第94話 珈琲は月の下で
「ごめんねー、わざわざ来てもらって」
「いいよ、いいよ。気にしないで」
友達とのショッピングで買い過ぎた私を、彼が車で迎えに来てくれた。駅からうちまではそこそこ距離もあり、タクシーを使うのも渋っていたから、本当に有り難い。
彼は仕事終わりで帰るタイミングだったが、私のSOSにすぐ駆けつけてくれた。車から降りた時も、真っ先に私の荷物を持ってくれる、非常に紳士的な人だ。
手袋をした彼の手が、車の後部座席を開けて、私の買ったものをどんどん載せる。
八つの袋を全部入れて、一息ついた彼は、私の方を向いて苦笑した。
「随分買ったねぇ」
「だから言ったでしょ、覚悟した方がいいよって」
包帯を巻いた頭で、彼は何度も頷いた。夜なので付けているのは眼鏡だが、その奥の目も皮膚も透明だ。
私の彼は、透明人間だ。
とあるカフェの店員である彼と常連客だった私は恋に落ち、色々あって、同棲生活を数年間続けている。
助手席に私が座った後、乗り込んだ彼の運転で家に帰る。ちなみに、私は免許を持っていない。ちょっと前まで、車が無い不便さに参っていたけれど、こうしてハンドルを握る彼の横顔を見ていると、別になくてもいいかなと思えてきた。
「何買ったの?」
「洋服とか、コスメとか。あ、あと、お風呂場の時計、割れちゃったでしょ、あれも買っといたよ」
「ほんと? 地味に困っていたから、助かる」
「手土産に、ロールケーキ買ったよ。ほらあっち、純白堂の」
「おー、やったー」
音もなく、滑るように車は夜の町を進んでいく。駅前の賑やかさから外れて、ちょっとずつ、家が立ち並ぶ通りへと、私たちは向かう。
車内では、のんびりとした会話が交わされていた。彼が接客した、巨大サボテンを持ったまま来店した人のことや、私がお昼休みにオムライスとパスタのどちらを食べるか脳内デイベートで決めた話など。
ただ、あと数キロで家に着くという頃に、彼がそわそわし始めた。急に、何かを探すようにきょろきょろしている。
あ、これはあれだと私が察した時点で、彼が「ねえ、みーさん」と迷子のような声を出した。
「この辺、コーヒー飲める場所ない?」
彼は、カフェで働き、カフェを開きたいという夢を抱いていることを差し引いても、コーヒーが大好きだった。いつもいつも、研究と称しては、色んな所のコーヒーを飲む。
そんな彼のコーヒー発作は、昼夜も場所も問わず起きる。ロールケーキを食べながらコーヒーを淹れてもらおうと思っていたけれど、こうなったら仕方ないので、彼に付き合うことに決めた。
「この先、コンビニがあったよ」
「コンビニ……はだめだよみーさん」
彼が珍しく、鼻で笑った。
「あれはコーヒーとは言えないね」
「え? コーヒーでしょ?」
「いやいや、あれは、カタカナでコーヒー。カフェや専門店で、豆の産地からこだわって淹れるのが、漢字の珈琲」
「うーん、あんまり違いが分かんないけれど。ただのニュアンスでしょ」
「まあ、みーさんには分からないかもね」
彼の棘のある物言いに、私の眉がぴくっと反応した。
「え? 私のこと、バカ舌って言ってる?」
「言ってないよ」
「言ってたでしょ。そういう顔してるもん」
「なんで分かるんだよ。表情とか見えないだろ」
包帯の奥の口が、不機嫌な形に結ばれている。ハンドルを握る指にも、必要以上の力が加わっているようだ。
どうして表情が分かるかと言われても、双子の見分け方のように、ふんわりとした印象で察するので、上手く説明できない。それを彼に言ってみても、納得しないだろう。
「あ、」
二人の沈黙の中で、車は家に曲がる道を素通りした。
座席から身を乗り出して、その道を見送ってから、「ちょっと」と彼の方を向く。
「帰らないの?」
「うん。どっかで珈琲飲むまで帰らない」
彼のガチガチの決意に固まった声を聞いて、私はこれ見よがしに溜息をついた。
「別にいいけどね、運転してんのはあんただし」
「あのね、そう非難するけどね、みーさんだって前に、寄り道があるって言って付き合わせたじゃない」
「私はその前にちゃーんと、今後の予定はないか確認したよね?」
「確認したよ? でも、本当は疲れていたけれど、みーさんに合わせたんだよ」
「そういうのはその時言ってよ。終わったことをグチグチと……」
「みーさんが最初に怒ったじゃないか」
お互いに足を引っ張り合いながら、私は頭の隅で「あ、まずい」と思い始めていた。昔のことまで言い出されたら、いよいよこっちも引っ込みがつかなくなってしまう。
もはや、きっかけが何だったのかすらわからなくなってきたところで、私は黙り込んだ。窓の外を見ると、知らない家たちが暗闇の中でひっそりと佇んでいる。こんな中に、カフェなんてあるのだろうか。
「……あれ、カフェじゃない?」
彼がそんな間抜けすぎる声を発したのは、沈黙停戦が始まって、十分ほど経った頃だった。
その顔を向けている右側を見ると、こじんまりとした三角屋根の家があった。塀から木々がはみ出ている庭の出入り口に看板があり、「ライト・オブ・ランタン」という文字が電球に照らされている。
