「よしっ」




 鏡の中の日紅(ひべに)は笑う。制服も、アイロンのかけたてでシワ一つない。髪はちゃんと櫛で整えた。『彼』がいつも入ってくる窓も掃除した。部屋も綺麗。準備はバッチリだ。




「いってきまーす!」




「いってらっしゃい!気をつけてねー!」




 母親の元気な声に送られて、日紅は踏み出す。朝の透き通るようなにおいが日紅を包む。




 顔を出したばかりの太陽が世界に明暗をつくる。その影ですら、朝は明るい。




 今日、『彼』を迎えに行くんだ。




「犀(せい)。おはよっ」




「日紅」




 犀が微妙な顔で振り向いた。




 犀と日紅は、気持ちがすれ違ったままだった。『彼』のことを気にかける日紅。それを気にいらない犀。つい昨日まで、お互いぎくしゃくしてぎこちないままだったのに、今日の日紅の態度が普通だったから犀は戸惑っているようだった。




「あのね、あたし考えたの」




 犀を促して歩きながら日紅は切りだした。




「や、待って。先に俺に言わせて」




 それを犀が遮った。日紅は不思議そうな顔をして犀を見上げた。




「ごめん」




 犀はそこで唇を一瞬噛みしめる。




「わかってるんだ。おまえとさ、月夜(つくよ)が仲がいいなんてことはさ。いなくなった月夜をお前が心配するのも分かる。でもさ、やっぱり、なんていうか…俺よりも、あいつの方が会ったのも早くて、その分俺の知らないなんか、繋がりっていうかさ、そんなのが大きいんじゃないかっておも、思っ、て…。…だーーーーーー!」




 いきなり犀が頭を掻き毟って日紅は驚いた。




「ちょ、日紅、とりあえず俺の顔見ないで!前向いてて、ほらはやく!」




 犀が無理矢理日紅の顔を前に向ける。日紅はとりあえず従ったが、前を向く前に見てしまった。顔を背けている犀の顔がゆでダコよりも赤くなっていることを。




 思わず、ふ、と日紅は笑ってしまったが犀はそれどころじゃないようだ。




「おまえに嫌われたくないから今から正直に言う!だから絶対こっちみんなよ!?」




 声を出すと笑い声が漏れてしまいそうで、日紅は口元を覆ったまま無言で頷いた。




「俺、月夜に嫉妬した。あいつ今どこにいるかもわからない状態だって言うのに。確かに日紅の言ってた通りあいつの力でどうにもならないことに巻き込まれてるのかもしれないのに。いなくなってもう一月とかになるだろ?日紅がそこまで気にする事かとか俺が彼氏なのにとか思ったら、なんか気持ちが納得いかないのが大きくて。でも非常事態みたいなもんだから、俺がそんな子供っぽいことにこだわってるわけにもいかないし、何より…おまえに嫌われたくない」




 そう言いきって、犀はまたひとりで悶え始めた。




 それを見て日紅は堪え切れずに笑ってしまった。




「笑うなよ!あー俺情けねぇ~…」




「あはは、でも、そんな犀の素直なとこ好きだよ」




 日紅は犀に小突かれる。




「今のどこが情けなかったの?犀が優しい人だって再認識したんだけど」




「情けないだろ!?嫉妬したとか、嫌われたくないとか!女々しすぎる!」




「全然そんなことないよ。言ってくれた方が、嬉しい。ありがとう犀」




「…ん」




 照れ隠しなのか、犀はしかめっ面で口を手で覆った。しかし顔の赤みはひかないままだったので、さらに日紅の微笑を誘った。




「あたしもごめんね。なんか、巫哉もいないし、犀ともあんなだったから、どうしていいかわからなくて避けるみたいなこともしちゃって」




「いや、それはもとはといえば俺が悪いから」




「じゃあ、二人とも悪かったってことで、仲直り、ね?」




「ああ」




「…ね、犀。巫哉(みこや)のことだけど、心配しなくて大丈夫。今日迎えに行ってくる」




「いるとこ、わかったのか?」




「ん…てかさ、犀が巫哉のことで怒っているみたいだったから言ったら犀不機嫌にしちゃうかなと思って言えなかったんだけど、この前巫哉に会ってね…」




「ん」




 犀がむすりとする。




「俺が嫉妬するのはもう反射みたいなものだと思ってくれ。隠し事されるより、言ってくれた方がいい。あいつにはどうしても対抗意識が出る。で?」




「この前あたしが熱出したの覚えてる?その時に巫哉に会えて。公園にいたんだけど。巫哉の真名(まな)を思い出したら、帰ってきてくれるって」




「真名、真実の名ねぇ…。てか熱出したときに公園?月夜に会った?どうやって?」




「それはウロが…って、問題はそこじゃないの!」




「俺にとってはそこだよ。おまえ無茶するなよ!?」




「してない、してないからっ!」




 虚(ウロ)に齧られた事を言ったら外出禁止令を出されそうだと日紅は思った。




「真名思いだしたら帰ってくるって…そんなことで家出したのかよあいつは。子供か」




「まぁ帰ってくるとは言ってないんだけど、ただ思い出せって。でも帰ってきてくれると思う」




「へぇ。思い出せたってことか?教えろよ。帰ってきたらからかってやろう」




「              」




「…日紅?」




「あれ、聞こえた?」




「いや、おまえ口パクだったよ今」




「おかしいな。              。え、言えてないよね?なんで?あたしちゃんと言ってるんだよ?              。ダメ?」




「ダメみたいだ…紙に書いたらどうだ?」




「携帯で打ってみる…あれ?」




「どうした?」




「わかんなくなる…打とうとすると…名前が。ええ?打つ直前はわかってるんだけど、打とうとするともうわかんないの…どういうこと?」




「あーまぁそうだろうなとは思ったけど。言うのも駄目、書くのも駄目、あとは読唇術ぐらいか…たぶんダメなんだろうけど」




「どくしんじゅつ?」




「唇の動きで何しゃべってるかあてること。多分月夜の名前は、本人から直接聞かないとだめなんだよ。よく神や妖怪なんてものは真実の名前が弱点にあたるようなことも聞くし、そう簡単には伝えられないようになってんだろ」




「そう、なんだ…流石(さすが)犀」




 納得いくような、いかないような。日紅は首を傾げた。




「なあ…日紅。月夜がいなくなったのって、俺らがつき合った日か?」




「ん?そうだよ」




「俺も、おまえに言ってないことがある」




「…え?なに?」




「付き合った日、俺月夜に会った」





 それは、日紅が『彼』の涙をみた、次の日の話。

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