの暗愚が増長する。蹴った所で今度は自分に従わない者が塩に飢えるだけだ。きっとあの男は今、主導権は自分が握っていると優越感に浸っているのだろう。それだけがあの男の享受する利益なのだ。


「ですが、このまま陛下が力ずくで押さえ続けても、また不満が噴出しますよ。多少は息抜きさせないと、今度は反乱騒ぎにまで発展しかねません」


「だが、君はそれでいいのか?諜報部はまだまだ君が居ないと動かんぞ。私も君程上手く情報は取り扱えない」


 アラタが諜報部に就任するまではルーカスが情報を統括していたのだ。その取扱いの難しさは彼が一番よく知っている。彼は自分が部下以上の仕事が務まらない事を素直に認めている。そんなルーカスを得難い上司だと、高く評価しつつ信頼していた。

 それに引き換え、マンフレートを筆頭としてこの国の貴族の一部には不快感を覚える。碌に結果も出せないのに不平不満だけは一丁前。それだけならまだしも、日々真面目に働くこの国の民を不必要に苦しめるような行為を行う愚物には、ほとほと呆れを覚える。


(度し難い奴等め。まがりなりにも為政者側の人間が、己の歪んだ矜持を最優先して動くなど恥と思わないのか。仮に俺を放逐した所で、何の利益があるのか、自分の地位を脅かすと?国の利益を度外視してでも行う事かよ)


(大尉のように自身の命すら使い捨ての道具として扱った事のある人間には非合理過ぎて理解出来ないでしょう。ですが人類の歴史上、ああいった人間はいつの時代でも一定数存在します。呆れる前に対応を考えましょう)


 ドーラから冷静な指摘が飛んできて、それもそうかと気持ちを切り替えて今度どうするかを即座に思案する。要は奴らは自分が王家の側にいるのが気に喰わないのだ。なら暫く見えない場所に姿を置くべきだと考え、以前から練っていた策と組み合わせる事を思いつく。


「良くは無いですが、関係の無いドナウ国民が不幸になるのは私も避けたいのです。丁度良いのでほとほり冷ましついでに、他所で仕事をしてきます」




 そう言ってアラタは、少し前から考えていた仕事を三人に打ち明ける。だが、その提案を聞いた三人は危険すぎると言って、アラタを止める。正直な所アラタ自身かなり危険で、生きて帰れる保証は完全には無い。だが、必要なら命は掛けねばならない。


「仮にだ、そなたがそこに赴くのをどうやって余が命ずる?その役目はどちらかと言えば、外務省か軍部の領分だ。表向き、そなたが行く理由は薄いぞ」


「なら、陛下は一芝居打ってください。私が陛下の勘気を被って、しばらく顔を見せるなと怒鳴りつけられて、仕事と称して王都を締め出されたという形なら、最低でも三ヶ月は帰ってこれませんので、不満を持つ貴族も溜飲を多少なりとも下げるでしょう。大丈夫ですよ、私は子供を抱くまで死ぬ気はありません」


 父親になる自覚を持ったアラタの笑顔に、迷いながらもカリウスは義息を信じてみるかと、アラタの提案を受け入れた。エーリッヒも、妹を悲しませないでくれと、釘を刺し、ルーカスにもまだまだ仕事があるから死んでくれるなと、励まされた。

 三人から思いの外、信頼されていたのを嬉しく思いつつ、カリウスに耳打ちする。芝居とはいえ、怒鳴りつける理由のあまりの下らなさに呆れるが、あまり重い理由だと本当に帰ってこれないので、これぐらいの方が丁度良いかと納得して、大きく息を吸ってから周囲にわざと聞こえるように、大音量でアラタを怒鳴りつけた。


「この大ばか者が!!これだけ言ってもまだ分からんのか!!!」


 カリウスの怒声が執務室を超えて、城内に響き渡る。良く聞こえるようにアラタもわざと扉を半開きにしていた。


「いいえ、こればかりは陛下でも譲る訳には参りません!!子供は女の子です!!マリアに似た可愛らしい子が生まれます!!貴方に似た男の子なんて願い下げです!!」


 アラタも負けず劣らずの怒声で言い返し、二人は掴み合いこそしていないものの、一触即発の剣呑な雰囲気だった。エーリッヒとルーカスは一瞬呆気に取られたが、これが芝居なのだと理解し、あまりの下らなさに笑いそうだった。


「なんだとこの若造が!!余の顔に一体何の不満があるというのだ!!寧ろ貴様に似た男が生まれてこない分かなりマシだ!!」


「ああん!一体どういう意味だ!!人様の顔にケチを付けるのか!!王ならその程度呑み込めよ!!そんなんだからマリアの結婚を勝手に決めて張り手を貰うんだよ!!」


「きさまあ!!言うてはならん事を言いおったな!!!あれで一日仕事に手が付かなかったのだぞ!!大体貴様はこの国の常識をもっと理解しろ!確かに娘は可愛いが、まずは息子だ!!跡継ぎを最優先するのは貴様の国でも珍しくなかろうが!!」


