5. 船底の虜囚

「次、甲板をモップがけしてこい!」

「へーい」


 航海に出てから1週間、ようやく便所以外の掃除も任されるようになった。

 いや、仕事が増えただけなので、嬉しくはないのだが……あの臭い匂いにも、すぐに慣れたし、黒い肉棒も、今は何のためらいもなく食べれるようになった。辛いという感情はどこかに行ってしまったんだろう。たった一週間ではあったが、これが日常……そう割り切れるくらいにはなってきた。


「父上が言っていた、本当に怖いのは人だっていう言葉は、こういう事だったんだろうな」


 冒険初日に誘拐されてしまった僕は、自分の体験から経験値へフィードバックする間も無く、船奴隷としてのスキルを上げる毎日となってしまった。鎧の防御力に護られているとはいえ、ほんの少し先は助かる保証なんて万に一つも無さそうな海だ。この1週間、陸地どころか島影すらお目にかかる事が出来なかった。


「はぁー、でも希望は捨てずに頑張るか」


 チャンスは、陸地に上がって鎧が剥ぎ取られるまで。


 相変わらず、顔を合わせれば船長には殴られている。

 4歳という軟弱な身体が、この過酷な状況に耐えられているのは、船長に対して絶対的な防御力を誇ってくれている、この赤い鎧があるからだ。これを脱がされてしまったら、そこが本当の終着地点となる。


 それでも、夜眠りに落ちる前の、ほんのすこしの時間。

 僕は4歳児らしく母を想い、涙をこぼしていた。


 中身が30歳を超えた中年だという意識が残っており、どこか、他人事として自分の置かれた現状について考える事が出来ているから、何とか持っているが、僕の中で実社会とつながっているシャルルとしての大部分は、この抜け出せない地獄に対し、感情をすり減らしている。


 どこかで堰が切れれば、僕は精神的に死んでしまうだろう。


 もし心というものがあるのなら、間違いなく、シャルルの心と『俺』の心は不可分な存在である。シャルルの部分という表現をしてみても、それはどこか冷静な『俺』の部分と、感情的なシャルルの部分という事に過ぎない。


 『僕』は全力で子供だし、『俺』は間違いなく30歳を超えたおっさんだ。


 唯一の救いは、それでも暗い夜はいつしか終わり、朝が来る。

 どんな夢を見たかは、朝起きるといつも忘れてしまうのだが、毎朝、温かい気持ちで目が覚めるので、きっと良い夢なのだろう。


 朝起きて、仕事をして、幸せな夢を見るためだけに生きる。


 甲板にしゃがみ込み、こびりついた汚れをブラシで擦りながら、そんな思いに沈み込んでいた僕を、突然鳴り響いた鐘が現実に引き戻した。


----- * ----- * ----- * -----


 カーン! カーン! カーン!


 甲高い鐘の音が船中を響きわたった。


 上甲板にある船長室の扉が開き、船長が海賊らしからぬ全身、銀色の鎧姿という完全武装で出てきた。


「野郎ども! 準備しろ! お楽しみの時間だ!」

「ぐぉぉぉぉぉん」


 シャガレた大きな声に応えるように、船底から低い呻き声が響いてきた。


「へっ?」


 そういや、結局、この1週間、毎日誰かのう◯この後始末はしていたが、親方と船長以外、会っていなかったんだよな。下甲板の船室のどこかに、たむろしているような気配はいつも感じていたので、変だなとは思っていたけど、初めて、二人以外の声を聞いた気がする。よかった。やっぱり人は乗っていたんだ。


 ちょっと、変な唸り声だけど……


「野郎ども、叫べ! 吠えろ! お前らの股間についたものを滾らせやがれ! 待ちに待った狩りの時間だ! 」


 その瞬間、風も吹いていないのに船の速度が上がった。

 そしてその進む先には……


「豪華客船? タイタニック?」


 豪華客船といえばタイタニック。そんな刷り込み世代の僕だったが、そんな事を言っている間もなく、僕が乗っている小汚ない海賊船とは大違いの、大きくて豪華な帆船が、ぐんぐんと大きく近づいてきた。


「ぐぼ! ぐぼ! ぐぼ!」


 こもったうな声が何度も何度も船の底の方から響き、そのたびに船足はどんどん早くなっていく。


「こ、このままじゃ……」


 ぶつかって、船ごと木っ端微塵になりかねない。

 こちらの船の動きに気がついたのか、帆船の方で何やら人がバタバタと慌ただしく動いているのが見て取れるようになった。


「全力停止! 接舷、速度を合わせろ!」


 船長が叫ぶ。

 全力停止? 


