第88話 独身者の夜



 ドナウ王国第一王子エーリッヒは独身最後の夜を一人自室で何をするわけでもなくボケっと過ごしていた。現在23歳になる彼はそれなりに多くの女性と関係を持っても妻は未だ持っていなかった。一国の王子としては些か遅い結婚だが、ホランドとの諍いが主な原因の遅れだったので彼自身に落ち度はない。子供が居ないは残念だという者もいるが、一国の王族となれば王位の継承権に影響がある事を考えれば、却って子が居なくて良かったと思っている。

 月明かりと最低限の照明だけの薄暗がりの自室で今までの人生を反芻しながら、特に濃い内容だったここ数年を思い返すと、笑いが込み上げてきた。



 屈辱的なホランドの恭順要求に断固たる態度を取る事が出来なかった二年前、どうにかしたいともがき苦しんでいた時に、唐突かつ異常な形で現れた謎の青年。アラタ=レオーネと名乗る黒髪の男には毎日のように驚かされた。妹の悲痛な祈りに始祖フィルモが天から遣わしてくれた勇者などとは欠片も思わなかったが、あまりにも異質な同年代の青年に強い興味を持ったのは事実だ。

 客分として城に住みつつドナウ語の勉強を始めたかと思えば、ものの数日で流暢にこの国の言葉を操る彼を恐怖すらしたものだが、別の世界の生き物として接するほうが精神衛生上良いと自身を納得させて、時間があれば彼と話しをしていた。

 彼からは多くの事を学び、驚き、楽しませてもらった。政治、経済、歴史、法律、技術、医療、そして軍事。あらゆる学問に精通し、勇者より賢者と名乗ったほうが良いのではと冗談を口にしたが、幾らかは本心だった。

 そうして一月もしてからホランドを倒す算段が付いたと本人の口から告げられて、幾らか疑う気持ちがあったものの、ナパームの殺傷性を目の当たりにし、ホランドの驕りを利用し、奴らを騙し切る事が出来れば勝つ目があると理詰めで説明されては信じない訳にはいかなかった。



 そうした中で一番不安だったのは、やはり彼がこの国から去ってしまう事だった。あの未知の知識の宝庫が他国に流れてしまうのはどうしても避けたかったが、客分と遇していたとはいえドナウに何のしがらみの無い者を留め続けるには何かを差し出し続ける必要があった。しかしながら非常に禁欲的であり、財宝や女といった誰もが欲しがりそうな物に碌に興味を抱かない者に、そんな物を贈った所で迷惑でしかないのだから、こちらとしては随分とやきもきしたものだ。冗談半分とは言え妹の身を差し出す事も考慮していたが、それぐらい困っていた。一応ベッカー老の孫娘と懇意にしていたようだが、王家と些か繋がりが弱く、二人で遠方に駆け落ちしないか、当時はこちらも気が気では無かったのだ。

 結論から言えばそうした疑念は杞憂でしか無く、一年の準備期間を終えてホランドへの正式な宣戦布告を以て併合要請を蹴ったわけだが、実際に勝てるかはアラタの言葉を借りれば五分であり、この時ばかりは毎日始祖に勝利の祈りを捧げていた。そして見事、ホランド軍を撃退し、凱旋した軍をこの目で見て、この国が救われたのだと自然と涙が溢れていた。



 これほどの功績を挙げたアラタに、どうすれば報いる事が出来るか考え、やはり領地を下賜し貴族として遇するのが一番ではないかと本人に打診したが、領地経営の負担が大きいと辞退され困った。尤も本人の口から諜報機関の設立と、その責任者に就く事を功績の報奨とする事で話が纏まり安堵したものだ。あれだけ働いた者に褒美を与えないのは恩賞必罰の精神の否定だ。

 さらにアンナとの結婚は喜ばしい事だったが、出来れば妹のマリアと結婚してほしかったのはむしが良すぎる願望だが、幾らこの国の貴族でも、王家と繋がりの無い者では安心出来なかった。父もそれを懸念しており、強引にマリアと結婚させようしたのだろう。王族に恋愛の自由など無いに等しいが、せめて息子の自分か信頼する宰相に相談の一つでもしてほしかったと愚痴の一つも言いたくなる。

