第6話

 家に帰り着き、マーガレットにりんごを手渡すと、フィリップはエドワードの書斎へ出向いていった。

イライザは、蛇口を絞った水道へジョジョをいざなう。

ジョジョは、双葉のような手を開けたり閉じたりしながら、ちゃぱちゃぱと洗っている。洗い終えるとタオルに乗せ、手早く自分も洗うとキッチンへ戻った。

マーガレットは、たくさんのきのこが入った籠から一つ一つ取り出しては、良く乾いた布巾で丁寧に汚れを落としていた。

いつもの席に座って落ち着くと、イライザはまたぼんやりと考え始める。

きのこの匂いに釣られたのか、はたまた大好きな保護者がいるせいか、よちよちとマーガレットの方へ歩いて行ったジョジョは、じっと手元を見つめたり、大きな椎茸の上によじ登ろうとしている。マーガレットはそれを見咎めることもなく、微笑んで作業を続けていた。

ころころとブラウンマッシュルームが転がってきた。

母さんなら教えてくれるだろうか。

クワトロのこと、風渡りのこと。父さんの厳しい眼差しのこと。今、書斎で何を話しているのか・・・。

「今日はきのこのシチューよ。」

彼女の迷いを見越したように、マーガレットは微笑んだ。

「あなた達が出かけた後、森へきのこ狩りに行って帰りにミルクも搾ってきたのよ。細かく刻んでバターで炒めたら、たっぷりのミルクで煮込んでいきましょうね。」

またはぐらかされてる・・・。

こういうときの両親の鋭さには、いつまでたっても敵わない。

「パンの発酵もそろそろ終わるわ。様子をみてちょうだい。」

視線の先にある暖炉のそばでは、キャンバス地をかぶせられたパン生地が、しっとりと発酵の完了を待っていた。

イライザは、この暖炉の主である火の精に挨拶をする。

「こんにちは。ピット婦人。」

パチッ

火が爆ぜて、炎がゆったりと答えた。

「こんにちは。イライザ。ぼちぼち外も寒かったろう。火を強めてあげようか?」

イライザはそっと手をかざすと、

「ううん。だいじょうぶ。十分暖かいわ。」

と首を振って、パン生地にかぶせたキャンバスに手をかけた。めくってみると、こんもり膨らんでいる。

人差し指に粉をつけ、そっと中央に差し込むと、温かい生地は差し込んだ指を包み込みながらゆっくりとへこんだものの、ふさがりはせず、おへそのような格好になる。発酵完了だ。

