第6話 夢を見る
ああ、またこの夢か。
そう思えるようになるくらいにはこの夢をなんども見ている。
夢のはずなのにそうとは思えないほど薫る藤の花にまたこの夢かと気づかされる。
渡り廊下から中庭を覗くと鈴なりの藤棚が見える。白と紫がはにかむように咲き誇っている。
さすがこの高校の校章になっているだけあるな。そんなことが頭の中に浮かぶ。
この夢を見るときはいつも知らないことが自分の中に元々あったかのように自然に浮かんでくる。そう思うのがごく当たり前だと言うように思い起こされる。
違和感はある。その浮かぶ気持ちはぼくのものではないから。
けれど不快感はない。浮かんだ思いはたぶん自分のものだから。
ぼくは知らないけれど、なぜだか知っている。この夢を見るとそんな妙な気持ちになる。
現実のぼくと夢の中のぼく。二つが溶け合って一つになっていく。そんな感覚がやってくる。
「『かくしてぞ 人は死ぬといふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに』だっけ? 今日やった古典の和歌」
前を歩く--がぼくに問いかけてくる。名前はわからないけどこいつはぼくの友達だ。なぜだかそう思う。
さわりと吹いた風が藤の甘い香りを運んできたから思い出したのだろう。いかにも健気でたおやかな姿とは裏腹にあいつの匂いはなかなか強い。
「あー、確かそんな感じのだったな。どうしたの。急にロマンチックじゃん」
「うるせえ。思いだしたから言ってみただけだろうが。俺は案外まじめに授業受けてるんですー」
ぼくは知っている。こいつが野球部でいかにもといういがぐり頭をしているわりに、小説だとか古典文学が好きだってことを。本人は恥ずかしいと思っているらしく必死にひた隠しにしている。そんなに恥ずかしいものじゃないと思うんだけどなあ。まあクラスでばれようものなら普段からされている可愛い扱いに拍車がかかるか。和歌が好きなんて乙女チックでかわいいーなんて言い出しそうな女子の顔が何人かすぐに思い当たる。
さっきより強く風が吹く。今日はやたらと風が強い日だ。
寒さも彼岸までと言ったのは誰だろうか。春分をとうに過ぎているのにまだまだ寒さは頑として居座っている。一刻も早く過ぎ去ってほしいものだ。
でもこんな風は朧げな記憶も一緒に運んでくれる。
「今日やった和歌でいうならぼくはあっちの方が好きだったなあ。ほら、あの、天つ風がなんとかってやつ」
「ああ、『天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ』だな。なんというかお前らしいよ」
「そうそれ」
らしいと言われる理由はわからないけど、なんとなくぼくはその歌が気に入っていた。テスト前に切れ字や使われている表現などを暗記するだけのぼくがぼんやりとではあるが頭の片隅で覚えていたのだ。
天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ。
小さくつぶやく。覚えておきたいなと思う。
「てかもうそろそろ休み時間終わるんじゃね?」
ついさっきまで自分も初春の冷たい柔らかさに身を委ねていたというのに、急に戻ろ戻ろとせかしてくる。全く調子のいいやつだ。
けれど時間だけでなく、吹き抜ける風の寒さにそろそろ辟易しはじめていたのも事実だ。薄手のシャツとカーディガン一枚ではやや心もとなかったようだ。ちゃんとブレザーも着ておかないとな。
校舎に戻る道すがらに彼女はいた。--先輩だ。一目見ただけで分かった。
整ってはいるけど絶世の美女というわけではない。けれどどれだけ世界があいまいになっても彼女の輪郭は変わらないのだろうなと思わせる芯の強さのようなものが何よりも他とは違うことを意識させる。
次の授業がある教室へ向かう途中なのだろうか。彼女は何冊かの教科書と若草色のキャンパス地の筆箱を抱えて渡り廊下を歩いてた。
たぶん普通の人なら何でもないような仕草の一つ一つが輝いて見えた。
一歩また一歩と足を進めるために揺れるその長い黒髪はまるで生まれたての赤ん坊のように生命力にあふれていて、それでいてどこか大人びた艶めかしさがあった。
中庭の藤の花をつっと見るその姿はぼくの目を捉えて離さなかった。
ああ。光だ。
--先輩を見るたびにいつもそう思う。
彼女は光そのものだ。
光とすれ違う。
りんとぼくの足元の方から音がした。
