洞窟の魔女

天邪鬼

洞窟の魔女

 目が覚めると、少女は暗闇の中にただ独りだった。人はおろか、動物の気配さえ感じられない。光も無ければ音も無い。ともすれば、ここは死後の世界なのかもしれないとさえ思える。すなわち、その空間を支配するのは「無」そのものであった。


「痛っ!」


 起き上がろうと両手で地べたを押し上げたとき、少女の頭に鈍い痛みが走った。何かにぶつけたのだろうか。しかし、暗がりの中ではそれを確かめる術はない。


「プロム」


 少女が呪文を唱えると、小さな光の球が現れた。それは初め真珠のような淡い光を放っていたが、やがて人の頭ほどの大きさになると、少女の周囲を柔らかく、暖かい光で照らした。


 少女が起き上がり先ほどまで倒れていた場所を見ると、赤黒い血痕が残っていた。それで少女は、自分がここで頭に傷を受けて倒れたのだと覚った。しかし、どうしても倒れる以前のことを何一つとして思い出せなかった。

 自分はなぜここにいるのか、自分が誰なのか、少女はそれさえも思い出すことができずにいた。記憶すらも失ってしまった今、ただ一つ頼りになるのは身体が覚えていたのであろう、いくらかの呪文だけだった。

 少女がふと足元を見ると、そこに手枷があることに気が付いた。なんとなく、その手枷には触れてはいけない気がして、少女は足早にそこを立ち去った。

 少女がいたのは牢獄だった。しかし一歩その牢獄から踏み出すと、辺りは岩ばかり。どうやらそこは洞窟の中らしかった。


「アレス」


 少女が呟くと、その手から火の玉が放たれた。火の玉は真っ直ぐに暗闇の中へと飛んでいった。

 しかし、やはり何の声も無い。どうやらこの洞窟には、本当に自分以外に生き物はいないらしいと少女は思った。ならば危険な獣もいないに違いないと、少女は深い闇ばかりの道を歩み始めた。

 プロムの光では洞窟一体を照らすことはできず、本当に手近な前方の様子を探るのがやっとであった。それでも少女には、その穏やかな光が心の支えであった。


 何も無い道がひたすら続いた。どれほど歩いたかは少女にも分からなかった。

 戻ろうか。そう考えたが、後ろには牢獄と手枷しか無いことを思い出し、結局は前に進まざるを得ないのだと、ひたすらに歩き続けた。



 それからまたしばらくして、少女は少しばかり休憩をとろうと思い、その場に腰を下ろした。なんとなしに辺りを見渡すと、プロムの光を跳ね返す何かが落ちていることに気付いた。あそこで照らされているのは何だろうか。彼女はそれを確認するためにもう一度立ち上がった。


 まだ年端の行かぬ彼女にも、それが頭蓋骨であることくらいは容易に分かった。


「ごめんなさい、でもお呼びでないの。私を怖がらせないでちょうだい…アレス」


 少女が呪文を唱えると、赤々とした炎が目の前にある忌々しいそれを焼いた。しかし、アレスの炎は骨を燃やし尽くすには小さすぎて、かすかに黒く焦げた骸は、さらにその不気味さを増すばかりだった。

 こんな気持ちの悪いところでは休めない…少女はその場を離れ、居心地の良い場所を探してまた歩き出したが、それからというもの至るところに骨が散らばっていて、結局彼女は、かつて人であったものに囲まれた不気味な空間で休まざるを得なかった。


 もちろん、彼女の心が休まるはずもなく、棒のように固くなった足をいくらか解すと、まだ疲れもとれきれないまま少女はまた歩き出した。とにかくこの墓場を抜け出したかったのである。

 全く光の射し込まない深い洞穴の中で、少女の時間の感覚が狂っていく。一体どれだけ歩けば、この暗闇から脱け出せるのだろうか。彼女の心を不安が満たしていった。

 ようやく墓場を通り過ぎたらしい頃には、彼女の心はボロボロだった。そういえば、母はどこへ行ったのだろうか、父はどこへ行ったのだろうか。そもそも、少女に両親は居たのだろうか。彼女には何も分からなかった。


 少女はここにきて、目が覚めてから何一つ食べ物を口にしていないことに気がついた。喉もカラカラに渇いていた。


「お水が欲しい」


 一度意識し始めると、少女の頭は空腹と渇きのことばかりを考えるようになった。するとどこからか、ポタン、ポタン…ポタン、と水の垂れ落ちる音が聞こえることに気がついた。


「お水」


 少女はもう感覚さえ失った足をなんとか引きずって、音のする方へと向かった。

 確かにそこで、天井から水が滴り落ちていた。彼女は上を向いて口を大きく開け、落ちてくる水を受け止めた。しかし当然、数滴の水などで渇きが癒えるはずもなく、喉が潤うまで彼女は長いことそこに立ち続けた…




