27:蓮見蛍とアルト声の先輩

 期末テスト二日目。

 午前中でテストが終わって、私はそのまま帰ることなく裏庭にやってきていた。

 ベンチだとかシャレたものはないけれど、地面から三十センチ程度の、座るのにちょうどいい段差が壁際にある。

 この学校はマラソンの周回コースで裏庭を通らないから、人の手の入っていない裏庭はとても静かなものだ。寂れていると言ってもいいくらい。

 ここで昼休みや放課後に本を読むことをたまの気分転換にしていた。

 まだテストは終わっていないけれど、一番苦手な英語のテストが終わって気が抜けたので、少しだけここで休んでから帰ろうと思ったのだ。


 いつも座っている、ちょうど音楽室の外にあたる段差に座り込む。

 最近読んでいるのは軽いノリのコメディだ。頭を使わない話は、勉強に疲れた頭をほぐすのにもってこいだった。

 いくらもページが進まないころに、その声が耳に届いた。


「蛍くん、誕生日おめでとー!」


 少し遠くで響く女子生徒の明るい声。

 それを判別できてしまったのは、ひとえにその名前に聞き覚えがあったからだ。

 蛍、という名前はそこまでめずらしくはないかもしれない。

 けれど私は季人から聞いて知っている。

 攻略対象の名前は、全員この学校で誰とも被っていないのだと。

 そして決定的なのは、蓮見蛍の誕生日は、正しく今日、七月九日なのだ。


「ありがと、美里チャンに祝ってもらえるなんてうれしいな」


 チャラけた感じの男の声。

 初めて聞く声だけれど、それが攻略対象の一人、蓮見蛍のものだとすぐにわかった。

 女子を名前にちゃんづけで呼ぶことも、事前の情報どおりだ。


「またまたー、知ってるよ? 教室でもたくさんプレゼントもらったんだって?」

「そんなでもないよ。みんな優しいからお祝いしてくれただけ」

「蛍くんは本当に人気者だからね」

「美里チャンはプレゼントくれないの?」

「えー、どうしよっかなー」


 女子はもったいぶっているけれど、この流れだとどうせプレゼントを用意しているんだろう。

 ナンパな性格の蓮見蛍は女生徒、特に同い年である二年生に人気がある。美里という女子もたぶん二年生だ。


「その後ろに隠したものがオレへのプレゼントなら、すっごくうれしいんだけどな」

「しょうがないなー、はい!」

「これ、手作り? ありがと。マジでうれしい」

「食べてお腹壊さないようにね!」


 それだけ言って、女子が去っていく軽い足音が聞こえた。

 手作りということは、クッキーかカップケーキか何かかな、と私はあたりをつける。

 よくおモテになるようで、と本に目を戻しながら内心で皮肉った。


 このときの私は油断していた。

 なぜ、こんなところに蓮見蛍がいるのか、ということを考えるのを忘れていた。

 ここは裏庭に面している。つまり奥まったところにある。

 近くに教室はなく、さらに言えばちょうど私が座っている場所は音楽室の窓の外。

 あの女子は、蓮見蛍を探して駆け回っていたんだろう。

 そうして、ここに向かっていたところを見つけた。

 なら、蓮見蛍はこんなところにどんな用事があったのか。

 それに気づくことのできなかった私は、ひどく心臓の悪い思いをすることになる。


「やあ、センパイ」


 ガラリ、とドアを開ける音と一緒に入ってきた蓮見蛍の声。

 声が、明らかに近くなった。

 そのことに私は本を取り落としそうになるほどに動揺した。

 私の頭のすぐ上の窓の中。音楽室から、彼の声は聞こえてきた。

 やばい、近すぎる。窓だって開いているのに。

 まさかピンポイントにこちらに向かってくるとは思っていなかったから、逃げ遅れた。

 今から逃げようとしたら、気づかれる可能性もある。

 身動きが取れずに、私は固まるしかなかった。


「あれ~、どうしたの? いつもより不機嫌そうだね」

「君がうるさくするからでしょう」


 機嫌をうかがうような蓮見蛍の声に、答えたのは涼やかなアルトの声。

 センパイ、と蓮見蛍が言っていたんだから、三年生だろう。

 どうやら私がここへ来るよりも先に、誰かが音楽室へとやってきていたらしい。

 たまに音楽室から聞こえてくるピアノの演奏をBGMにしながら本を読んでいたけれど、もしかしたら、それを弾いていたのは彼女なのかもしれない。


「ごめんね、聞こえてた? それともオレの声だから聞き耳立ててくれてたのかな?」

「そんなわけないでしょう」

「なぁんだ、残念。少しくらい妬いてくれてもいいのに」

「どうして私が……」

「ははっ、センパイ怖い顔。機嫌直してよ、これあげるから」


 カサリ、とビニールがこすれるような音がする。

 蓮見蛍が今手に持っているものというと、先ほど女子からもらった手作りの何か、だろうか。


「……蓮見くん」

「人からもらったものでしょう、って? センパイはホント真面目だなぁ」

「受け取ったなら、ちゃんと食べてあげないと。いらないのなら最初から受け取るべきじゃないわ」


 蓮見蛍が言うように、先輩は真面目な性格をしているようだ。

 まあ、私も先輩と同意見だけども。

 季人から聞いていた事前情報でわかっていたことだが、やっぱり蓮見蛍は好きになれそうにない性格をしている。

 そんな蓮見蛍にかまわれるアルト声の先輩に同情したくなった。


