37:夏休みスタート、そして一人称問題
最後に大きな問題が発生しつつも、夏休みが始まった。
一番出会いたくなかった攻略対象と出会ってしまったことに、季人はすごく心配してくれたけど、起きてしまったことはどうにもできない。
百合川陽良に関しては、花園さん改め彩ちゃんにお任せするしかないだろう、と季人とも意見が一致した。
どうやら前世の彩ちゃんは『コイハナ』を一部のキャラしか攻略していなかったらしく、サポートはこれまでどおり季人に頼るほうがいいだろう。
つまりは、現状維持。多少の懸念はあるが、秘密を共有する仲間が増えたのだから悪いことばかりじゃなかった。
それより何より、夏休みだ。
長期休暇っていうのはどうしてこう心が躍るんだろう。
特に今年は、学校があまり安全な場所ではなかったから、余計かもしれない。
お盆休みには伯父さんたちと二泊三日で旅行に行く予定もあるし、今から楽しみでしょうがない。
学生の天敵、夏休みの宿題は、計画的にこなして八月半ばには全部終わらせる予定だ。
四十日ちょっとの夏休みを、どうやって過ごそうか。
考えているだけで時間が過ぎてしまう。
けれど、今の私の頭には、別の悩みも居座っていた。
悩みというほどのものなのかは、よくわからないけれど。
それは、この世界に似たゲームのことでもあり、季人のことでもあり。
彩ちゃんから話を聞いて、ふと気づいてしまったことがある。
気になって、でも本人に尋ねるのはなんだか無神経な気もして。
せっかくの楽しい夏休みだというのに、もやもやが頭の片隅から出て行ってくれなかった。
「ねえ、季人はさ」
「何?」
伯母さんが買い物に行って、居間に二人きりになったとき。
二次方程式を解いていた手を止め、隣に座る季人を見上げて話しかけると、彼はすぐさま返事を返してきた。
標準装備の淡い微笑みは、話しやすい雰囲気をかもし出していて。
逆に、私の口は重くなってしまった。
「……やっぱ、なんでもない」
ふいっと視線をテーブルに戻して、私は宿題を再開した。
本当は自室のほうが宿題ははかどるのだけれど、私は一つのことに集中すると他が見えなくなることがある。
適度に休みを入れられるようにと、時々こうして居間で勉強するようにしている。
これは季人と伯母さん、二人からの提案だった。
「どうしたの? 逆に気になるんだけど」
「別に」
数式に向き合いながら、私はそっけなく返す。
季人から目をそらし、脳裏のもやもやからも目をそらすようにして。
「咲姫」
優しく、けれど有無を言わせない響きを持った声で、名前を呼ばれた。
それでも顔を向けずにいると、大きな手がこちらに伸びてきた。
あたたかなぬくもりに両頬を包み込まれ、目と目を合わせられる。
色が変わりかけたどんぐりのような、緑混じりの茶色の瞳が、優しく私を見つめている。
全部話してごらん? とその瞳は言葉なく告げていた。
何も気にすることなんてない。何も心配することなんてない。全部受け止めてあげるから、と。
昔から、季人には隠し事ができた試しがない。
最後のあがきとばかりにしかめっ面を作るけど、笑い返されてしまえば眉間のしわを維持することは難しくなる。
「……ゲームの季人の一人称って、なんだったの?」
仕方なく、私はため息と共に質問を投げかけた。
私の問いかけに、季人の笑みが困ったようなものに変わる。
聞かれたくなかったことなんだって、それだけでも充分にわかった。
でも、いつかは聞かれるだろうとも思っていたのかもしれない。
驚くことなく、ためらうことなく、季人は口を開いた。
「『僕』、だよ」
やっぱり。
私は自分の予想が当たっていたことを知る。
彩ちゃんの言葉を思い出す。
『ゲームのキャラを壊さないようにがんばった』と、彼女は言っていた。
私にはその感覚はわからなかった。乙女ゲームどころか、ストーリーのあるようなゲームをしたことがほとんどなかったから。
でも、季人は?