 聞いたことも無いような四字熟語が飛び出した瞬間、海賊船は滑るように帆船の真横に並び、接舷し、帆船の速度に合わせて並走を始めた。


「ショウタァァァァイム!」


 そして船長のシャガレた声がもう一度、船の中に響き渡った。


「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」


 その声に合わせたかのように、下甲板や上甲板にあるドアというドアが開き、


「ひ、ひぃ……」


 どこから湧いたのか、真っ黒でドロドロとしたヘドロのような、人型・・の塊が次々と湧き出てきた。


「敵襲! 敵襲!」

「迎え撃てー!」


 呆然とする僕を無視し、無数のヘドロ達は次々と帆船にへばりつき、這い上がっていく。


「あれが……他の船員?」


 帆船に飛び込んだ真っ黒なヘドロ達は、そのまま戦闘を始めたようだ。直接は見えないが、激しい戦闘のような音が響き渡る。


 だが、ぼくはそんな喧騒よりも、船から出てきたヘドロ達の姿が頭から離れなかった。


 (あんな得体のしれないものの排泄物を毎日掃除していたのか?)


 そんな事を考えた瞬間、全身に震えが走り……


「う、うっぷ」


 腹から何かがこみあげて来た。


「うっうっ、おえぇぇ」


 大したものを食べていないはずなのに、僕が口から噴き出したのは、驚くべき量の吐瀉物だった。

「ま、まさか……」


 僕は自分の吐き出したものを恐る恐る見つめた。

 僕は毎日、朝晩と真っ黒く焼け焦げた、よくわからない肉を食べていた。

 今朝も食べたばかりだ。多少、消化をしているとは思うが、僕の吐瀉物には固形物が一切含まれてはおらず、そこにはタールのような液体が……そう、それはまるで、今船室から飛び出してきた、あのヘドロの人型の黒色と同じ……


「親方ぁ!」


 僕は悲鳴のような叫び声を上げ、毎日、僕に肉を運んでくれた親方を探す。……いた!


 親方は上甲板の船長室の前で、帆船を凝視しながら、叫んでいた。


「いいぞ! いいぞ! いいぞ! ははは! 壊せ! 滅ぼせ! 全て殺しちまえ!」

「親方……」


 壊れてやがる……

 親方の白く濁った目は、完全にイッちゃっている人の目だった。

 口は半開きでヨダレを垂らし、片方しか無い腕を振り上げて叫んでいる。そして、


 ドッカーン!


 今度は帆船の方から物凄い大きな音が鳴り響いた。

 大砲でも撃ち込まれたのか! 親方に気を取られていた僕は、音のした方を見ると……


「そんな……どうやって……」


 僕の視線の先、並走している帆船の横っ腹に、直径3メートル程の穴が空き、そこから大量の水が帆船の中へ流れ込んでいた。その奥で、いつの間に移動したのか、船長が腰に下げていた曲刀を振り回し暴れているのがチラっと見えた。


 その頃には帆船から聞こえていた戦闘の音もしなくなっていた。


----- * ----- * ----- * -----


 帆船は一方的に蹂躙され、沈黙した。


 船長は、流れ込む大量の海水をものともせず、暴れるだけ暴れ、帆船にいくもの大穴を明け、最終的に帆船のマストを吹き飛ばし、二人の気絶した女性を抱え戻ってきた。


 ヘドロ達が、帆船から帰ってきた様子はなかったのだが、いつの間にか下甲板からも先程までなかった誰かがいるような気配が溢れてきた。僕が気が付かなかっただけで、仕事を終え、戻ってきたという事なのだろう。


