「戦う意味ってないのかな」

 妙な話。 おかしなことだけれど、死ぬことを決めてから、花が好きになった。

 あるいは人が嫌になってしまった反動、人から離れる言い訳なのかもしれないが、それでも花を見る時は少し気も楽になり、痛む身体を誤魔化す程度のことは出来た。


 花が好きだ。 けれど魔物を退治するようになる前は、男はガサツで花に興味を持っていなかった。

 当然のように花はすぐに枯れてしまうし、それをどうにかする知識はないのが実情だ。


 記憶を探れば、押し花を思い出す。 あれだったら、その姿を失うことはないし、長い間それを見ることが出来るはずだ。 確か、乾燥をさせることで腐らないようにすることで留められるのだったか。


 作り方はよく知らないが、花の形が崩れないように紙の上に広げてもう一枚紙を被せて花を紙で挟む。 その上から適当な物を乗せて圧迫させる。


 もらった花は五つあるので、それを五度繰り返した。 終えてしまえば手持ち無沙汰になってしまったので、使う予定で放置していた手帳をその押し花を飾るための物にすることに決めて「花」と手帳の表紙に書き記す。


 乾燥にどれだけ時間がかかるか分からず、昨日汚したカーペットを洗った。 洗濯機が回っている音を聞きながら、押し花の様子を見るために重しにしていた物を退ければ、水分が染み込んでいたので、別の紙に取り替える。


 腐った冷蔵庫の中身を全て捨てて、天気を切って、取外せるパーツは全て取り外して水洗いし、匂いが落ちることを期待して洗剤混じりの水に浸けてみる。 正しい対処なのかは分からない。

 冷蔵庫の本体もしっかり洗って拭き、匂いが残っていたので扉は開けっぱなしにしてみる。 正しい対処なのかはわからない。


 埃っぽい部屋を適当に掃除機をかけた後、絨毯を洗濯機から取り出して外に干した。


 からりとした天気で、なんとなく不快になって、干した後はカーテンを閉めてベッドに倒れ込む。


 少し考えたあと、死ぬことに決める。


 昨日よりかは前向きに死ぬ気になれたのは、部屋を掃除してスッキリしたからだろう。 わざわざ整理してから自殺する人の気持ちも少しだけ分かる気がした。


 男はシャワーを浴びて服を着替える。 適当に乾かしたところで、もうそろそろ夕暮れになると、急いでビルへと足を運んだ。


 ビルの近くには人が少ない。 それ故にこの場所を選んだということもあるが、それでも、何か寂しく感じる。 思ったよりも、男は弱い。


 エレベーターは動かないため、ビルの階段を登る。 五回建てなので、屋上まで登ろうと思えば五階分だけ階段を登ればいい。

 昨日と同じく登って行けば、昨日立ち止まってしまった三階と四階の間で、また脚が痛んだ。 震えた。

 けれど昨日よりかは幾分かマシで、昨日より少し進む。 荒い息を吐き出してうずくまっていれば、それが自分だけの物でないことに気がつく。


「……あ、昨日の」


 前から少女と声が聞こえた。 顔を上げれば、昨日もいた少女が、手には数本の野花の束が握られていて、頬に涙が乾いた跡があった。


 死んだ場所に祈りに来たのだったら泣くのも分かる。 それも、まだ幼い子供だ。 辛くてそこまで行けないのも納得だ。


 薄らと感じられた内臓の違和に顔を顰めていると、少女は顔を服の袖で拭いながら、子供らしく日焼けした手に握られていた花を俺に見せた。


「いる? この花」


 男は頷いて少女に礼を言う。 昨日よりかは進めたけど、まだまだ屋上は遠く、死ぬのは難しそうだ。

 もう一歩、無理に進んだところで男は階段から降りて、暗くなった道を歩く。 暗い夜道、少女は大丈夫だろうか。


 妙なことだけど、死ぬつもりの癖にまだ人のことが気になるらしい。


 心配にはなったが、男よりも先に帰っているので見つけることも出来ないだろうと気にしないようにして家に戻る。


 朝にしたよりも手馴れた手付きで押し花を押してから、朝に押していた花を挟んでいる紙を取り替えた。


 酒でも買いに行こうかと迷ったけれど、今日は控えることにした。 腹も減るが、明日の朝でいいか。 どうせ死ぬのだったら健康や規則的な生活など考える必要もない。


 財布と通帳を見てみて、まぁ死ぬまで生きる分程度にはある。 またおかしな言葉だ。


 ベッドにうずくまって眠る。 目を閉じれば、醜い。 醜い。 醜い己の姿が瞼の裏で笑い。 それを人々が怯えて弾圧する幻聴が聞こえる。 幻視に幻聴と、頭がおかしくなっていることが分かるけれど、それはそれで別によかった。