「いいみたい。でもちょっと多くない?お客様でもあるの?」

それでなくても、母は毎日のようにパンを焼くのだ。

「明日はとってもいいお天気になるわ。」

窓の向こう、わずかな茜空を見やってマーガレットは笑った。

ピット夫人が、ゆらゆらと揺れている。

まただ。

さっぱり意図が解らなかったイライザが、今度こそと口を開きかけたとき、書斎から戻ったフィリップが顔を覗かせた。

「イライザ。明日お弁当を持って父さんと森へいこう。ジョジョも連れておいで。」

振り返ると、何もなかったようにマーガレットが頷く。

「庭へ行ってパセリを摘んできてちょうだい。それからスモーク小屋へ行ってベーコンと。」

結局何も聞けず、狐につままれたような面持ちのまま、イライザは庭へ向かったのだった。

「いつの間にかイライザは随分と大きくなったわね。ねぇ、マーガレット。私にはあの子が産まれたのが、昨日のことのように思えるよ。」

呟いたピット夫人に、マーガレットは目を細めた。

「そう言えばあの時、ピット婦人は珍しく焦って、産湯の温度を上げすぎたんだったわね。」

「だって、フィリップとお前の間に子供が出来るだなんて。まるで自分の孫が出来たというぐらい嬉しかったのさ。」

ピット夫人はパチンと爆ぜると恥ずかしそうに笑った。


 夕食はいつもより静かだった。

焼きたてのバゲットがパチパチ音をたてる。

温かいシチューの香りが、そっと食卓を包み込んでいた。

ピット夫人は、くべられた薪を抱くようにして、うとうととまどろんでいる。

母の焼いたバゲットは噛み締めるほどに甘く香ばしく、轢きたての胡椒と刻んだパセリを散らしたきのこのシチューからは、豊かな秋の香りがした。

ナナは足元に置いたシチューの皿ににバゲットを浸してもらい、美味しそうに食べている。

ジョジョがナナの前足に乗ってきた。

ナナが足を揃えて高さを調整し、ボウルのそばにジョジョを誘う。すっかり仲良くなったらしい。

食事を終えるとイライザはジョジョを肩に乗せ、外へ出た。

僅かに明るかった空も今は暮れ、辺りは暗闇に包まれている。

遠く山の稜線だけが、沈んだ太陽の名残を受けて淡く光っていた。

「フォレストには何があるのかしら。クワトロってなんだろうね。」

ごうぅぅっ。

つむじ風が吹いて、イライザの髪をかき乱した。

ジョジョが飛ばされまいと、必死に踏ん張っている。

まるで私の呟きをかき消したようだ。

イライザは急に怖くなって、ぶるっと身震いすると、急いで家の中へ戻った。


 翌朝。イライザが目を覚ますと、激しかった昨夜の風が嘘のように、空は穏やかに晴れていた。

母が用意してくれた小さな籠ベッドを覗き込むと、ジョジョが丸くなって眠っている。

一足先に顔を洗ってリビングに行くと、用意を整えた父が、お茶を飲みながら待っていた。

遅い遅いと急かすのですぐ部屋に戻り、おくるみごとジョジョを包んでポケットに入れる。

このおくるみは絶対にあったほうがよいだろうし、良く眠っているので起こさないであげよう。

髪に櫛を通す時間もそこそこに戻ると、気の早い父はもう外へ出ていた。

せっかちなんだから。朝ごはんも食べられないじゃないの。

抗議してやろうかと思ったものの、あの様子では無駄な足掻きだと観念し、すきっ腹のまま出かけていくことにする。

「じゃぁ、母さん行ってきます。」

「待ってイライザ。ここにジョジョを入れてあげなさい。きっと落ち着くだろうから。」

渡されたのは、毎年着ているフードが付いたコートだ。

「ボアをつけてみたの。きっと暖かくて気持ちいいわ。」

フードの中に白いボアが付けられていた。なでてみるとふかふかと暖かい。

「素敵!いいなぁジョジョは。うらやましい。」

早速ジョジョを移して着込んでみる。

少し見える白いボアが可愛い。

「もう少し寒くなったら、身頃の内側にも付けてあげるわよ。」

「ほんと?!やった!約束よ、忘れないで!」

「えぇ、忘れないわ。約束ね。いってらっしゃい。」

マーガレットは頷くと、ぽんっとイライザの背中を押して送り出した。

「さぁ出発だ。」

フィリップはもう歩き始めている。

「あ、待って!」

慌てて追いかけながら振り返ると母が手を振っていて、小屋からはカンナの声が、メェェ。と聞こえた。

 よく晴れた気持ちのよい朝。フィリップがご機嫌で背負うリュックにはマグカップが吊られていて、まるでハイキングだ。

一方のイライザは手ぶらなので、荷物の全てを持たせたお嬢様状態である。

フィリップが鼻歌交じりにずんずん歩いていくなだらかな小路は、やがて小さな森へと続いていた。

 

 くもの巣のように張り巡らされた水脈の一つでは、この森の主である淡く透き通った空色のドラゴンが、いつもより少し厳しい眼差しを辺りに飛ばしながら、水中深く何本もそびえ立つ地下回廊のような柱をすり抜けて、悠然と泳いでいた。

きらきらと光が差し込む透明度の高い水中には、彼を慕う無数の魚たちが、ゆらゆら揺れる水草の間を出たり入ったりしては挨拶している。

いつもの見慣れた光景だ。

しかしここ数日、不穏な空気を感じ取った彼は、徐々に警戒を強めていた。

どうやら気のせいではなさそうだ。

森の中に、いくつかよそ者の気配を感じる。

自分が支配するこの場所は、魔の森フォレストと恐れられ、近年では踏み込んで来る者はめったに姿を見せなくなっている。

近くの王国に住む魔法使いや王族たちが、長い時間を掛け、この森との距離を作ったせいだろう。

世間では、ドラゴンは遥か天空に住むと思われているが、実は空ばかりではない。

他のドラゴンと同じく、自分も地上に自ら創った楽園を住処として、人目を避けるように暮らしていた。

生まれ持った強大な力は、この森を護るために取ってある。

たまには退屈しのぎに迷い込んだ旅人をからかってやることもあるが、人前には姿を現さないことにしていたし、その方が自分にもこの森にとっても良いことを、長い年月の中から彼は学び取っていた。だから害の無い者たちであれば、見てみぬふりをしてきたのだ。

数日前。何者かに追われこの森へと逃げ込んで来た者がいる。

入ってきた瞬間に、ぴくりと耳を動かして気配を察知していたが、森を壊す様子もなく、大人しくしているようなので、周辺の木々や人魚たちに、何かあれば知らせるようにだけ指示しておいたのだった。

