ブルードラゴンと片翼の騎士
野々宮くり
第1話
エドワードは手を後ろに組んで、一本の木を見上げていた。
薄緑の丸い葉が、さわさわと風に揺れている。
乳白色のなめらかな幹は、少しでも遠くに、少しでもたくさんの手を差し伸べたいと思っているかのように、くねくね曲がる枝を四方へ伸ばしていた。
冷たさの混じり始めた風が頬を撫で、エドワードの豊かなひげを揺らしながら去ってゆく。
真っ白でもじゃもじゃしたそれを、自慢のひげだと周りは思っているようだがそうではない。
ある時、どうでもよくなってしまったのだ。
何もかも、どうでもよくなって、手入れも止めてしまった。
そして長い月日が経った頃、もみじのような手を伸ばした孫娘が、
「じいじ、もじゃもじゃ。ふわふわ。」
そういって喜んだ。まるで絵本に出てくるサンタだと。
だからずっとこのままだ。
ずっとこのままで、彼は今日もこの木を見上げている。
西の草原には、風にたたずむ若者がいた。
彼の名はフラン。ずっと一人で旅をしている。
ずいぶん歩いてきたのだろう。はためくマントとブーツの布ベルトが土色に染まっている。
それでも少しも薄汚れて見えないのは、しゃんと伸びた姿勢と、凛とした面差しに宿るへーゼルの瞳のせいだろうか。
短い下草を揺らす風が、じゃれるようにセージグリーンの髪をかき上げると、右とは違う澄んだブルーの瞳が露わになった。普段ならぴしゃりとはね付けるところだが、その風から感じるわずかな気配に注意を払っていたから、少し顔をしかめながらも、フランはそのままにしていた。
・・・やはり。
ここから更に西。
少しずつ、少しずつ、こちらへ向かってくる気配がある。
怪我でもしているのか、その進みは決して速くはない。
まるで何かを守りながら進んでいるような・・・いや、内包しているのか?
そして。
更に後方から続く気配がある。汗と野望に満ちた陰湿な空気が、無数の筋となって、ゆらゆら蠢いている。
血走った目を光らせ、しつこく追う姿が見えるようだ。
明らかに良い者たちではない。
このまま進めばブルーフォレストか・・・。
目を閉じ、フランは再び意識を向けた。
逃げるように進むそれは、やはり一人ではないようだ。
誰かを呼んでいるような途切れ途切れの小さな気配が、先ほどからフランの心をざわつかせている。
ふと。
フランの脳裏に、優しくて哀しい瞳をした白ひげの老人と、金の巻き毛が愛らしい少女の姿が浮かんだ。
「・・・まさか。帰ってきたのか?」
ならば、かの国積年の悲願が叶うこととなる。
あれからずいぶん経った。少女も大きく成長したことだろう。
じっと考え込むと、フランは意を決したように向き直った。
意識を集中させていくと、両の瞳が一瞬濃くなり、わずかに風向きが変わる。
これでいい。上手く導いてくれよ。
風が渡ってゆく方向へ軽く頭を下げると、しっかりとフードをかぶりなおし、フランはまた歩き始めた。
オリビア王国では、亡くなった民の魂は全てこの木に帰る。魂を受け入れた宿木は、やがて握りこぶしほどの実を付け、新たな魂を感知すると鳴動し、彷徨える仲間を呼ぶという。
王国の奥深く。
清ひつな空気が満ちる鎮魂の森で、いつもは薄ぼんやりした光を放つ魂の果実が、今朝からやや強く点滅を繰り返していた。
「来たか・・・。」
帰ってきておくれ、ノーラン・・・。
エドワードは、何かを振り切るような鋭い眼差しで宿木を見据え、相棒の名を呼んだ。
「さぁレクター。仕事だ。」
もぞもぞと足元の土が蠢動を始めた。
ざわり。ざわり。
西の草原には、葉を揺らしながら歩き続ける老木がいた。
節くれだった幹や枝に残る、折れたり引きちぎったような無数の傷跡が痛々しい。
ひんやりとした風が、少し落ち着けとなだめるように、汗ばんだ身体をなでてゆく。それでも。彼はまろぶように、前へ前へと進んでいた。
もうどれくらい歩いただろうか。
何も考えずに、ただひたすら歩いてきたけれど。
果たしてこの方向で合っているのだろうか。
それすらももう判らなくなってきた。
何を思ったのか、若くもないのに住み慣れた場所を離れてまで、見知らぬ土地へと旅をしてきてしまっている。
今思えば、我ながら思い切ったことをしたものだ。
ただ生れ落ちた場所でじっと立っているだけだった自分に、ある時寄りかかってくれた者がいた。
訪れる者の大半が、自分勝手にやってきては去っていく。
声を掛けてみたら、驚いて逃げていくこともあった。
それ以来、余りこちらから話しかけないことにしていた。
腕や肩に触れた相手から意識や感情が伝わってきたから、黙ってそれを聞いていた。
本当はここから見えない場所の話も、聞いたりしたかったのだけれど。