 朝、目を覚まし、腹が減っていることに気がつく。 押し花が乾いたかを確かめて、一昨日にもらった分は乾いているような気がしたので、それを取り出して並べる。

 茶色くなってしまっている部分があって、美しさは保てていなかったが、あのまま萎びれさせるよりはいい判断だったと頷いて、手帳の一昨日のページにそれを貼り付ける。


 昨日の花の押し花も紙を取り替える。 一昨日のよりも全体的に綺麗に見えるのは萎びれ始める前に押し花にし始めたからだろう。 紙を取り替えて、しっかりと水が出るように重しを乗せた。


 手帳に貼った押し花の束を見れば、やはり心が落ち着くのを感じる。 魔物と争う以前は、人と関わったり、遊んだりするのが好きだったけれど、少なくとも今日はこれを眺めている方が気分がよかった。


 愛らしい花を愛でていれば、喉が乾いていることに気がついたので水道水を飲んでから、財布を持って買い物に向かう。


 夏の暑い中、人が前よりも減っていることに気がついた。 魔物の残党がこの町にいるから、多くの人はここから離れたのだろう。


 男にとって、都合が良かったけれど。

 街や人。 守っているつもりだったが……思った以上に守れてはいなかった。

 そのことを示すように、よく来ていた店のシャッターは降りている。 少なくとも、人の生活は守れていない。


 ビルに少女がいたように、生命も多く取り逃がした。 開いている店を探し、そこに入って注文して飯を食べる。


 片腕が、なくて、食べにくかった。


 けれどその食べにくさがヤケに心地よく。 何故かと考え、導き出した答えがあまりに醜く、吐きそうになる。


 俺も腕を失ったから、だから許される気がした。


 吐きかけたそれを無理矢理水で腹の奥に流し込んで、家に帰る。

 少なくとも、ヒーローにはなれそうにはないと自嘲してから、幻肢痛がする腕の付け根を触った。


 男は押し花の紙を取り替えて、前のよりも上手く出来ていることに小さく笑んだ。


 綺麗な花だった。 野花で、名前も知らないし、けれどそれでも綺麗な花だった。


 今日はもうそろそろ死にに行こうと歩く。 いつもの道なのに、なんとなくいつもと違う感覚。


 歩いていたら、花の匂いがした。 地面を見れば、名前も知らない野花が散乱していてーーーー考えが纏まるよりも早く駆け出す。


 音がする方、匂いがする方、痕跡がある方。 何度も聞いたコンクリートが崩れる音を聞き、思い切り走る。


 日焼けして、褐色になっている肌。 頬から血が垂れていて、少女は倒れ込んでいた。


 少女の近くにいるのは猿型の魔物で、何度か殺したことがある魔物と同一の種類のものだ。 甚振ることや、わざと逃がして狩りを楽しむことが好きな下衆な性質を持っている化け物であり、今はその下衆な性質のおかげで少女はまだ死なずにいてくれたらしい。