 そして、


「ガロ! いつもの通りに放り込んでおけ!」

「はい」


 船長が抱えていた二人の女性を放り出した。

 船長室の前でヒャッハーな状態に陥っていた親方は、その言葉で正気に戻り、二人の女性を片腕で軽々と持ち上げ、下甲板の船室に降りていった。


 やがて海賊船は、帆船から次第に離れ始めた。帆船は船長が空けたと思しき船腹の穴から流れ込んだ海水のせいで、こちらの方へ斜めに傾いていた。おかげで、下甲板の縁によかっかり、呆然と事の成り行きを見ていた僕の場所からも、上甲板の様子が見えるようになってきた。


 船の大きさに比例して、とても大きな甲板には、船腹と同じように、いくつもの大きな穴が空いていた。そして、その周りには、何人もの人が血を流しながら倒れている。ところどころに腕や足などの身体の一部が転がっているので、戦闘の結果、倒された船員とかなんだろう。全く動かない人がいる一方、まだ腕や足を少し動かしている人もいたし、大した怪我をしなかったのか、傾きを強める船の縁に掴まり、必死にこちらに助けを求めているのか、手を振っている人もいた。だけど……


(沈む……あれじゃ、助からない)


 彼らもこのままでは、自分たちを襲う悲劇を理解していたのだろう。自分たちを攻撃してきた海賊船にも関わらず、必死に手を振っている。

 だが、それすらも出来ず、血を流しぐったりとしている人の表情には、諦めにも似た「絶望」という2文字が刻み込まれているように思えた。


 海賊船と帆船の距離は、どんどん離れ、人の顔も判別できなくなった。やがて、帆船は米粒のように小さくなり……水平線の向こうへ消えた。


 僕は帆船の結末を見ずに済んだ事にほっとしていた。


----- * ----- * ----- * -----


 僕の仕事が増えた。


 朝起きると、バケツに入った排泄物を片付け、最下甲板の便所を磨き、下甲板の床をブラシで擦る。この作業に加えて、最下甲板のもうひとつ下層。船底にあたる部分にある空間に押し込められた二人の女性へ、食事を運ぶという仕事が増えたのだ。


 僕は親方から掃除の後、黒い肉棒の入ったバケツを受取り、最下甲板に向かう。このバケツは、排泄物が入っていたバケツじゃないよな。そのくらいは親方を信じたい。


 最下甲板まで降りると、便所と倉庫をつなぐ通路の脇の床に何枚もの鉄板がある。大きなネジで最下甲板に固定されているのだが、そのうちの一枚だけ、把手がついていて動かせるようになっているのだ。それを精一杯の力を入れて横にずらすと、船底にある区画のうちの一つへアクセスが出来る。


 船底の区画は、浸水時に一気に沈まないように、いくつもの密閉された空間に分断されていて、一箇所穴が空いたくらいでは、喫水線が下がるくらいで済むように設計されているのだろう。これは昔流行したタイタニックの悲劇を描いた映画で知った知識だ。


 そして、この鉄板が、穴が開いた場合用の点検口になっているみたいだ。


 そして、その一つに現在、虜囚となった2人の女性が閉じ込められているのだ。よく酸欠でしなないなとも思ったが、所詮、木で造られた船なので、空気が抜ける隙間くらいは空いているんだろう。


「食事を持ってきました」


 鉄板をずらし、船底に向かって、そう呼びかける。


 この状況には僕の立場からすると同情する所もあるし、せめて食器などに入れて、渡してあげたい所なんだが、ここには、船底に降りるための梯子すら無い。高さも2メートル以上ありそうなので、飛び降りたら、僕も戻ってこれない。そんな未来は嫌だ。


 仕方が無いので……


「落とします」


 そう言って、これまでと同様、僕はバケツの中身を船底にぶちまけた。

 まぁ、汁気のない肉なので問題無いだろう。


 水は初日に樽ごと降ろしておいたので、まだ持つはず。真っ暗な部屋に閉じ込められ、精神的に持つのかと心配にもなるが、餓えも渇きもしのげるし、そのうちヘドロの異形に変わってしまえば、そんな悩みも消えるじゃないかな。


 今や、僕の身体が全く受け付ける事の出来なくなった黒い謎の肉棒。


 僕の中では、黒い肉棒を食べ続けると、ヘドロの人型になる事は確定事項になっていた。親方に聞いた訳でもなく、あくまでも勘でしか過ぎないのだが、この直感は間違っていないと、僕は確信していた。