 後日その報いを平手打ちで味わったのはいい気味だとマリアとアンナに喝采を送ったが、一日仕事を押し付けられたのはむかついた。妹もアラタの事は嫌っていないのでそれほど心配していない。事実、今も上手くやっており、子供も出来たのだ。父の判断は間違っていなかったと言える。

 ただし、伽の詳細が聞こえてくると身内の事なので、恥ずかしさや気まずさはかなりのものだったが。というか、夫そっちのけで女二人で情事に耽るなと叱りたかった。



 弟のカールもアラタにはよく懐いている。同じ趣味がある事から打ち解けるのも早く、忙しい中で時間を見つけては一緒に木彫りを作ってるのは微笑ましかった。その木彫り多くはこの国にいない彼の知る生き物で、レオーネの名の元である獅子という大型のネコ科の生き物もあった。狼の数倍の大きさのネコが居る事に驚き、さらにその数倍の大きさを誇るゾウという生き物もいると聞き、絵にも描いていた。鼻の長い珍妙な生き物だったが、草食なのに非常に気が荒く、人間など簡単に踏み殺すと聞いて、世界の広さを実感したものだ。

 その弟も最近は色気づいて女に興味を持ったようだが、直接抱く度胸が無いらしく、こちらに側女の裸を見せてほしいと頼んできた時は閉口したが、弟の頼みでは断れず渋々一人に頼んで見せてやった。その後、アラタの入れ知恵と分かって、面倒事を押し付けた事に文句を言うと、性的な経験が殆ど無いので経験者に任せたとしれっと口にしていた。

 話を聞くに、肉体関係を持ったのがアンナが最初なのだと知り、身持ちの硬さに絶句した。20を過ぎてそんな男は滅多に見ないが、今まで戦いにしか興味を持てなかったと口にしたアラタには、不憫さしか感じなかった。まあそんな変人もいずれは一人の父親になると思うと、感慨深いものがある。



 それから先も貧民を移住させて様々な物を作らせ、多くの人間の度肝を抜き、この国に利益をもたらす彼をやっかむ者こそ数多く居るが、軽く見る者は皆無だった。ただし、本人から言わせれば、無意識に平民と侮る先入観は完全に抜けていないので、脇が甘いとの評価が印象的だった。侮ってくれた方が不用意に弱点を晒してくれて弱みを握りやすいと、笑顔で語るアラタは正直怖いと思った。



 そして数ある出来事でも一番印象的だったのが、自身の妻となるオレーシャ王女の来訪だと思う。あまり友好関係のある国と言えないレゴス王国との関係強化を睨んだ婚姻であり、完全な政略結婚だが、王族が好きな相手と結婚出来る訳が無いのは最初から理解していた。その為どんな相手であっても義務と割り切る事も覚悟していたが、まさか妹以上のはねっ返りだとは予想すら出来なかった。どうやったら女身一つで外国に乗り込もうとするのだ。それも一国の王女がだ。

 幸いアラタが機転を利かせて客分として屋敷に泊め置いたので大事にはならなかったが、あの時ばかりは神を呪った。そんな考え無しの女が自身の伴侶、そしてこの国の妃になるなど、悪夢としか言えなかったが、実際に会ってみると、随分としおらしく振る舞い、そんな考えなしにはあまり見えなかった。

 話を聞くと、アラタにかなり強い口調で叱られたらしい。他国の王女を叱咤するとは冷や汗を流しかけたが、オレーシャの身を本気で案じ、旅先で病気や危険な目に遭ったらどうするのだと、命を第一に案じられたのだ。ぐうの根の出ない正論だと内心思い、それを後日アラタに聞くと『子供は本気で叱り付けないと理解しない』としれっと口にしていた。オレーシャはマリアと同年齢だが、行いを知れば当然の対応だったのかも知れない。それでも外交を考えると王女相手に無茶をするものだと彼を窘めたが。

 小柄だが容姿もなかなかに整っており、自分の好みの外見ではないものの、嫌悪感を催すような容貌ではない事から、はねっ返りな性格さえ大人しくなれば上手く付き合えるのではと、期待はしている。実際に話してみると、鼻持ちならない性格でもないし、数日前にマリアの懐妊が発覚した時に居合わせ、喜びから号泣したとアラタが教えてくれたので、善良な性格なのは良く分かった。後は自分の躾け次第かと、些か失礼な事も考えているが、国に不利益をもたらす者に容赦をする必要は無いのだ。



