第5話
奔放だね、自由な人だねと、淳は若いころからよく言われた。
淳自身にその意識はない。ただ、いとしいものを慈しみ、求められれば応え、快いものを是としているだけだ。
自分の気持ちに素直なだけだと言ってほしい、淳がそうぼやくと彼女は髪を揺らして静かに笑う。
そこにはもう、あの日の少女はいない。
夕陽で燃える部屋のなか、声を震わせて、いまにも泣き出しそうな目をして好きですと呟いた、あの日の実咲子は過去になった。
けれど服を脱いで抱き合えば、いまもまだふたりは森をさまよえるのだった。
検診のたびに実家へ帰っていた妻・奈々が、予定日を二週間後にひかえて本格的に里帰りをした。いつもは手狭な1LDKの部屋が広く感じられる。
ベランダへ出て、煙草に火をつけた。春の夜風は乱暴に淳の髪を掻き乱していく。煙を追って夜空を見あげたが、当たり前のように星がない。淳は光を求めて眼下の公園を見おろした。
街灯で白く浮き上がる公園に、満開の桜が揺れている。昼間ならば白っぽく映る花びらが、安っぽい明かりの下では艶やかに色づいて見えた。水に垂らした一滴の絵具が、ふやけて広がって儚くなっていったときのように、淡い色をしていた。
淳はふと思い出して、携帯電話を取り出した。アドレス帳に登録していない番号へ電話をかける。
五コールで電話は繋がった。
「みさちゃん、起きてた?」
「先生もう三時……、ふつうに寝てた」
「ごめんごめん、でも電話とってくれるんやね」
電話だというのに実咲子は平然と黙り込む。眠たげな彼女の声が聴きたくて、淳は続けた。
「今年こそは僕の講義とってや」
「やです」
「なんでやの」
「絶対に取りませんから。だって私、宗教学とか関係ないし」
「僕の授業はこう見えて評判いいんやから。もうじき講師じゃなくなるかもなあ」
「教授とか興味ないくせに」
「うん、ないな」
淳は爽やかに笑って、みるみる灰になっていく煙草のあかりへ視線を落とした。
「みさちゃんが僕の授業に来てくれたら、ずっとみさちゃんのこと見て講義できるのに」
「だから嫌なんだってば」
「生徒さんの顔を見ながらお話できるんが、何より楽しい。そこにみさちゃんがいてくれたら、もっと楽しいやん」
「ねえ先生、もしかして酔ってる?」
「ああ、飲み会から帰ってきたとこ」
「なんだもう。眠いから寝かせ――」
「奥さんが里帰りしてる」
実咲子の言葉を遮って、淳は囁いた。ベランダに置きっぱなしの灰皿へ短くなった煙草を押し付ける。実咲子は何も言わなかった。
桜の花びらが、風に戸惑いながら足元へ舞いこんできた。
「いつでも電話しておいで」
「それは先生のほうでしょ。おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
実咲子の声は、コンクリートに張りついた花びらのように震えていた。淳はおとなしく電話を切り、弛みきったネクタイを外す。どんなに離れていても、彼女の張りつめて震える声を聞くと抱きしめている気がした。
はじめは、受験を控えた女子高生とその家庭教師だった。当時、三十を過ぎても定職につかずふらふらとアルバイトで食いつないでいた淳は、友人の紹介で実咲子に勉強を教えることになった。
言葉のきれいな子だな、そう思った。訛りがないからではない。彼女の言葉には年相応の繊細さと鋭さと、若さに似合わない落ち着きがあった。勉強に対しても真摯で、真面目な優等生タイプだと思っていた。だが、あるときからその認識は間違っていたと知る。
英語を見てやっていたときだった。不意にぽつりと音がして、見るとノートに雫が落ちていた。どうしたの何かあったのと尋ねても、彼女は首を振るばかりで何も言わない。細い肩が震えて、耳にかけていた黒髪がほどけて頬を隠す。淳は実咲子の頭をそっと撫でた。彼女は一瞬、ひどく驚いたようだったが、小さく嗚咽をもらした。
『泣いたらええよ』
淳は泣き声が聞こえないように実咲子を抱きしめた。二十分ほどそうして、実咲子は泣きやんだ。ごめんなさいと謝りはするが、涙の理由は語らない。淳もまた聞き出すことはしなかった。誰にだって、不意に泣きたくなることはある。そこに理由はない。ただ本当の彼女は、実は優等生でも真面目でもないのかもしれないと、淳は感じたのだった。
それからひと月ほどがたった秋の日、勉強の終わり際に実咲子は震える声で言った。先生のことが好きですと。
『僕もみさちゃんのこと好きやで』
『あ、あの、そういう好きじゃないんです。その……』
『わかってる。付き合おか』
『え』
あっけにとられた実咲子の頬を撫で、淳は微笑む。そうしているとやがて実咲子の緊張もとけて、彼女はその名のとおり咲くように笑った。
それから三年半がたった。実咲子は大学四年生になり、淳は結婚してもうすぐ子どもも産まれてくる。
最近実咲子は、あの日のようには笑わなくなった。涙の代わりに微笑むようになった。寂しさはあったが、そんなふうに大人になっていく実咲子も淳にはいとしかった。
桜はすっかり散って、側溝にはうずたかく花びらが積もっていた。キャンパスからひとつ色が消えていく。春の夕暮れは灰色に霞んでいた。