追っ手の方はここへ足を踏み入れることを躊躇したらしい。

その点については、彼らのほうが懸命だと言えよう。

何故なら、フォレストへ入った以上、生かすも殺すも、神である自分次第なのだから。

ただ、立ち入りこそしなかったものの引き返すことも無く、外の茂みに隠れている。森から出た瞬間を狙っているのだろう。なんとしても獲物を逃す気はないらしい。

こちらとしてはそれを知らせてやるほどの義理も無いので、放っておいた。

もし森の中で何かあれば、双方片付けてしまえばよいだけの話なのだ。 

最奥部に繋がる泉から上がると、ぶるるっと身体を震わせて水滴を飛ばし、柔らかい下草へ腰をおろしたブルードラゴン、ゲルクルはそっと目を閉じた。


 この辺りに点在する森は、光がよく差し込んで緑が多い。

自然豊かな王国には、幾つもこのような森があるけれど、人々は皆、きのこを採ったり、出かける際に横切らねばならぬなど、必要なとき以外はむやみに森へ入らない。

そして、フォレストと呼ばれる森へは、決して入ってはならないとされている。

理由はただ一つ。フォレストは神の森だから。

小さな洞窟が見えてきた。入口を隠すように蔦が伸びている。

「ちょっと休憩しよう。そこに座りなさい。」

がさごそと蔦をよけ現れた平らな石畳に、フィリップは荷物を降ろした。

ひんやりとした洞窟は、明らかに誰かの手で削りだされた空間で、入ってみるとちょうどよい広さがある。

ジョジョを外へ出してやろうと、イライザは適当に手を入れてフードの中を探ろうとしたが、うまく届かず、といって脱ぐのも面倒なので父に頼もうとしたら、ちょいっと指先に触れる気配がした。

あっ、と思ってそっと引いてみると、指に摑まってジョジョが出てきた。

・・・釣りみたい。

と思ったことは、言わないことにする。

ジョジョは冷たくて硬い石畳が気に入らなかったらしく、ぺたぺたと足を上げ下げして落ち着かない様子なので、おくるみを出して敷いてやると、すぐに上がってきてじっとした。

やっぱり持ってきてよかったわ、このおくるみ。

フィリップの隣に腰を下ろし、イライザは辺りを見渡した。

少し奥まった辺りに、巨大な壁画がある。

石かナイフで岩盤を少しずつ削って描かれたらしい。

迷路のように根を張った大きな木が、滑らかな壁面いっぱいに描かれている。

「父さん、あれはなあに?」

根の先に描かれているのは虫だ。

どうやら、かぶとむしの家計図らしい。

頂点はクリーム色の体を持った巨大なかぶとむしだ。

白いかぶとむしなんて見たことがない。

しかし、それよりイライザを引き付けたのは、枝分かれした一番左の一匹だった。

ひときわ大きな体と立派な角。そして、そのかぶとむしが茶色の甲殻から広げた半透明の羽は、身体に見合わぬ巨大さにも関わらず、何故か右の片方しかない。

「片翼の騎士。ノーラン・オリビアだ。」

「ノーラン?父さん、このかぶとむしを知ってるの?」

「・・・じいさんの親友。クワトロさ。」

キィキィと、するどい鳥の鳴き声がした。

フィリップは古い友人に会ったように、懐かしそうに壁画を眺めながら、ぽつぽつと語り始めたのだった。


「この壁画は、オリビアの初代国王、コモ・オリビアを頂点に描かれた家系図だ。王家に敬意を表した誰かが描いたのだろう。左側のスペースを大きく取ってあるのは、今後も描き継いでいけるようにだ。オリビアのかぶとむしはとっても長生きで、その体は遥かな時を経るごとに、磨きこまれたような象牙色へと変わってゆく。右の下辺りにいるのが、今の国王リロ・オリビアと王妃コモ・オリビア。王女ララ・オリビア。そして一番左がオリビア最強の4戦士、クワトロの称号を持つ、王子ノーラン・オリビア。

この壁画は随分前のもので、系図で言うと今はもっと先まであるんだが、作者が亡くなってしまったのか、途中までしか描かれていないようだね。」

「クワトロって昨日マダムが言ってた?今日はこのかぶとむしに会いに行くの!?」

「じいさんとノーランはね。小さい頃からの大親友なんだ。」

フィリップは質問に答えず話を進める。

「二人とも本が大好きで、じいさんは子供の頃から毎日のようにノーランの元を訪れては、背中に乗って魔法図書館へ行き、借りてきた本を図書館のてっぺんに腰掛けて一緒に読んでたそうだ。フフフ、王子さまなのにね。二人は大親友だったのさ。オリビアには海がないだろう?だから海を渡る冒険のお話なんかが、二人のお気に入りだったらしい。」

イライザはピンと来た。

「判った!7つの海のイシタね!」

7つの海のイシタは、イライザが大好きなお話だ。

洞窟の壁に反響して、思ったより大声になってしまった。

「とっても楽しい本なのよ。」

と慌ててジョジョに囁いた。

「ドキドキなんだぞ。」

フィリップも笑う。

そんな二人を、ジョジョは不思議そうに見つめていた。


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