「そういうもん? 受け取ってあげれば、とりあえずは喜ぶでしょ。プレゼントなんて自己満足なんだし。贈ったあとにどうなったのか、知らなきゃ幸せなままだよ」

「……本当に君はひねくれてるわね」

「そうかな? かわいい後輩でしょ?」

「全然かわいくない」


 うん、かわいくない、と私も思う。先輩とは気が合いそうな気がする。

 会話を聞いているかぎり、どうやらこの先輩、蓮見蛍のことをあまりよく思っていないみたいだ。

 いくら蓮見蛍がモテるといっても、女子全員から好意を寄せられているわけじゃないのは当然と言えば当然か。

 真面目な性格なら、チャラチャラした蓮見蛍より、生徒会長なんかにあこがれたりするものかもしれない。もしくは、学園の王子サマの百合川陽良。

 顔で選んだりせずに、じっくり内面を知ってから惚れるタイプという可能性だって充分にある。


「で、センパイは? プレゼント、くれないの?」

「どうして私がプレゼントを用意しなくちゃいけないの」

「そりゃあ、かわいい後輩のために、プレゼントの一つや二つあっても当然かなって」

「ありません」

「えー、ショック」

「そんな顔しても騙されないわよ。今日、たくさんもらったんでしょう? 私からなんていらないでしょう」

「わかってないなぁ、センパイ」


 そこで、ガタンッと音がした。

 何があったのかは窓の中を見ることのできない私にはわからない。

 たぶん、椅子に座っていただろう先輩が体勢を崩したか……崩させられたか。

 そう予想してみるものの、二人がどういう体勢になっているのか、想像がつかない。


「オレは、センパイからのプレゼントが欲しいんだよ」


 トーンを落としたその声は、彼らしくなく真剣で本気なものに聞こえた。

 蓮見蛍は女ったらしのチャラ男。そういう設定だと季人から聞いていたし、実際に学園で聞く噂もそんな感じだった。

 こんな声を出す男だとは、思ってもいなかった。

 これは……もしかするともしかするのかもしれない。


「本当は、いつもみたいに一曲聴かせてくれればそれでいいかなって思ってたんだけど、やっぱり、プレゼントちょうだい」


 甘く優しく艶やかな、聞いているだけで恥ずかしくなるような声音。

 間違いなく、異性を口説くときのそれ。

 蓮見蛍は、今、アルト声の先輩を口説いている。

 蓮見蛍は……先輩のことが、好き?


「……ありません」

「うん、だから勝手にもらうよ」


 勝手にって、何をもらうつもりなんだろうか。

 音楽室の中の気配を探るのにも限界がある。

 音しか聞こえないんだから、想像力を働かせるしかない。

 耳を澄ませる私の鼓膜を揺らしたのは、ちゅ、という本当にかすかな高い音。

 それがなんの音なのか、すぐには理解できなかった。


「はっ、蓮見くん!!」

「あはは、センパイ真っ赤。かわいい」

「じょ、じょ、冗談は……」


 やめなさい、と言うアルト声にはさっきまでの涼やかさなんて欠片もなく、動揺で上擦りまくっていた。

 どうやら蓮見蛍は先輩にキスをしたらしい、と先輩のあわて具合でやっと気づいた。

 どこに、だろうか。唇にだったら大問題だ。

 頬や額だったとしても、相手が嫌がっていたならセクハラ以外の何物でもないけれど。

 先輩の声からは、動揺や混乱しか感じ取れない。

 嫌、というわけではないのかもしれない。


「冗談じゃないんだけどね。これ以上はセンパイが困るだろうから、今日はこれで帰るよ。プレゼントも貰ったことだし」


 声と共に遠ざかっていく足音が響く。

 それから、ガラリ、と彼が入ってきたときと同じように、ドアを開ける音。

 蓮見蛍は長居をするつもりはないらしい。

 賢明な判断だと思う。今の先輩とではろくに会話も成立しないだろう。

 それもこれも全部、蓮見蛍自身のせいだけれど。


「じゃあね、真由センパイ」


 甘ったるい声で、蓮見蛍は別れの挨拶を告げる。

 またすぐ会おうね、と言っているようにしか聞こえなかった。

 静かにドアが閉められる音。

 足音が小さくなっていって、完全な静寂が戻ってきた。


「……もう、充分困ってるわよ……」


 ぽつり、というそのつぶやきを、私の耳は拾ってしまった。

 どうやら真由先輩は、蓮見蛍にほだされつつあるようだ。

 真由先輩が平常心を取り戻す前にと、私は気づかれないようその場を離れた。

 誰にも見つかることなく裏庭から無事に去ることができて、私はほっと息を吐く。

 攻略対象とニアミスしたからか、他人の恋路を覗いてしまったせいか、今もまだ胸がドキドキしている。

 それほど長い時間ではなかったはずなのに、どっと疲れていた。


 教室に戻って帰る支度をしながら、考える。

 蓮見蛍は、攻略対象。けれどプレイヤーキャラクターではない女生徒のことが好き。

 女ったらしという事前情報があるから心配ではあるが、会話を聞いていたかぎりでは、蓮見蛍は本気で真由先輩に恋をしているように感じられた。

 萩満月が弥生ちゃんに片思いしているかもしれない、という確定ではない情報もあるから、もしかしてとは思っていたけれど。



 この世界は、警戒していたほどには、元の乙女ゲームどおりに進んでいないんじゃないだろうか。

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