「変し……」


 いつものように変身をして、戦おうとしたが、言葉が詰まる。 噛んだわけではなく、言葉が発せられない。

 すぐに、少女にあの醜い姿を見られたくないから、変身出来ないのだと気がつく。


 言え、言えよ、変身と。


「ッッッ!! ウオァァァァアアアア!!」


 叫び、魔物の警戒をこちらに寄せてから、瓦礫の中にある元手摺の鉄の棒を引っ張り出す。 片手でそれを操り、こちらに向かってきた魔物の振るう腕を受け止める。


 手に痺れが走るが、離すことはできない。 二撃目を受け止め、三撃目を逸らす。


 人の身体ではあり得ないほどの力が発揮出来ているのは、元に戻りきらなかった変身のお陰だろう。 変身を解いても、まだ化け物のままらしい。


 男は猿型の魔物の攻撃を往なし、弾き、受け止めながら、叫ぶように言う。


「逃げろッ! 早く!!」


 少女は震えた目で首をカクカクと横に振る。 腰が抜けてしまったか。

 猿型の魔物の突進を鉄の棒でもろに受けて、身体が弾けるように後方に吹き飛ぶ。 空中でビルの壁を蹴り体勢を整え、身体を捻って魔物に向けて鉄の棒を振るう。


 反撃を予測していなかったからか、猿型の魔物の側頭に鉄の棒がぶち当たり、ビルの壁に魔物の頭が当たった。

 魔物は狂ったように猿声を挙げて、血走った目でこちらを見る。 この前の狼男に比べ、この魔物は数段落ちる。


 体格や膂力はもちろん、速さや技量も拙く、だからほぼ人間である今の俺にもある程度対処が出来た。


 ーーある程度は。 であるが。


 魔物が振るった腕に鉄の棒が当たるのと同時に背後に跳ねて衝撃を逃し、ビルの壁を蹴り、より後方に下がる。

 適当に瓦礫の破片を蹴り飛ばして猿を煽って、思い切り走って逃げる。


 狂ったように猿は俺に向かってきて、攻撃を防いだ鉄の棒を掴み、俺ごとそれを振り回す。 散々攻撃を受けて痺れていた手はいとも簡単に離れて、丸腰の俺に向かって、魔物がやってくる。


 不快な、嗜虐的な笑みを浮かべて猿は俺の腕を掴んだ。

 もう充分に、少女からは離れていた。


「変身』


 猿が掴んでいた腕が膨らみ上がり、猿は警戒して離すが、今度は俺が猿の身体を掴んで逃さないようにする。

 そのまま抱き着くような形に移行すれば、変身し、それにより生えてきた刃に猿の全身が貫かれていく。


 猿の気が狂った断末魔の叫びが響き渡り、充分に刺さったところで身体を離して猿の首を掴み、捻り上げて折った。


『フぅ……」


 もう戦うつもりはなかったくせに、結局戦ってしまった。 変身を解けば、無理して生身で戦った反動のせいで、全身が酷く痛んだ。


 血塗れだが、流石に少女を放置していくわけにはいかないので、少女が倒れ込んでいた場所に戻る。 途中、少女が落としたであろう花を拾って、少女の元に戻った。


 血塗れの姿を見て怯えるかと思ったが、違った。 安堵したような笑みと息。 良かった、と言っているようにも見えたそれは男が血塗れでいることに気がついていないようですらあった。 そんなわけもないが。


「怖くないのか?」


 男は尋ねたら、少女は答えた。


「怖かった。 死んじゃうと思った」


 心底、心底。 男は安心の息を吐き出して、少女の前に座った。 手を差し伸べるにしても、背負うにしても、少女に血がついてしまうから、ただ一緒にいることしか出来なかった。


「あなたは、怖くなかったの?」


 子供らしく日焼けした肌。 それが動いて声を発した。


「怖かった」


 男は「何が」とは言うことなく、少女の問いに答えて「生きててくれてよかった」嬉しそうに笑った。


 夕暮れになって、少女が歩けるようになってから、男は少女に花を手渡す。 少女は「ありがとう」と言って、男の隣を歩いてビルに向かった。


 一階から二階。 二階から三階。 三階から、四階。

 やっとたどり着いたそこにきて、日焼けした少女と、血塗れの男は顔を合わせて少し笑う。

 不思議な達成感を共有するけれど、本質としては全然違う目的だ。 四階と五階の中程で、男は脚が竦んで歩けなくなった。 少女はその二段先で、蹲った。


 それから十分ほどで、二人してトボトボと階段を降りる。 ビルの前で少女から花を受け取って、子供らしい笑みとともに声が発せられた。


「ありがとう」


 人がいるところで、血塗れで少女の隣を歩くわけにはいかない。 人気のない場所から、人がいる場所まで共に歩いたあと、少女に手を振られて別れる。


 少女の姿が消えて、男は膝をついて目から大量の涙を流した。 助けれて、良かった。 良かった。


 人は助けれた方がいい、そんな当たり前。 久しぶりに思い出した。

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