季人も彩ちゃんと同じ転生者だ。ゲームの中の『立花季人』に対して、何か思うことはなかったのだろうか。
そんなことを考えていたら、気づいてしまった。
もしかしたら、季人は彩ちゃんとは逆なのかもしれない、と。
「高校生になって、季人が一人称を変えたのは、ゲームと一緒なのが嫌だったから?」
そう。中学生のころまで、季人の一人称は『僕』だった。ゲームと同じ。
一人称が『俺』になったのは、高校生になってから。
いきなり一人称が変わったことに、当時の私はけっこう驚いたから、覚えている。
そのとき季人は、『心境の変化』とでも言っていた気がするけれど。
今思うと、その心境の変化とは、ゲームの記憶を思い出したことによるものなんじゃないだろうか。
「うーん、嫌っていうのとはちょっと違うんだけど」
季人は迷うように言葉を切り、口元だけに浮かべていた笑みを消した。
いつも微笑んでいる彼が無表情になると、それだけで私は不安になってしまう。
伏せた瞳に映っているのは、前世だろうか、ゲームの記憶だろうか、過去だろうか。
色よりも深いものがそこにはあるような気がして、私はじっと見つめた。
「自分で選んできたはずのものがさ、もしかしたら最初から決められていたものなのかもしれないって。自分は知らないうちに他の何かによって動かされていたのかもしれないって。そう思うのは、恐怖じゃない?」
季人の言うことを、季人の気持ちを、真に理解することはきっと私にはできない。
前世の記憶がないから。そういったゲームをしたことがないから。
乙女ゲームというものを知らなくて、よかったのかもしれない。
記憶がなくても、もしもどんなゲームか知っていたら、いい気はしなかったはずだ。
決められた設定が、決められたストーリーが存在する、ということがどういうことなのか。
想像がついてしまえば、吐き気をもよおすほどの嫌悪感がわくだろう。
学校に行くことすら嫌になっていたかもしれない。
「普通に考えて、怖いし気持ち悪いし許せない」
「咲姫ならそう言うと思った」
理解が及ぶ範囲で素直に答えると、季人はくすっと笑みをこぼした。
とたんにどこか重みのあった空気が霧散して、私は少しほっとしてしまった。
自分から聞いたのに、怖かったのかもしれない。
季人は、私に自分の弱さを見せようとはしないから。
心の傷つきやすい部分を、ごく一部でもさらされるのは、ある種の緊張感を伴う。
それはきっと、私にとって季人が、誰よりも傷つけたくない人だから。
……誰よりも、嫌われたくない人だから。
「前世は前世、ゲームはゲーム、現実は現実。ちゃんとそう思ってるよ。でも、何かはっきりとした違いを作っておきたかったんだよね」
季人の吐露に、私は一つうなずくだけにとどめる。
そういうことだろうな、という気はしていた。
柔和な顔立ちと優男的な風貌に騙される人も多そうだけれど、季人はプライドが高い。
それは威張り散らしているという意味ではなく、きちんと自分というものを持っているということだ。
頑固で、自分の考えを曲げようとはしない。
人の意見にも耳を傾けるけれど、なんでもかんでも人の言葉に従うことをよしとしない。
だから、彩ちゃんと同じことは考えないだろうと思った。
彩ちゃんが自分を持っていないということじゃない。
彼女もちゃんと自分をしっかりと持っているけれど、季人みたいな頑固さはない。柔軟な思考を持っている。
そして、人に合わせること、協調性の大切さを知っている。
季人や私にはない美点だ。
あとはそう、彩ちゃんのほうが季人よりもひねていないから、というのも大きいかもしれない。
「……いいの?」
「何が?」
言葉の足りない問いかけに、季人は問いを返してくる。
でも、私が何を聞きたいのか、きっと季人はわかっている。
「ゲームと同じは、嫌でしょ? なのに、ゲームと同じように私のサポート役をしてて、いいの?」
『立花季人は、サポートキャラクター』
それを最初に教えてくれたのは季人だ。
咲姫の役に立てるなら、喜んでサポート役になる、と。
私はその言葉に大して疑問を持つことなく、提案を受け入れた。
でも、本当にそれでよかったんだろうか。
季人に無理をさせていたりはしないだろうか。
従妹として、ともすれば実の妹のように。
季人に特別にかわいがられているという自覚はある。
だから、私のためなら季人は多少の無理を通してしまいそうで。
負担になっていないか、心配になった。
「それとこれとは、別」
季人の唇が笑みを刻む。
私の心配も不安も包み込んで、そっとほどいてしまうように。
「咲姫が困るとわかってて何も行動しないわけにはいかなかったし。この世界がどこまでゲームに近いのか興味もあったから、趣味と実益を兼ねてたし。何より咲姫のサポート役を他の誰かに取られたくなんてないし」
頬に添えられていた手が、産毛をなぞるように優しく頬をなでる。
私の頬と同じかそれ以上にあたたかい手は、宝物に触れるみたいに慎重で、雛鳥をあたためるみたいに慈愛に満ちていて。
季人の言葉が嘘じゃないことを、私に教えてくれた。
「俺はね、咲姫を手助けできる立場でよかったって、本心から思っているんだよ」
甘い甘い言葉が、じんわりと心の奥深くまで染み渡っていく。
うれしいとか、季人は優しすぎるとか、言いたいことはたくさんあるけど。
チョコレートフォンデュみたいに、ずぶずぶと沈み込みたくなってしまう。
「咲姫が気にすることなんて何もない。今までどおり、遠慮なく頼ってよ。甘えてよ。ちゃんと応えるから」
季人はどこまで私を堕落させれば気がすむんだろうか。
際限なく甘やかして、まるまると太ったところを食べる気なんだろうか。どこぞの童話の悪い魔女のように。
こんなことを言われて、こんなふうに微笑まれて、甘えずにいられる人間がいたらお目にかかりたい。
その手を振り払えるほど私は強くないし、全部身をあずけてしまうほどには弱くない。
今のところはなんとか、自分でバランスを取ってダメ人間にはならずにいられている、と思いたい。
「……もっと甘えたくなるようなこと言うな、バカ」
「別にそれでいいのに」
照れ隠しに悪態をついても、くすくすと笑われてしまう。
私が何を言ったって、季人は無制限甘やかしをやめてはくれない。
人に甘えるのがそんなに得意じゃない私が、不満をためすぎずにいられているのは、季人の甘やかし癖のおかげだ。
私が折れそうになったときだって、季人は傍にいてくれた。ぬくもりをくれた。
いつだって私は、季人の優しさに支えられてきたし、救われてきた。
「私も、季人がサポート役でよかったよ。すっごく助かってる」
頬に触れる季人の手に、手を重ねる。
ちゃんと、感謝の気持ちが伝わるようにと、願いながら。
季人が私にくれたように、私も真心を返したい。
「ありがと、季人。だいすき」
まるで愛の告白のように、私は想いを込めて言葉を紡いだ。
こんなに素直に好意を伝えるなんて、何年ぶりだろう。
もしかしたら小学生以来かもしれない。
季人は目を見開いて数秒固まり、それから視線をそらして、ため息をついた。
「反則だ……」
とかなんとか言っているけど、頬が赤く染まっているから、照れているだけだろう。
こんなめずらしい反応が見られるなら、素直になってみるのもいいものだな、なんて。
ちょっとしたいたずら心が芽生えたのは、内緒だ。
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