「ここを出しなさい!」


 船底から、少しシャガレ始めた若い女の子の声が響く。


 船底で虜囚となっているのは、10歳前後の女の子と、若い大人の女性の二人だった。薄暗い中でもはっきりと解る白い肌に大きな目を持つ金髪の女の子と、上品な顔つきながらも、けしからんオッパイを持つ優しそうな、やはり金髪の女性。


 毎日の反応を見る限り、偉そうに騒ぐのは女の子の方だけだったので、多分、主従関係かなにかにあるのだろう。


「臭いから閉めますね」


 無情に思われるだろうが、若い女性と女の子とはいえ、この狭く薄暗い空間に3日間、閉じ込めているわけだ。ちなみに、便所は無い。「何とかして欲しい……」という改善要求に、最初の食事の時にバケツは渡してあるけど、


「臭いって、ひどい……」


 僕の言葉にショックをウケたみたいで、大人の女性の方の表情が曇り、自分の服の匂いを少し嗅いで顔をしかめた。


 匂いを気にできるうちは、まだ心は折れていないみたいだ。よかった。

 初めて大人の方の女性の声を聴いたけど、柔らかくて美しい声だ。母上には敵わないまでも……僕の心が少し痛んだ。


「あなた! こんな事をしてただで済むと……」


 女の子が、もう一度叫んだ。


「僕は奴隷ですから……」


 僕はそういって、申し訳なさそうに頭を下げてみた。

 謝って済むような問題じゃないけど、僕に言われても困る。


「そんな立派な鎧を着て、そんな言い訳が通るとでも」


 確かに僕は赤い立派な鎧を身に着けている。

 どうやら、海賊の仲間と思われているみたいだ。


 それでも、


「僕は奴隷ですから」


 もう一度そういって、僕は蓋を閉めた。

 これで彼女たちは、また丸1日、光りも入らない船底で過ごすのだ……


 僕に出来る事は何も無い。


----- * ----- * ----- * -----


「あなた、まだ小さな子供でしょ! 親は? 海賊の子なの?」

「僕は奴隷ですから」


 次の日も、僕は女の子に声をかけられたが、オウムのように同じ言葉を返した。


「お嬢様、もうお止めに……」

「そんな訳にはいかない! 私は生きてここを出て、叔父様の所に!」


 そんな声が聞こえて来た。

 僕の推測通り、やはり主従関係があったみたいだ。


 推測があたったという事で、僕は二人に興味を持ってしまった。


 ただの虜囚、僕が毎日、食事を届けるだけの対象から、僕の中で一歩進んでしまった。

 まるで営業先の担当者と、個人的な会話を初めてするような時みたいな感覚に襲われ、僕は思わず、話しかけてしまった。


「お姉さんたちは、なんで帆船に乗っていたの?」

「!」


 今まで何を聞いても、同じ返事しかしなかった僕が、突然質問をしてきた事に驚いたようだが、それでも女の子の方がすぐに反応をした。


「私は……」

 

 一瞬言い淀んだが、すぐに、


「私は、アマロ公国の第4公女ソフィア・アマロです。すぐに私達を解放すれば、あなたの身の安全は保証するわ」


 と、交渉を持ちかけてきた。


「ごめんなさい。僕も奴隷なので境遇は似たようなものなんです。そもそもお二人を、ここから出す手段すら、持ち合わせていません」


 所詮、梯子すら無い状況で船底にいる二人を出すという事すら出来ない無力な幼児だ。ただ現実を受入れ、二人が黒く染まってヘドロになっていくのを、 眺めていくしか無い。


 トラブルになると解っている仕事であっても、誰一人、声高にそれを叫ぶことなく、「仕方ない」、そう言って毎日をやり過ごしたあの日々と同じだ。与えられた環境で、与えられた範囲で、やっていくしかない。


