第155話 幸運
机の前、まだ真っ白な宿題を見て、僕は「うーん」と悩んでいた。
今日出た国語の宿題のテーマは、「好きなことわざ」。犬も歩けば棒に当たるとか、チリも積もれば山となるとか、知っていることわざはいくつかあるけれど、好きなことわざ、しかもその理由も書かないといけないってなると、すごく難しい。
「ねー、お姉さーん」
「なあにー」
僕は、ベッドの上で寝っ転がって漫画を読んでいる彼女に声をかける。昨日買ったばかりの新刊を真剣な顔で読みながらだけど、ちゃんと返事をしてくれた。
彼女は天使だ。比喩的な意味ではなく、本当に。背中に白い羽が生えていて、綺麗なプラチナ色の髪とサファイア色の瞳で、何より僕にしか見えない。……今は、お母さんが着なくなった、ジャージを着用しているけれど。
「お姉さんの好きなことわざって何?」
「禍福は糾える縄の如し」
「え? あ、アザ?」
彼女とは日本語で話しているけれど、こんなに難しい単語がスラスラ出てくるなんて、思ってもいなかったから、僕は訊き返してしまった。
彼女はそれを怒らずに、漫画から顔を上げて、僕に微笑む。そして、今度はゆっくりと「禍福は糾える縄の如し」と言った。
「禍福は、不幸と幸せ、糾うは、こう、編んでいる感じね。人の不幸も幸せも、とっても変わりやすいものなんだよって意味」
「ふーん」
彼女が、漫画を脇において、自分の指を組み合わせるように教えてくれたので、初めて聞くことわざの意味を知った。だけど、彼女がそのことわざが好きな理由までは分からない。
「なんで好きなの?」
「ほら、一見アンラッキーな出来事が、実はラッキーでした! ってなったら、すごく嬉しいじゃない」
「そうなのかな?」
まだ小学生の僕には、ピンとこない例えだ。最初から、ラッキーな出来事の方がいいのだから。
そんな僕の様子を見て、彼女は、「例えばね、」と、ベッドに座り直してから話し始めた。
「これから、赤ちゃんが生まれる予定のお父さんが、赤ちゃん用の靴下をお店で探しています。緑か黄色かで、すごく悩んでいたら、病院から電話がかかってきて、『奥さんが破水しました! もうすぐ生まれます!』って言われちゃうの」
「わあ、大変だ」
「お父さんは慌てて、持っていた緑の靴下ごと歩き出そうとして、なんとなく、黄色の靴下の方を持ち替えちゃうのよ。そのまま、一回レジでその靴下を買っちゃった」
「えー? なんで? タイムロスじゃん」
「普通はそう思うよね? 多分お父さんも無意識だったんじゃないかな」
くすくす笑ってしまっている彼女の話に、僕は夢中になって、先を促した。
「それで? お父さんは間に合ったの?」
「それがねえ、レジに並んでいた分、遅くなっちゃって、外に出ても、すぐ目の前で止まっていたタクシーに、他の人が乗っちゃった」
「全然駄目じゃん」
「五分くらいして、別のタクシーが来たから乗り込んでね、そのベテランの運転手さんに事情を話して、早く病院に行きたいって言ったら、その運転手さんは道にすごく詳しくて、近道を通ったから、普通に行くよりも十分早く到着したの」
「あ、じゃあ、間に合ったんだ」
「そう。お母さんの出産にも立ち会えて、ハッピーエンド」
彼女は大きく両手を広げて、「どう?」と小首をかしげる。
「もしも、最初のタクシーに乗っていたら、お父さんは間に合わなかったかもしれない。だから、黄色い靴下を選んだのは、結果的にラッキーだったのかも」
「なんか……すごい話だったね」
当時、運命という言葉をよく知らなかった僕は、そうぼやかして、溜息をつくことしか出来なかった。
学校の宿題も、彼女が最初に言った通りに、「僕は、禍福は糾える縄の如しが好きです。アンラッキーに思えた出来事が、ラッキーだったらとても嬉しいからです」と書いたはずだった。
△
それから、二十年以上が経った。僕は結婚し、妻は出産を控えている。
実家の母から、僕が赤ちゃんの頃に使っていたものがまだいくつか残っているので、もらわないかと誘われた。ありがたい話なので、母と一緒に、押し入れを整理しながら、もらうものを分けていた。
その中に、黄色い赤ちゃん用の靴下があった。黄色い靴下、というワードに、何か引っかかるものがあるが、思い出せない。
もやもやしている僕の隣で、同じ黄色い靴下を見た母が、「ああ、それね」と懐かしそうに目を細めた。
「お父さんが買ってきたのよ。あなたが生まれたその日に」
「え?」
まさかと思っていると、母は、この黄色い靴下に関するエピソードを話してくれた。それは、完全に小学生の僕に、彼女が話してくれたものと一致している。
「……それでね、なんか縁起がいいから、手放せずにとっていたのよ」
「幸運の靴下だね」
母の言葉に、僕も実感を込めて頷く。自分の子供が、この靴下を履いている姿を、強くイメージできた。
天使の彼女は、僕が物心ついたころから、ずっとそばにいた。それは、本来いつからだったのだろう? その疑問を、今は妻の定期検診についてきている彼女に、あとで聞いてみようと思った。
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