 気が付くと、少女はまた暗闇に包まれていた。どうやら、水を飲んだ後で疲れて眠ってしまったらしいが、彼女はその時のことをあまりよく覚えていなかった。ただ足に残る痛みが、少なくとも夢を見ているわけではないということを教えてくれた。せめてこれが悪夢だったら、まだ救いがあったかもしれないと少女は思ったが、どうやらまた歩かなくてはいけないらしいことを覚ると、すくっと立ち上がった。


「プロム」


 寝ている間に消えてしまった光を再び呼び戻し、少女は重い足取りで歩き始めた。

 しかしそこで、ふとあることに気がついた。いくらなんでもこの洞窟は深すぎる。彼女はなんとなしに後ろを振り向いたが、やはりそこにあるのは闇ばかりだった。

 牢屋にいたのだから、誰かが彼女をさらってここへ連れてきたのであろう。では、その人はどうやって彼女を牢まで運んだのだろうか。わざわざこの闇の中を往復したのだろうか。それに、こんなに深い洞窟が自然に出来るものなのだろうか。なぜあんな深くに牢を拵えたのだろうか…

 彼女の頭が疑問でいっぱいになったとき、プロムの光がフラッと揺らいだ。そして少しずつ輝きを失い始めた。少女は自分の集中が途切れていたことに気付き、慌てて術を唱え直した。


「そうか、魔法…」


 そのことが彼女に一つの答えを導き出させた。これはきっと魔法の力だ、と。彼女は自分が魔法に捕らわれているのではないかと考えた。


「アフロ」


 少女が呪文を唱えると、フワッと景色が歪んだ。そして気が付くと、彼女はまた牢屋の前に立っていた。足元には魔方陣があり、それは徐々に輝きを失いながら消えていった。きっとこの魔方陣は、幻覚を見せるものだったに違いない。そして彼女は、自分が幻覚の中でひたすらに歩き続けていたのだと知ると溜め息を漏らした。


「本当に夢を見せられていたのね。」


 そして、チラリと牢の方を振り返ると、そこにはまだ自分が流したらしい血の後と手枷が残っていた。


「振り出しに戻っちゃった。」


 少女はその場にうずくまった。すると、彼女の目からぶわっと涙が溢れだした。


「ママ」


 彼女は何度も母を呼びながら泣き続けた。しかし、どうしても母親のことを思い出すことはできなかった。

 本当にいたのかさえ分からない母を呼びながら、少女はわんわん泣いた。 



 一頻り泣いた後、少女は徐に立ち上がり、また出口を目指して歩き始めた。出口があるのかさえ分からなかったが、彼女は歩かなくてはならなかった。なぜなら、どこからともなく、


「早くここから逃げなさい!」


 という女性の声が聴こえてくるからである。少女は声に導かれるようにして進んでいった。




 出口に辿り着くまでにたいした時間はかからなかった。幻覚の魔法さえ無ければ、そこはなんてことのないただの洞窟だった。ただ、その出口には分厚い金属の扉があり、非力な彼女ではその扉を開けることはできなかった。


「どうしよう、扉を開ける魔法なんて知らない…」


 彼女が途方に暮れていると、不意に、目の前の扉がギギギと音を立てながら開き始めた。

 奇跡が起こった。彼女はそう思った。ここから出られる。彼女は安堵した。扉の隙間から少しずつ、光が射し込んできた。


「まぶし」


 何日ぶりかの外の光で、彼女は視界を失った。


 少しばかりの時間が経って少女の目が光に慣れてきたとき、目の前にいくつかの人影があることに気が付いた。


「おい、こいつ牢屋を抜け出してるぞ。」

「バカ野郎、だから縄で縛っとけって言ったんだよ。」

「でも、あの手枷は魔法を封じてくれるって町長が…」

「うるせぇ、とにかくこうなったら…」



 この場で殺すしかない。男たちは口を揃えてそう言った。そして持っていた槍を構えて、彼女に襲いかかろうとした。

 あっけにとられていた少女は、逃げることも戦うこともできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。


 そして、幼い無抵抗の少女の胸を、一人の男の槍が貫こうとしたそのとき、何かが槍を弾き返した。


「早く逃げなさい!」


 今度ははっきりと少女の耳元で、怒気を帯びた女性の声が聴こえた。


 そしてそれは紛れもなく、厳しくも優しい母の声だった。



「ゼウス」


 少女が呟くと、晴れた空に突然雷鳴が鳴り響き、目の前の男たちを大きな雷が撃ち抜いた。男たちはみなその場にバタバタと倒れた。


「この…バケモノめ…」


 直撃を免れたらしい男が、雷に焼かれた左腕を抱えながらヨロヨロと立ち上がり、少女に掴みかかろうとした。


「いやっ…アレス!」


 少女は男を焼き払うと、走ってその場から逃げ出した。







 それからしばらくの間、逃げ出した魔女が母親を殺された復讐の為に町を襲いに戻ってくるのではないかという噂が流れたが、少女が再び町に姿を現すことは無かった。

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