 のせいじゃない。


「本当にごめんなさい」

「あ、待って……」


 僕はもう一度そういって、少しでも興味を持った事を後悔しながら、鉄の蓋を閉めた。


----- * ----- * ----- * -----


 船底の蓋を閉めた僕は、下甲板の寝床に戻った。

 帆船を襲った日から4日が経過している。

 その間、僕は一切の飲食を拒否していた。というより、あの光景をみてから、一切の飲み物、食べ物を受け付けなくなったといった方が正しいだろう。


 食べる事も飲む事も出来ない以上、早晩、死ぬ。

 

 だけど、そんな恐怖よりも、あの人型のヘドロのようになるかもしれないという恐怖の方が勝ったのだ。僕はすでに、このまま衰弱して死ぬなら、それも悪くないという心境に達していた。


(だけど、不思議と平気なんだよな)


 すでに4日は飲まず食わずのはずなのだが、不思議とお腹は空かない。

 餓えと渇きに襲われる事もなく、むしろ徐々に元気が出てきたような気がする。


 まだ暗くはなっていなかったが、する事も無いからと寝床に横になり、そんな事を考えていた時、親方がいつものように夕飯の支給にやってきた。


「ほれ」

「はい」


 僕は受け取った黒い肉棒を、そのまま寝床の隅に置く。親方がその様子をチラっと見た気もしたが、特に咎められる事は無い。隅に置いた肉のストックも、これで7本目だ。万が一、餓えてどうしようもなくなったら、食べられるだけ食べてから、海に飛び込もう。そんな悲壮な決意のもとにストックを始めたのだが、さすがにそろそろ腐る前に処分しないと……


「いい女だったか?」

「はい?」


 いい女っていいました? この人は?

 僕は親方を凝視した。


 どう考えても、そんな事を言い出すようなキャラではなかったし、そもそも4歳児に聞くか? そんな事を。

 

 あの帆船を襲っていた時、ヒャッハーな感じでイッちゃってた姿を見ていた僕は、船長から最初の日、庇ってくれた親方に対して、心情的にかなり距離を取るようになっていた。


「船底は暗いから、そんなにはっきりとは見えませんでした」

「はっ、そりゃそうだな」


 そう言って、親方は木の杯を飲み干し、少しよろついた。酔っ払ってる?


「しかし、まだ若いのに勿体無い話だな……」

「そう……なんですか?」


 ヘドロになるから?


「この船は呪われているからなぁ。船長と俺の二人だけが永遠に……」


 語尾がよく聞き取れなかったが、とても不吉な言葉を聞いたような、


「なぁ、お前の鎧。相当な逸品だろ? 特殊効果がこれでもかと詰め込まれているのが、俺でも解るくらいだ。魔力増加とか、付与されているのか?」

「さぁ……」


 ここが魔法があるファンタジー的な世界だとはセリアから聴いているが、いまだ僕は見たことが無い。魔力と言われても、良くわからない。


「もしお前がその力を自在に扱えるなら……」


 そんな僕の反応にはお構いなしに、親方は片目しか無い濁った目を僕から逸し、遠くを見ながら……


「俺を殺してくれないか」


 そう呟いた。


----- * ----- * ----- * -----


「あ、あなた! お願い! カーラの様子がおかしいの!」


 次の日、僕は鉄の蓋を開けると、すぐさま中からソフィアが僕に呼びかけてきた。


「熱があるみたい。うなされていて……起き上がれないみたいなの」


 閉じ込められて5日目だ。

 そろそろ様子がおかしくなってもおかしくない。むしろ、子供のくせに相変わらず強気なソフィアの方が凄い体力と精神力なのだろう。子供だから柔軟だって事なんだろうか。


「ちょっと、親方にきいてみる」


 このまま衰弱させる事が船長の目的かどうかも解らないので、とりあえず上司にお伺いを立てるというのが基本だろう。


 僕は最下甲板から下甲板に上がり、親方を探した。


「親方! あ、いたいた。親方、下の女性が病気になったみたいで……」

「そうか」

「あ、あの……、どうしたらいいでしょうか?」


 放置するならするって言ってもらった方がすっきりする。

 だって、それだったらのせいじゃない。


 だけど僕のそんな思いとは別に親方は何も言わず、上甲板へ上がっていった。


「え、あ、あの……」


 こっちで考えろって事?