講義を終えると妻から留守番電話が入っていた。陣痛がきた、明日くらいかもという内容だ。淳はカレンダーで明日の日付を確かめる。
「四月二十日か」
名前をまだ決めていない、男の子だというが間違っていないだろうか、無事産まれてきてくれるだろうか、様々なことが頭をよぎった。煙草に火をつけながら、いつか本数が減ったりするのだろうかとぼんやり思う。
そのときになって、自分は父親になるのだと自覚した。
とにかく、おそろしかった。
淳は妻へ折り返し電話をすることも、自分の実家へ連絡することもなく、溜まっていた事務作業に没頭した。どんなに些細な仕事も洩らさずやった。それでも不安は拭いきれなかった。ひとりで酒を飲みにいき、浴びるほど飲んだ。悪酔いして吐くまで飲んでも、意識だけは公園の街灯のようにはっきりとしていた。
新梅田食堂街の柱にもたれ、時計を見やる。日付が変わったころだった。携帯電話を握りしめる。淳は溺れたものが助けを乞うように実咲子へ電話をかけた。
いつもなら数コールで出るはずが、いつまでたっても眠たげな彼女の返事がない。一度切って、もう一度かける。それでも通じない。淳は柱にもたれかかりながら崩れて、電話を抱きしめるようにしながらこれが最後とダイヤルした。
「も、もしもしっ」
聞きたかった実咲子の声だった。けれど眠たげではなく、周りも騒がしい。
「みさちゃん、いまどこ?」
「あ、サークルの飲み会で」
「そっか。せやんな、みさちゃんにはみさちゃんの世界があるよな」
「ねえ、どうしたの。変だよ」
「うん、変。めっちゃ変や」
「どこにいるか教えて。今から行くから」
記憶はそこで途切れた。次に目覚めたときには、実咲子に肩を揺すられていた。自分はどうにか居場所を告げていたらしい。
「せんせ、しっかりして」
「ああ、みさちゃんや」
淳は実咲子を抱き寄せて、ゆるく波打つ髪に鼻先を押しつけた。
「ねえ先生、このままじゃ風邪ひくし、帰ったほうがいいよ」
「帰らへん。僕、みさちゃんとおる」
「無茶言わないで。私、明日は二限あるんだから」
「おねがいやから、おって」
小さな子どもが母親にすがりつくように、淳は実咲子に抱きついた。しばらくそうしていると、実咲子はいからせていた肩を落とした。
「いい大人が、みっともない」
「ええねん、どうせ誰も見てへん」
「あんまりみっともないから、終電も行っちゃった」
「ホテルあいてるかな」
「平日だし大丈夫だと思うけど」
「なあ、みさちゃん」
立ち上がりかけた実咲子を見あげる。実咲子は前かがみになりながら首をかしげた。
「なに」
「今日はひどくしてもいい?」
もはや宣言だった。実咲子が嫌だと言っても、今日だけは加減できる自信がなかった。
実咲子の眉が切なく歪む。だからいじめたくなるのだ。
「ばかみたい」
背中を向けた実咲子を追って、淳はふらりと立ち上がる。膝丈のスカートから覗く膝裏を見つめているとたまらなくなる。淳は実咲子へ駆け寄って、肩を抱き寄せ歩いた。実咲子と呼ぶと、彼女は疲れたように笑みを浮かべた。
翌朝、淳は妻から連絡を受け、寝癖のままホテルを飛び出した。
おなじ生き物とは思えないほど小さな我が子を腕に抱き、まじまじと顔を見つめる。聞いていたとおり男の子だった。快晴に産まれたので、晴輝と名付けた。妻はもっと考えてと言ったが、何度か声に出してみると思いのほか気に入ったのか、良かろうと満足げにうなずいていた。
昼過ぎになって落ち着いたころ、実咲子へメールをした。なんと言えばいいのかわからず、ごめんとだけ送った。返事はなかった。
一度偶然街で会ったが、実咲子とはそれきりだ。元々、実咲子のほうから連絡してくることはない。淳にその余裕がなかった。
実咲子が通う大学へ講義に出かける。キャンパスを歩きながら、それとなく実咲子の姿をさがしてみるが、あの後ろ姿はない。
学舎にチャイムが響き渡り、鳴りやむころに教室へ入る。五月の連休があけると、生徒数がいくらか減る。淳にはそのくらいが気楽でよかった。
黒板の前へ立ち、教卓へノートを置く。顔をあげて、教室を見渡す。
「さて、では今日は――」
淳はいちばん後ろの席に座る男子生徒を見て、思わず言葉をのみこんだ。駅前で実咲子と偶然会ったとき、一緒にいた男だ。ノートも筆箱もなく、ただじっと淳を見ている。睨みつけるでも、観察するでもない。いまにも先生と呼びかけそうな眼差しで見つめていた。彼は自分の存在を淳へと知らしめていた。
淳が気づいたとわかり、彼はひっそりと笑う。あのとき交わした会釈のように、口元だけで微笑んでいた。
きっと彼は実咲子のことが好きなのだ。
淳は教室へ微笑みかける振りをして彼の眼差しをかわし、ノートを広げた。
「今日は大乗仏教のお話からですね」
森をさまよい続けるのは、あいしているからだろうか。
うつくしさに目がくらんで、そこから抜け出すすべを知らないだけではないだろうか。
そのこたえに、淳の興味が向くことはなかった。
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