 そう明日妻になる女性の事を考えていると、不意に扉を叩く音が聞こえ、思考の海から引き釣り出される。こんな時間に何かあったのかと不審に思い返事をすると、使用人から来客だと伝えられた。

 非常識なと不快感を感じたが、開け放たれた扉から見えたのは義兄弟のアラタ=レオーネだった。



       □□□□□□□□□




「夜分、押し掛けて申し訳ありません殿下」


「まあ、そうだね。しかし珍しいね、君は礼節を損なわない人間だと知っていたけど、どういう心境の変化だい?」


 非常識な客人への不快感は見知った顔を見て霧散したが、代わりに義兄弟の普段らしくない振る舞いを不審に思う。そして、その手に酒瓶を携えているのだから、余計におかしく思う。この男は滅多に自分から酒を飲んだりしないのに、今は何故か酒を持参している。


「独身者が独身最後の夜をどう過ごしていたのか、何を考えていたのかが気になって、来てしまいました。後は、明日の儀式に緊張でもしているのではと思い、それを解すためと思ってください」


 前半部は冗談だと思いたいが、相変わらず妙な気の回し方をする男だと僅かばかり呆れたが、その気遣いは素直に受け取っておくことにした。

 止めずに通してしまった使用人が不安そうにこちらを見ているが、咎める気は無いと言うと、安心して外に控え直した。

 残された男二人はテーブルに向かいで座り、互いに一本の酒瓶をそのまま口に付けて飲み交わす。非常に行儀の悪い飲み方だったが、たまにはいい。


「さっき何を考えていたのかと聞いたけど、今までの事を思い出していた。ここ二年ほど随分と忙しかったからね。君の事が一番多かったかな?ホランドに勝てたのは君が居たからだし、妹の伴侶を軽くは見れない」


 もうすぐ甥か姪が出来るしね、そう言うとアラタは恥ずかしそうにはにかむ。二年程度の付き合いだが、こうした恥じらいの表情は初めて見る。最初の無表情さから随分と感情豊かになったものだと懐かしむ。その時は戦闘用感情抑制剤なる薬を打ち込まれていたと以前聞いた。何でも戦闘で過剰な興奮や恐慌状態を防ぐ目的で投与され、常に冷静な判断を要求される故の処置だという。必要なのは理解出来るが試したくはない。


「君には感謝してるよ。まだホランドは残っているけど、以前に比べれば随分弱体化した。それにユゴスとレゴスとの同盟を結べる道筋も見えてきた。ドナウが置かれている状況は格段に良くなったよ。それもこれも君が絶え間なく働いてくれたおかげさ。ありがとう」


 その感謝の意をアラタは、自分ひとりの力でどうにかなったなどとは思っていないと語る。過労で倒れるような人間が何人もこの国に居たから結果が出せたと謙遜していた。それは事実なのだろうが、アラタの知恵こそが全ての前提にある以上、素直に受け取って欲しいものだ。

 ただ、これから少し厄介な事になると真面目な口調で切り出され、どういうことかと問い詰めると、


「昼間、ホランドのバルトロメイ王子と会談をしました。内容は世間話でしたが、彼は警戒に値する人物だと結論付けました。もしあの王子がホランドで相応の地位に就けば、ドナウにとって困る事になります」


「私も彼と会談をしたが、君がそこまで警戒するようには見えなかったが」


 数日前にバルトロメイと茶飲み話をしたが、恨み言の一つも覚悟していたものの終始穏やかな笑顔に、拍子抜けしたものだ。それをアラタに語ると、だからこそ怖いと切り返された。

 曰く、三万の兵を焼き殺され、自身を冷や飯食いに追いやった国の王子や張本人を前に笑顔で居られるというのが普通ではない。そこまでされたら憎むか、恐れるか、の二択であり、完全に感情を隠し通せるなら相当手強いし、本心から嬉しがっているなら人の心を持たない怪物である。