 ちょっと……さすがに人の生死に関わりそうな事の責任を取りたくないんだけど。


 無言で親方の背中を睨みつけていたが、上甲板の奥の方へ歩いていき……そして、すぐ戻ってきた。


「これを使え」


 親方はそういい、上甲板から僕に向かって、縄の塊を投げてよこした。

 これって……


「縄梯子?」

「そうだ」


 え、これでどうしろと……


「逃げろ」

「えっ?」

「俺はもう疲れた。あいつらを連れて、お前も逃げろ」

「逃げろって、どうやって……」


 そう僕が言うと、親方は上甲板のマストの奥にぶら下がっているボートを指差した。


 えーと、整理すると……


 縄梯子で、船底の二人を上に上げ、あの船長がいる船長室の前を堂々と通って、救命用の手漕ぎボートを降ろし、逃げろって事? 4歳児に女の子、ぐったりとした大人の女性だけで?? この島一つ見えない大海原に漕ぎ出せってか?


(ハードル高ぇー!)


 与えられたミッションの難易度に辟易としたが、それでも僕は、その言葉を聞いた瞬間に決まっていた。

 

 逃げ出す……と。


----- * ----- * ----- * -----


「お待たせしました」


 僕はソフィアに声をかける。


「あ、あなた! 何か薬でもいいから、カーラに……」

「今から梯子を降ろしますので、上がってこれますか?」

「出してくれるの?」

「はい」


 僕はそういって縄梯子を降ろした。


「カーラ、動ける……カーラ?」

「お嬢様、お嬢様だけでも上にあがってください」

「何言っているの。あなたを治療してもらうために、上にあがるんじゃない」

「い、いえ……これが最後のチャンス……です。上にあがって、彼を倒して……逃げてください」

「そんな! カーラ、あなただけを置いて逃げるなんて、出来るわけないでしょ」

「ソフィア・モルガーヌ・バルゲリー・アマロ! あなたは私達公国市民全ての希望なのです! 一時の感情に左右されてどうしますか!」

「カーラ……」

「解ってくれましたか?」

「はい」

「それでこそ、私の大切な生徒 ソフィア様です」

「カーラ……」


 え、えーと……


 僕を倒すって言っている辺りも含めて、全部聞こえてます。


「あのー」

「はっ! 今のを聞いていた?」

「はい……できれば、もう少し小さな声で相談した方が……」

「くっ、最後のチャンスだったのに……」


 カーラさんも、息絶え絶えに悔しがっているけど、


「いえ、あのー、大丈夫です。梯子を降ろしたのは、今から脱出しましょうと、言うつもりだったので」

「はい?」

「へ?」


 そんな、変な顔で僕をみつめないでほしいな。


「脱出するんですよ。3人で」

「あなたも? 一体、どういう風の吹き回しなのかしら?」

「ええ、僕も似たような境遇だって言ったじゃないですか。逃げ出すなら、どうやら今っぽいんですよね。多分、お二人にとっては最後のチャンスだと思いますよ」


 衰弱が始まったという事は、ヘドロに向かって一直線かもしれない。


「どうします?」


「お嬢様……」


 僕の問いかけにカーラは一瞬、逡巡したようだったが、


「……行くわ。たとえ、悪魔の誘いだとしても、行くしかない。ここで朽ち果てるくらいなら、足掻くだけ足掻いて、死んでやる」


 ソフィアは、すぐさま覚悟を決めたみたいだ。

 でも、このままだとカーラさんが動けそうに無いな。


「えーと、ソフィア……公女様?」

「敬称はいらない。ソフィアでいいわ」

「えーと、ソフィア……さん。カーラさんの身体に縄梯子を巻きつける事は出来ますか」

「わかった」


 ソフィアがカーラさんの身体に縄梯子をぐるぐると巻きつけた。


「僕だけで引っ張るのは無理なので、ソフィアさんが先に上がって、一緒に引っ張り上げてくれますか」


 こくりと頷き、ソフィアが上がってきた。カーラさんに巻きつけたおかげで、縄梯子が安定して、思ったより簡単に昇れたみたいだ。ソフィアと一緒に、ふわっとえた匂いが上がってきたが、そこはサラリーマン時代に鍛えたスルースキルで無視をする。