「ならポンポン子供作って何人でも産ませてやるよ!!きっと子沢山で賑やかな家庭になるぞ!!嬉しいだろおじいさん!!」


「そうだなあ!!!凄い楽しみだなあ!!けど、やっぱり最初は男の子だ!!それも余に似た孫だ!!」


 二人に置いてきぼりにされたエーリッヒとルーカスは笑いをこらえるのに苦労しており、肩を震わせ腹が捩れそうなほどに、下らない事で言い争う二人が可笑しかった。

 声だけは凄まじく煩いのに、怒鳴り合っている内容が心底下らない。最初は王とその義息が言い争っているのを聞いた使用人が何事かと廊下に集まって来たが、聞こえてくる内容がどれも生まれてくるマリアの子供の事だったので、何故それで怒鳴り合えるのかさっぱり理解出来なかった。

 芝居なのは分かっているが、当事者の二人も段々とヒートアップして子供の将来の事まで話が大きくなったのを見計らい、カリウスがもう良いとばかりに、本題に入る。


「ええい、貴様の顔など当分見たくないわ!!暫く国外で頭を冷やして来い!!サピンに残っている外交官とその家族、それに駐在武官を迎えに行って来い!!必要な物は全て用意してやる!印璽付きの書類をやるから数ヶ月は帰って来るな!!」


「ええ、そうさせてもらいます!!こんな分からず屋の義父より、アンナの方の義父殿の方がずっと大事ですからね!!マリアの事はよろしくお願いしますよ!!!」


 カリウスが怒鳴りながらも器用に必要な書類を作成して、アラタに投げ寄越す。それを受け取ったアラタは、同等の大音量で怒鳴り返しながらも、妻とその中に宿った新しい命を頼むと言いながら、乱暴に扉を蹴り開けて執務室から出て行った。その様子を見た使用人は、二人が完全に喧嘩別れしたと思い込み、その話はすぐさま尾鰭が付いて城中に広まった。



 戻って来たアラタの第一声が『暫くサピン王都に行ってくる』だったので諜報部員とリトは心配そうな目で見る。ただしリトは、自分が持って来た情報が何か関係あるのだとすぐに気が付き、ほとほりを冷ますための出張だと見抜いていた。恐らくリトニアの王宮で、似たような足の引っ張り合いや政治的争いを数多く見てきた為だろう。


「今回は結構長くなる。丁度ユリウス王子率いるホランドの王都攻略部隊が来るだろうから、ついでに情報を集めて来る。準備に数日使って、最低でも三ヶ月は戻ってこれないから、後はみんな頼んだぞ。いつもの様に俺が居ない間はクリスがまとめ役を。どうしようもなく困ったら宰相殿を頼れ」


 代官も務めるアラタが不在の時は、副長のクリスが代理を務める。アラタを除けば宰相の息子であり事務官として、ある程度情報を取り扱っていた経験があるのは彼だけだ。必然的に彼が代理を務めるのに反対は無い。


「わかりました、部長。くれぐれも気を付けて下さい。貴方の力量は疑っていませんが、何せ戦場になる場所に留まるのです。万が一の事が有ります」


「私からも無事を祈らせてください。妹を未亡人にだけは絶対にしないでください。もしそうなったら恨みますよ」


 クリスとヴィルヘルムがアラタの無事を祈ると、他の部員もアラタの事を心配しながらも、帰って来てくれと催促された。アラタが死んでしまっては古巣から命じられた仕事が出来なくなるのが困るのと、それ以上にドナウにとって必要な人間が失われるのは困るのだ。

 エリィはどうするのかとヨハンが聞いてくると、ほんの一瞬躊躇ったが連れて行くと言うと、全員が信じられないと口にする。あの少女を戦場に連れて行くなど無茶にも程がある。確かに彼女の神術は得難い価値を持つが、それでもまだ12歳の少女を飢えた兵士の真っただ中に放り込むなど、狼の群れに肉を放り込むのと同義だ。

 出来れば辞めさせたいが、アラタも命と今後の仕事の是非が掛かっている以上、必要だと割り切った。


「なら、私からガートを貸し出しましょう。あれはサピン人ですから土地勘もありますし、護衛として最高の人材です」


「いいのか?彼女は貴方の護衛だろう?」


 アラタが知る限り、あの求道者は最強だ。諍いの元になるので決して口にしないが、近衛騎士団長のゲルトより強いのだ。その怪物が護衛に就いてくれるとなれば、相当安心出来る。

 リトにとっても良いわけではないが、ここでアラタに死なれると今までの働きの大半が無駄になると言いつつ、大きな貸しになるからと打算的な思惑を隠しもせずに打ち明ける。最初から下心はあるが、アラタに死んでほしくないのはリトも同じなのだ。



 そうと決まれば一秒も無駄に出来ないと、アラタは部員に仕事の引き継ぎをしつつ旅の準備を進める。今度の旅は以前の植生調査と違い、ドナウの外なのだ。より入念な準備が必要になる。生まれてくる子が父親無しでは可哀想だと思うと、絶対に生きて帰るという気持ちに溢れ、身が引き締まる思いだった。



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