 アラタの分析になるほどと頷く。確かに普通ならドナウに何かしらの悪感情を抱くものだ。だがそれが無い、あるいは読み取れないとなると一筋縄ではいかない相手と言える。

 幸い、彼は大きな失態を犯し、発言力と実権を失っている以上、実行力は無いので今すぐに困る訳では無いが、長く生きていてもらうのはドナウにとって不利益になるとアラタは語る。


「彼を暗殺でもするつもりかい?」


「理想はそれですね。彼がホランドに帰る前に首を刎ねて早々に退場してもらうのが後腐れ無くて良いのですが、そうなるとドナウの評判が最悪を通り越してユゴス、レゴスとの同盟どころではなくなります。幾つか対策を講じるつもりですが、確実性に欠けるのが難点です」


 場を和ませる冗談のつもりで暗殺と口にしたが、まさか本気で考えていたとは思わなかった。相変わらず面子や手段に拘らない性格だと、頼もしいと同時に怖くなる。

 参考までにどうするのかと聞いてみると、


「取り敢えずホランド王都に噂を流します。ドナウが真に恐れているのはバルトロメイ王子である。彼を殺す為にドナウは戦に踏み切った。バルトロメイが居なければホランドなど大した事は無い、と」


「――――ああ、そういうことか。確かにそんな話を聞いたら他のホランド人は怒るだろうね。特に彼と仲の悪いユリウス王子は怒髪天になるだろう。このままいけばユリウス王子がサピンを滅ぼす事になる。けど、一国を滅ぼした自分より戦に大敗した兄のほうが評価が高いとなれば、身近にいる兄に怒りの矛先が向くし、周りだって気が気じゃない。バルトロメイ王子が負けて、その配下もかなりの数がユリウス王子に鞍替えしたのだから、早まった真似をしたのかと疑心に駆られる。かと言ってすぐさまバルトロメイ王子の元に戻る訳にもいかない。きっと彼等は心穏やかに過ごせないだろうね」


 証拠など何一つない噂でしかないのに、そこに実際に祖国を負かしたドナウの名が入れば信ぴょう性が格段に増してしまう。そうなっては噂は噂を呼び、勝手に尾びれを付けて大きくなってしまう。それを笑い飛ばして無視出来る余裕は今のホランドには無かった。

 元からある対立構造を利用しているとはいえ、噂一つで国をぐらつかせるなど悪辣にも程がある。上手くいけばユリウスの配下が勝手にバルトロメイを排除しようと動き出し、ますます互いの不信感を育ててくれる。


「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策。二千年以上昔に馬謖という男が残した言葉です。私の策はこの言葉の応用です」


「まったく、君にはいつも驚かされる。何よりどうしたら二千年前の言葉が残っているんだか。ドナウには五百年前の始祖の事も断片的にしか残っていないというのに」


 本当に彼と話していると、驚き過ぎて身が持たない。笑いながらそう咎めると、だからこそ覚える量が多く、勉強が大変だったと苦笑交じりに零していた。



 その後は幾つか笑い話をしつつオレーシャの事を話していると、酒が切れたので帰ると言い出した。


「急に押しかけて勝手ですが、もう遅いので休んだ方がよろしいですよ。明日は人生で指折りの大舞台ですから」


 まったくの正論だが、本人の言う通り夜半に押し掛けた人間の言う事ではない。だが、人生最後の独身の夜としては悪くなかった。帰る前に一つ聞きたいこともあり、アラタを呼び止め、前から聞きたかった事を投げかける。


「アラタ、君は今幸せかい?」


「――勿論ですよ。大変な事も多いですが、温かい家庭は良いものです。もしかしたら、私はずっとそれを望んでいたのかも知れません」


 幼くして両親を失い戦いに生きた男が、望まぬ土地に流れ着き、苦難の末に温かい家庭を得る。詩人に唄わせたくなる人生だが、まだまだ彼の人生は始まったばかり。義兄弟として、これからもその人生を身近で眺めていたいと思った。



 自室で月を眺めながらエーリッヒは、これからも大変だが多くの者と共に頑張って生きていく。そう決意を新たにし、明日の婚儀に備える為にベッドに入った。これからはこのベッドにもう一人増えるのかと思うと、ひどくベッドが広く感じたのだった。


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