 最後に僕が手を貸し、ソフィアは5日ぶりに船底から出てくる事が出来た。明るい所でみると、金髪は、バサバサになっていて、薄汚れてしまっている。顔のあちらこちらが汚れているし、服も船底の湿気からが、べったりとしている。ソフィアは年頃の可愛さと言うよりも、少しキツめの美少女だったので、薄汚れたこの姿は、何だか背徳的だ。


 匂いがなければ……だけど。


「ありがとう、えーと……」

「シャルルです」

「ありがとうシャルル。こうして見ると……本当に子供なのね。何歳?」

「4歳です」

「そう。でも、受け答えもしっかりしてるわね。どこかの国の貴族かしら」

「えーと……よく解らりません」


 父上は領主だし、母上は元王女だったらしいけど、貴族かどうかは知らないな。ある程度の金持ちだとは思うけど……


「そう……可哀想に」

「それじゃ、カーラさんを引き上げましょう」

「そうね。……カーラ、今から引き上げるわ。少し痛いかもしれないけど、我慢して!」

「いきますよ。いっせいのー」


 ふん!

 力を入れて踏ん張った。


 ここで問題です。

 10歳くらいの女子の平均体重+4歳の男のの平均体重と、大人の女性の平均体重を比較した場合、どちらが重いでしょうか?


 ち、ち、ち、ち、ぶぶー。 タイムアップです。


 僕は、精一杯力を入れながら、こんな自問自答していた。

 

 一体、どっちが重いんだろう。

 というか、この2人でいくら引っ張っても、ぐったりと脱力をしてしまっている大人の女性を引き上げる事なんて無理なんじゃないか?


 ドサ!


 とうとう二人は力尽き、縄梯子を離してしまった。

 カーラが軽く床に叩きつけられる。


「え、あ……ふぅ……落ちる所だった……あ! カーラ、大丈夫? 痛くなかった?」

「は……くっ……はい、大丈夫です」


 力が弱いせいで、ほとんど浮いていなかったのが幸いした。怪我はしていないみたいだ。


「シャルル、どうしよう。私達ではカーラを引き上げる事が出来ない」


 ソフィアが大きな目に涙を少し浮かべ、僕のことを見つめた。さっきまで気丈に振る舞っていた美少女はどこにいった。それに、幼児に頼られても……


「滑車も無いし、何か方法は……」


 僕は改めて船底を覗き、カーラの様子を見る。

 高熱のせいか、息がぜいぜいと上がってしまっている。


(見捨てるか)


 そんな声が僕の心の中で湧き上がった。


(無理だな)


 そう、関わってしまった以上、見捨てるというのも寝覚めが悪い。ここを出て助かるかどうかも解らない今だが、もし助かったりしたら何年先までも後悔の念にうなされそうだ。


「どれ、俺が手伝ってやろう」

「ひっ」


 僕が悩んでいる後ろから親方の声がした。

 ソフィアが息を呑む。


「坊主、どいてみろ」

「はい」


「ふん!」


 親方は縄梯子をつかむと、一気に引き上げた。

 片腕片足というハンデがあるのに、物凄いパワーだ。


「ほれ」

「カーラ!」


 親方は丁寧にカーラさんを床に置くと、ソフィアが駆け寄り身体に巻き付けている縄梯子を外した。


「親方、どうして?」

「ああ、どうしてだろうな。俺にもわからん。ただ……」


 それっきり親方は黙ってしまった。


----- * ----- * ----- * -----


 僕とソフィアがカーラさんの両側を支える形で下甲板まであがっていった。

 外はまだ真っ昼間だ。


「ま、まぶしい……久しぶりの太陽……」


 ずっと閉じ込められていたせいか、すぐには目が慣れないみたいだ。

 早く逃げ出さないとと、気は急くが、目を開けられないような状態ではどうしようも無い。直射日光が当たらない上甲板へあがる階段の陰で、少し休んでいた時、そいつが出てきてしまった……


 そいつは僕たち3人を一瞥すると、その後ろに立ち尽くしていた親方ガロを睨みつけ、


「ほう……とうとう裏切るのか? ガァァァロォォォォ!」

 

 そう言い放ち、ニヤリと笑うと腰に下げた曲刀を抜き放った。

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