ある時、何かが触れた気配に目を覚ますと、足元にうずくまる影があった。
それは新しい来訪者だった。
久しぶりのことで嬉しかったし、こんなに大きな体躯を持った生き物に出会ったことが無かったから、思わず声を掛けそうになるのをぐっとこらえ、もたれられるままそっと観察した。声を掛けると、また逃げてしまうかもしれない。
とても疲れているようだったので、重みを感じながらじっと立っていた。
夜ごとうなされているので、月を見ながら黙って聞いていた。
そのうち喋る気力も無くなってしまったのか、来訪者は次第に静かになった。
冷えこむ夜には葉をたくさん落としたり、そっと包むようにしてみたけれど、何も言わないので、暖かかったのか迷惑だったのか判らない。
何も食べようとせず、何も飲もうとしないので、木の実を落としたり夜露を運んだりしてみたけれど、余り効果はないようだった。
やがて、来訪者は全く動かなくなってしまった。
悲しかったけれど、どうすることも出来なかった。
すると、動かなくなってしまったのに声が聞こえてきた。
いつものように、高く澄んだ声で誰かを呼んでいる。
本当は生きているのかも知れない。
再び夜にはたくさん葉を落とし、寒くないよう包んでやった。
そんなことを続けていたある日、見たこともない者たちが森をうろつくようになった。
薄暗い空気を持った嫌な連中だった。
侵入者たちは大勢でがさごそと森を歩き回り、木々を傷つけ草を踏みつけ、持っていた銃で動物を殺したりした。
どうやら彼を探しているようだ。
どうしたものかと思っていたら、自分の中が洞であることを思い出した。
老いたこの身の内には、長い年月で出来た大きな空洞がある。
どうにかして中にかくまい、そのままじっと立っていた。
あの邪悪な者たちが、彼に気づかずに去ってくれたらそれでよいと思ったのだ。
やがて侵入者たちが自分の元に辿り着いたとき、ようやく考えが甘かったことに気づいた。
やつらにも彼の声が聞こえていたらしい。
自分の中が洞だったから、声が漏れていたのだ。
自分がもう老いて朽ちていたから、声が漏れてしまった。
声を頼りにここまできた侵入者たちは、持っていた銃やナイフでこの身体を傷つけ始めた。
さほど痛みは感じなかったが、ぼろぼろと身体が崩れていくのを感じた。
やめろ!やめろ!!
気づいたら、ぶんぶんと腕を振り回して、そばにいたやつらを薙ぎ払っていた。
驚いた侵入者たちは、近くの木に当たって気絶したり向こうの方まで飛んでいったりしたけれど、決して追い払えたわけではなく、一旦後退させただけだった。
夜を待って、月明かりを頼りに森を出た。
諦めてくれたわけではないらしいが、こちらが動いている限り襲ってくることは無いようだ。
ただ一定の距離を持って、今もついて来ている。
森を出てみると、初めて見る世界が広がっていた。
自分にしては驚くほど思い切った行動をとったものだ。
どちらに行けばいいのか判らなかったが、正しい方向へ向かうと洞の中の声が大きくなるようだったので、それを頼りにとにかく進んでいった。
人生に一度、こんな時があってもいいのかも知れない。
思っていたより早く進めないし、思っていたより気分がいい。
やっぱり飛ぶのは気持ちがいい。
イライザは満足げに息を吐いた。
少し意識を集中させて加速し、緩やかな坂道を登りきる。
胸の辺りまで伸びた、くるんとカールしたカナリア色のブロンドをなびかせながら、ひらりと身を翻す。
眼下の草原を風が渡っていた。
茜、くちなし、りんどう。
色鮮やかな下草はみな嬉しそうに舞い踊り、遠く森の木々はざわめいている。
その圧倒的な存在感と激しい躍動。目にこそ見えぬものの、確かにここに存在すると歌うかのように、風は自然の力を見せつけながらイライザの心をも揺さぶっていく。
あぁ、生きている。
瞳を閉じ、天を仰いで微笑んだ。陽の光が温かい。
幼い頃から、風が吹き渡る草原や、刻々と色を変える空や山を眺めるのが大好きだった。自然を身体で感じると、自分もまた生きている気がした。
露草色の瞳を輝かせながら、ふわりふわり空中を漂ったまま辺りを見渡していたイライザは、ある一角に目を凝らした。
地面から次々と家が生え、瞬く間に道が伸びていく。
まるで何かを隠すように、街が猛烈な勢いで増殖している。
「始まったか・・・。」
眉間にしわを寄せるいつもの表情でそうつぶやき、高く澄んだ空を見上げると、イライザの身体は更に上昇し、増殖を続ける街へと向かって行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます