第4話 そして出会う

 風が吹いていた。目を思わずつぶるような風ではない。耳元でさわさわと囁いて次の瞬間には通り過ぎて行ってしまうような淡い風だ。


 彼女は木の幹に背を預け、まるで高名な画家が描いた絵画のように座っていた。

 いつも見慣れているはずの風景が全く別物のように感じられた。まるでその木は彼女が腰を落ち着けるためにそこに立っているかのようだった。アネモネは彼女の美しさをより一層際立たせるためにあるかのようだった。


 光が見えた。

 視界を埋め尽くすような光が。

 世界がぼやけていく。

 その中で彼女の輪郭だけがよりはっきりとしていく。

 なぜかぼくは彼女から目が離せなかった。

 不規則に、けれど正しく揺れるそのきらめく長い黒髪が。

 本をめくる陶器のように白い指が。

 ぼくを捉えて離さなかった。


 またひとつ風がそよぐ。彼女が卵を包み込むようにはためく髪をそっと抑える。

 目が合う。

 ふいに風がやむ。

 時が止まる。

 なにか言わないと。

 なぜだかそう思った。


「アネモネが、きれいですね」

 口からこぼれた言葉はひどく空虚で、でもなにかを願うようだった。


 彼女はひとつ瞬きをして、身体を半分だけひねる。

 まつ毛の一本一本まで光が通っている。

 きっと彼女の眼には白いアネモネが映っている。


「ええ、とても、きれいね」

 彼女は確かめるように一言一言大切そうに言葉を紡いだ。

 絹のような声だった。

 どこまでも透き通っていて、光を帯びている。

 けれどそんな声とは反対に彼女の顔に笑みはなかった。とてもきれいなのだけれど血の通わない人形のように無機質で。彼女の一挙手一投足に世界が華やぐのに、彼女だけはその世界の美しさをしらないようで。

 どこまでも透き通っているけど、その中にはなにもない。

 彼女はきっとからっぽだ。


 このまま分かれるのはなぜかとても惜しいものだと思った。

 恋とかそんなものではないけれど、きっとこの人はぼくにとってかけがえのない人になる。なぜだかそんな気がした。


「あ、あの」

 口を開いたものの彼女に伝えるべき言葉は見つからない。なにか言わなきゃ。その気持ちだけが加速する。

 鼓動が早くなるのが自分でもわかる。まるで坂道を転がりだした石ころのように止まることを知らずどんどん加速していく。なにもかも、ぼくの気持ちさえもはるか後ろに取り残し、ぐんぐんとその速さを増していく。

 いつの間にか彼女がじっと見つめている。その眼はぼくを見ているようで見ていない。ぼくの内側を見通しているようにも思えるし、視界にぼくなんて言う存在がないかのようにも思える。

 ぼくは彼女になにかを伝えたい。


 頭の片隅でなにかが弾ける音がした。

 アネモネの匂いを追い越して、藤の花が薫っていく。

 真新しい白い教室。夏場でもひんやりとした木製の机。どこかだれたような雰囲気。あてどのないなにかをみんな待ちわびている。

 黒板を真っ白な棒が黒い板を叩く音だけが辺りを満たす。黒い板に白い文字が埋め尽くされていく。

 ああ、そうか。あれはチョークだ。

 知らないはずのものの名前を知っている。

 窓辺に座るぼくは昼下がりのまどろみに耐えながらそれを見ている。

 見慣れない文字。けれどぼくはそれを知っている。

 こういうことを知っている。

 一筋の風が教室に吹き込む。カーテンが揺れる。

 先生が口を開く。

 声が重なる。


「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」


 気が付くとそこはやはりあの草原で、一陣の風がアネモネを撫でて空へ帰っていったところだった。

 既にさっきまではっきりと見えていたはずの景色は見えなくなっている。早すぎた鼓動もいつのまにか落ち着いている。

 ただ不思議なまでの穏やかさだけが胸の奥のほうにぼんやりと残っている。


「それはなに?」

 彼女が怪訝な目でぼくを見続けている。

 そりゃそうだ。話しかけられたと思ったら続けざまにわけのわからないことを言われたのだ。

 けれど、


「ごめん。ぼくもわからない。けれどなんとなく口にでてしまったんだ」


「なにそれ。変なの」


 ああ、きれいだ。彼女が初めて見せた笑顔はそういうしかないほど美しかった。

 ほんとうにおかしそうに彼女は笑っている。声を立てるわけでもなく、ただくすりと笑っただけだけれどぼくの心が軽くなる。


「あなたの名前は?」

 彼女がまだ微笑みを残しながら聞いてくる。今度はぼくをちゃんと見ている。


「トーリ。トーリ=ユーフラテス。あなたは?」


「私はミズノ=リンクリンド」


 彼女が読んでいた本に薄紅色の栞を挟み、スカートの裾を抑えながら立ち上がる。

 立てば芍薬。そんな言葉がふと浮かぶ。けれど彼女にはアネモネの方がよく似合う。きっとそうだ。


「雨が降りそうね」


 彼女が見上げた空はつい先ほどまで見せていた陽気な笑顔をひそめ、灰色の暗幕の向こうへと隠れてしまった。遠雷がひとつ鳴る。楽しそうに囀っていた鳥たちの声はもう聞こえなくなっていた。

 もうすぐ雨がやってくる。鼻をくすぐる匂いが教えてくれる。いまに雨粒が地面を叩く音が満ちてくるだろう。

 もう帰らなくては。

 手に持った袋の重さを思い出す。

 彼女も村の方へ歩き出す。


 すれ違う、その瞬間ぼくはまた光を見る。


「また、会いましょう。必ず」


「ええ、そうね」


 振り返らずに答えたその言葉に胸が躍る。そっけないようで、でもきっとまた会える。そう確信している、そんな声だ。

 笑っているといいな。

 去っていく彼女の後ろ姿を見て思う。なにかを失ったような悲しい顔は彼女には似合わない。


 彼女の姿が見えなくなったころに木の葉を打つ雨の音が聞こえだした。いくら春だといえど雨に濡れるとやはり寒い。震える身体をさすりながら道を歩いていく。

 大丈夫。心の奥の方は温かい。

 浮かない天気とは反対にぼくの心は透き通っている。

 また会える。

 ぼくはそう確信している。


 去っていくぼくの後ろでアネモネが揺れていた。

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