スピードを落とした車で近付くと、家の横に一台分が停められそうなスペースがあった。彼はバックで、そこに駐車した。
私たちは無言で車を降りる。内心、「美容院とかだったらどうしよう」と思っていた。彼が、「カフェだ!」といって勇んで飛び込んだ先が、全然違うお店だったことは何回かある。
ランタンが眩しい玄関、その赤いドアを彼が押すまで、私は心の中で「カフェでありますように!」と祈っていた。これでカフェじゃなかったら、また車内で喧嘩になってしまう。
カランカランと涼しい金属の音が響き、コーヒーの香りがふわりと漂ってきた。
「いらっしゃいませ」
店内は入ってすぐに、レジカウンターがあり、そこに立つ初老のご主人が温かい笑顔で迎えてくれた。
そのレジとお客さん用のカウンターは繋がっていて、内側はサイフォンやワイングラス、コーヒーカップが整然と並び、外側には背の高い椅子が等間隔で並んでいる。テーブル席やソファー席が木目の新しい床の上に置かれているが、誰も座っていなかった。
「ここ、いつオープンしたんですか?」
「半月前です」
「へえ。全然気付かなかったです」
「宣伝が苦手で……」
怒りを、車内に置いてきてしまったかのように、彼は穏やかに話していた。「いえ、むしろ隠れ家っぽくて戦略的ですよ」なんて言う余裕すら出ている。
私はそれを見てほっとしていた。透明人間を見て、露骨に驚いていないご主人の対応も有り難い。もうこれ以上、変な言い争いとかしたくなかった。
カウンター席に並んで座り、メニューを見る。コーヒー中心の、彼に言わせれば「硬派」なメニューだ。
私はカフェ・ラテのホットを、彼は悩みに悩んで、御主人のお勧めのキリマンジャロのホットを選んだ。
御主人の、ゆっくりと丁寧な仕事を、彼はカウンターから熱心に見つめている。どんなお店でも勉強になるからと、彼は私と一緒にいるときでも、カウンター席に座った。
ただ、今日の彼は、少々居心地が悪そうだった。口の前で組んだ指が、僅かに動いている。まだ、私と何の話をすればいいのか分からないのかもしれないと、エスプレッソマシンの振動が店内のジャズと重なっているのを聞きながら思った。
「お待たせしました」と、ご主人がそれぞれのコーヒーを私たちの目の前に置いた。
私たちは会釈をして、カップの乗ったソーサーを手繰り寄せると、ご主人がニコニコしながら口を開いた。
「今夜はぜひ、テラス席に行ってみればいかがですか?」
「「え?」」
私たちは同じタイミングで声を上げて、ご主人を凝視した。
「美しい月が見れますよ」
私は困惑を隠せずに、彼の方を見た。彼の方も、驚いた顔でこちらを覗き込んでいる。
「どうする?」
「まあ、折角だから……」
「うん、分かった」
私の後ろ向き気味の決断を引き継いで、彼がご主人に向き合い、「はい、お願いします」と言った。
「どうぞ、こちらです」
本当に嬉しそうに、カウンターから出てきたご主人の後を、まだ一口も飲めていない珈琲を持って、私たちはひょこひょこついていく。
見えなかったけれど、カウンターを左に曲がると、一つのドアがあった。ご主人が空けたその先は、このお店の裏庭になっていた。
裏庭は、八畳くらいだったが、キノコみたいな形の小さな木が生えているためか、それほど狭くは感じなかった。お店の壁と接するように、緑に塗られた木製のテーブルと椅子が二脚置かれていた。
ご主人は、わざわざ庭側を見るように椅子を直してくれた。そして、塀の向こう側、ビルの間から、満月が顔を出していた。
「では、ごゆっくり」
私たちが椅子に座ったのを見届けて、ご主人は一礼をした後に店内へ戻っていった。
ここまでくると、気まずくしている意味もなくて、私と彼はお互いのコーヒーを手に取った。
「月、綺麗だね」
「ほんと、車の中からだと見えなかったよ」
私の言葉に、彼も優しく頷いた。
二人の目線の先には、暗闇の中でぽっかりと浮かぶ月があった。翳りが一切ない満月からは、黄色い光が静かに街を満たしているだった。
彼が、口元の包帯をずらして、空いた場所にコーヒーカップを運ぶ。黒い液体が透明な口を流れていくのを見て、私も自分のカフェ・モカを一口啜った。
エスプレッソの深い苦みを、ホイップが中和させてくれている。舌を滑り、鼻から抜けていく深い香りに、ほっと息をついた。
「うん。おいしい」
彼の満足した一言に、ちょっと意地悪な気持ちが芽生えてきた。
「ここのは、漢字の珈琲?」
「うん。漢字の珈琲だね。間違いなく」
彼が怒らずに即答した後、私たちは一緒になって笑った。朗らかな声が、満月に吸い込まれていく。
「……今度、また、ここに飲みに行こうよ」
「もちろん」
喧嘩した後、私たちは謝る代わりに次の約束をする。目を合わせて、お互いにはにかみながら。
心の中のトゲトゲとした気持ちはすっかり抜けていた。月の下で珈琲、隣には恋人、これ以上の組み合わせはないかもしれないと、一人でこっそり笑った。
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