銀色に光る鍵だ。その鍵に結ばれた橙のより紐に彩られた小さな鈴が鳴ったのだろう。
ぼくはかがんでそれを拾う。触れた金属がひんやりとした。
「あら。拾ってくれてありがとう」
藤の花とは違う主張しすぎない甘やかさがぼくの鼻をくすぐる。
やっぱり彼女は光に包まれている。
「いえ」
喉の奥ででもつれたように上手く言葉が出てこない。心臓が高鳴っているのがわかる。一瞬彼女の手が触れたあたりからじんわりと熱が伝わってくる。
もっと何かを伝えたいような気はするけどなにを伝えたいのかわからない。
もどかしさと喜びがないまぜになったままぼくは動けない。ただただ彼女が去っていく後姿をぼんやりと見つめるしか出来ない。
ぐらりと視界が揺らいだ。
世界が乱暴にかき回した絵の具のようにぐちゃぐちゃになっていく。
りんと鈴の音がなる。今度は耳の奥の方から鳴っている。
りん、りん、りん。
ぼくはぼくに引き戻される。
気づけば辺りは真っ暗で、ぼくは一人そこに佇んでいた。
夢だ。そうだあれは夢だ。
どっぷりと頭の先まで漬かっていたような気がする。
あれは夢だと唱えていなければ自分が自分でなくなってしまいそうで怖い。
でもその誘いはどこまでも甘美で泣きそうになる。
ぼくは一体なんなんだ。
一匹の蝶がふわりと鼻先を掠めて飛んでいくので顔を上げる。
一体どこから迷い込んだろう。
そんな夢の中でしても仕方がない問いかけが頭の中で浮かぶ。
きっとそれはあの蝶がやけに現実感を纏っていなかったからだ。
両方の羽に一筋朱が引かれている以外は辺りに溶け込んでしまいそうな黒なのに全く背景と馴染んでいなかった。それどころか淡い光を発しているかのように辺りから浮いて見えた。
他のなによりも夢らしいのに、この空間でそれだけが確かなもののように感じられた。
また一つふわりと力など全く入っていないように見える柔らかさで蝶は羽ばたいた。
ぼくのもとにゆらゆらと近づいてくる。
その姿はあまりのも幻想的で吸い込まれそうになった。
蝶はぼくの肩に当たり前だというようにゆるくとまった。
目が合う。
ぼくは瞳に映ったぼくを見る。
どこからか声がする。聞いたことがある。そう思った。
ぼくの鼓膜が揺れる。
「あなたは夢を見ているの? それともあなたが夢なの?」
水面に引き戻される感覚がぼくを襲った。
あの夢を見た次の日はやけに身体が怠い気がする。疲れが溜まっているとかそういうのとは違う。ずれている。そんな感覚があるのだ。
なんでぼくはここにいるのだろう。
そんな置き場のない苛立ちが纏わりついて離れてくれない。
あちらに、こちらにと世話しなく料理を運んでいてもいつものように集中できない。いつもなら開け放たれた窓から聞こえてくる春の歌声や、差し込む日の光に心を晴らせるはずなのに昨日から降り続く雨のせいでそれも叶わない。
もう正午を過ぎるころだというのに心なしかいつもより食堂が沈んだように見える。母さんは何事もないように働いているからぼくがそう思っているだけなのだろうけど実際にそう見えてしまっているのだ。
そのせいかいつもよりこの気怠さが続くのも長い。
こぼれたため息を吹き飛ばしたのは、淀んだ空模様に似つかわしくない明るい声だった。
「旨い!ここの料理めっちゃ旨くないですか、隊長!」
あれ。なにかが引っ掛かった気がした。
声のした方を見ると鎖帷子を着込んだ若い青年だった。短く刈り込まれた金髪が元から幼い顔立ちをより幼く見せてはいるけれど、年はぼくとそう変わらないだろう。
静かに食べろ、と隊長が青年を叱る声が部屋に響いた。
もう大人と呼んでも差し支えないほどに成長した青年に向けられたとは思えない隊長の言い草が面白かったのかそこら中から忍んだ笑い声が漏れ聞こえてくる。
幾分か部屋が明るくなった気がした。
なぜだろう。ぼくはその青年から目が離せなかった。特段変わったところのないただの新米兵士のはずなのになぜだろう。
それほど長く見ていたつもりはなかった。と言っても自分の感覚だけなので本当に短かったかはわからない。とにかく気が付いた時には青年と目が合っていた。
にかっと屈託のない笑みを浮かべて青年はぼくを手招きしてきた。
なんなのだろう。
そうはもののなんとなく彼と話してみたい気持ちの方が勝った。
ゆっくりと歩を進め始める。
この景色もどこかで見たことがある。そんな気がしていた。
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