6
今にも泣き出しそうな曇天に強く風が荒れていた。
下方に大きく広がるグラウンドは先日の雨がまだ乾いていないようで、空気もじっとりと重く水気を含んでいる。
学校の屋上で濡れた手すりに肘をかけながら日紅(ひべに)は考えていた。
『彼』の真名(まな)、それは何なのだろうか。
『彼』は日紅に思い出せと言った。では日紅が『彼』を呼ぶ巫哉というものが真名ではないのだろう。犀(せい)は『彼』のことを月夜(つくよ)と呼ぶが、犀自身も言っているようにそれは便宜上の問題で勝手につけた名のようだし、これもまた真名ではないだろう。
今まで日紅が会った妖(あやかし)も『彼』のことを太郎やら葉月やら梅やら好きに言っているが、どれもこれも『彼』の真名とは思えない。
いくら考えても、日紅は『彼』のことを巫哉としか呼んだことがなく、他の名前など一切浮かばなかった。
日紅は天を仰いで溜息を吐きだした。
手詰まりだった。いくら考えてもわからないものはわからないのだ。
一体どうすればいいのだろう。
もし、本当に『彼』の真名を知っている者がいるとするならば。たったひとりだけ、日紅には心当たりがあった。
「わたしの印を消されたな?お主を見つけるのに手間がかかってしまったぞ」
日紅はその声に大きく反応した。
「ウロ!どこ!?」
きょろきょろとあたりを見回したが漆黒の麗人の姿は見えない。
「いるんでしょ!?どこにいるの?」
「隣だ」
日紅は左右を見たが何も見えなかった。がらんとした広い屋上が広がっているだけだった。
ただし声はしっかりと日紅の左横から聞こえた。
「えーと…ウロ?」
「日の神が地を照らしている間、わたしはヒトの目には映らぬ」
「でも、いるんだよね!?ウロ!」
日紅は叫んだ。
「巫哉の真名を教えて!知ってるんでしょう!」
「知らぬ」
「だからはや、…え…?」
日紅は茫然と呟いた。
「嘘!知ってるんでしょ?意地悪しないで教えてよ!お願い!」
「何故わたしが嘘など言う必要がある。あいつの真名など知る必要もないから、知らぬ」
虚ははっきりと言った。
「…」
望みの綱も断たれてしまった。
もしや、『彼』はただ日紅と顔を合わせたくがないために真名を思い出せ、なんて無理難題を言ったのではないかという気さえしてくる。
「泣くな」
「ないてない。雨降ってきたんじゃない?」
「齧(かじ)るぞ」
どんな脅しだ、と思いつつも日紅は目尻をこすった。
ここのところ、情緒不安定なのか我ながらよく泣いていると日紅は思った。
犀は日紅を心配しつつも、『彼』のことで頭がいっぱいなのが不満なのか最近は少し怒っている。
日紅も犀には悪いとは思うのだが、『彼』のことをそのままになんてできない。
けれど犀はそのような様子で頼ることもできず、真名に辿り着く糸口すら見えず、日紅は途方に暮れていた。
「わたしは知らぬ。が、お主は知っているのではないか、ヒベニ」
日紅は首を振った。
「お主以外にあやつが教えると思えない」
「そんなことないよ…。あたしは、ウロにだったら巫哉は言ってるんだと思ってた」
こんなことを言い合っていても水掛け論にしかならない。日紅はため息をついた。結局、誰も知らないのか。
しかし虚は強く言った。
「いや、知っている筈だ」
日紅は黙り込んだ。
そうなのだろうか。日紅は知っている?『彼』の真名を。けれどどれだけ頭を絞ろうと思いだせなかった。
何かの拍子に思い出すかもしれないが、果たしてそれはいつになるのだろう。
タッと日紅の鼻先に滴が当たった。間をおかずそれは滝のような土砂降りになった。
「おい、ヒベニ。また身体を悪くするぞ」
「…うん」
虚にそう催促されたが日紅は動かなかった。水はすぐに制服の奥の奥にまで滲みた。
日紅は虚の声が聞こえる左をじっと見て、不意に拳を突き出した。
掌は空中の何かにぶつかって止まった。
「何をする」
「触れないと思った」
日紅はぱっと顔をあげて笑ったがそれはすぐに歪(いびつ)に歪んだ。
日紅はそれを隠すように勢いよく両腕を突き出して虚に抱きついた。
涙は空の滴と共に日紅の頬を伝い頤(おとがい)を流れた。
虚はきっと呆れた顔をしているか、無表情か。少なくとも驚いてはいる筈だ。けれど今日紅には虚以外に縋れる相手がいなかった。引き剥がされないように日紅は虚にまわした腕に強く力を込めた。
しかし予想に反して虚は動こうとしなければ喋りもしなかった。
暫(しばら)くしてから日紅は恐る恐る虚の顔があるはずのところを見上げた。
「気が済んだか」
やっと虚は口を開いた。
「うん…」
大雨は降ったときのようにあっというまに止んでいた。日紅が身じろぎするたびに足元の水たまりが耳触りのいい音を立てた。
遠くでチャイムの音が聞こえた。授業の始まる5分前を知らせる予鈴だ。
日紅は虚をもう一度ぎゅっと強く抱きしめた。
「ウロ!」
「なんだ」
「ありがとう!大好き!」
衒(てら)いなくそう言って、日紅はにこりとわらった。
「ウロ、あたしが死ぬときに身体をあげる」
日紅はすっと虚から離れた。
本人は否定するかもしれないが、虚は優しい。その優しさを日紅は一方的に受け取るだけだ。初めて会った時も、そして今日も。
虚に日紅がしてあげられることは何だろうと考えて、それしか思い浮かばなかった。
もともと日紅を食べようとしていた虚だ、わざわざ日紅から許可を出してもらわなくともいいかもしれないが、きっと虚はもう本気で日紅を食べる気はないと日紅は直感で思った。
「妖に向かって自らそのようなことを言うなど…愚かだ。ヒベニ」
「オロカでいいよ。でも今すぐはあげられない。あたし寿命が来るまで生きるつもりだから、その時まで待ってね」
我ながら都合がいい話かと思ったが、虚はなにも応えずに去ってしまった。
水滴が制服のスカートからぴちょんと垂れた。
『彼』は怒るだろう。たぶん、ものすごく。日紅が死んだあとに死体がないとわかったら家族や、犀は悲しむだろうか…。
日紅はそう思ったが後悔はしていなかった。
またチャイムが聞こえた。今度は本鈴だ。
日紅はいろいろな考えを振り切るように、滑る中履きを持て余しながら急いで階段を駆け降りた。
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