第31話 雨上がりの屋上
雨が上がり青空が見える昼下がり、中学校の校舎の屋上に上がってくる人影があった。慣れた手つきで懐からタバコを取り出し、火をつける。紫煙をゆっくりと吐き出し、物憂げに校庭を見下ろしている。
「あれ、鍵開いてる?」扉を開けて、もう一人が屋上に上がってくる。タバコをすっていた人影は、慌てて煙を散らして火を消し、入ってきた人物を確認する。
「何だ、天涯か・・・・・・」タバコを吸っていた人物は、相手の顔を確認すると、ほっとしたような声を出す。
「香村先生?」夏実は先に屋上にいた相手を見て驚く。担任の教師が昼休みに、こんなところにいるとは思ってなかったからだ。
「ほら、早く扉を閉める。他の人が入ってこないように鍵かけとくから」香村の指示に従って夏実が、慌てて扉を閉める。
「先生は何で屋上に?」夏実が訪ねる。
「それはこっちの台詞だ。柵があるとはいえ、何かあったら危ないから上がるな、ってことになってるだろ」新しく取り出したタバコをくわえながら、香村が答える。そんな説明は受けただろうか、と思い返す。もしかすると生徒手帳に書いてあるのかもしれない、とは思ったが中身をしっかりと読んだことはなかった。
「入ってきたばっかりなので、知りませんでした!」
「言い訳にはならん。が、交換条件だ。先生がここでタバコ吸っていたことを、誰にも話さなければこれ以上言う気はない。いいな?」にやりと悪そうな笑みを浮かべる。
「はえー」夏実が不思議そうに香村を見つめる。
「ああ、なんだ。こんなところでタバコを吸っていたのが見つかると、先生でも色々と面倒なんだ」香村が決まり悪そうに頭を掻く。
「どうして屋上で?」
学校内は全面禁煙というわけではない。職員室に入ったときに、タバコを吸っていた先生がいたことを夏実は思い出す。
「職員室には喫煙スペースもあるけどな、女性がタバコなんて止めなさい! っていう、うるさい人がいて大変なんだ」
大人になる、というのは決して自由になるということではないのだな、と夏実は思った。
成長すれば、大人になれば今抱えているような悩みは消えてなくなると思っていた。けれども、その時はその時で新たな悩みが生まれるものだと、先生の様子を見ていて思う。
「何か悩み事がありそうな顔をしているな」香村に指摘され、夏実は驚く。
「分かるんですか!?」
夏実はずばりと当てられて、驚きの声を上げる。
「適当な推察だ。だいたい、屋上に上がってこようなんて奴は、そんな所と相場が決まっている」
「あたし、分かりやすいですかね?」
「とてもな。素直なのは良いことだと褒めたいが、その分人の中で生きていくのは傷つきやすいと知っておいた方がいい。誰しも傷つかないために、自分の本心を隠して建前で生きていく。素直に生きている人間はさ、損をしやすいんだよ」
「どうしたらいいんですか?」
「誰かの生き方にこれが正解だ、なんて答えはないよ。素直な生き方は、とてもいいことだと思う。どうするかは誰かに用意してもらった答えじゃなくて、お前自身が決めるんだ」香村は煙をゆっくりと空に向かって吐きながら、返答をする。
「大人になると保身だけが上手くなってな、こうやって屋上でこそこそと隠れながらタバコ吸うようになるんだ」自嘲しながら告げる。その言葉の中には、素直に生きられない自分を恥じるような響きが混じっていた。
「自分が素直かどうか分からないけれど、でも生きていくのが難しいなとは思います。間違えたり、失敗するの怖いです」夏実は、少しいじけたようにぽつりぽつりとつぶやく。
「間違えてもいい、失敗してもいい、それが若者の特権だ。何てのは、当事者じゃない大人だから好き勝手に言えることなんだろうけどな。ドラマの中の熱血教師なんてのは、大概が無責任なことばかり言ってる」香村がおどけながら言う。
「けどな、生徒が間違えたり失敗したときに助けるのが、教師や大人の役割だ。だから周りを頼れ。先生から言えるのはそれぐらいだ」
香村の言葉を、夏実はゆっくりと反芻する。自分は先輩との対話に失敗した。相手を傷つけて嫌な思いをさせて、互いに傷ついた。
もう一度やり直すことはできるだろうか? 踏み出すための勇気と機会、そして同じ過ちを繰り返さないための反省と理解が必要だった。
なぜ先輩とでなければ駄目なのか、その問いに答えられなければならない。対話をするためには囲碁がもっと強くなければ先輩には届かない。それなら、やるべきことは決まっている。
「先生、ありがとうございます。何だか、やらなければいけないことが分かった気がします」夏実の感謝の言葉を聞き、香村は優しく微笑む。空には抜けるような青空が広がっていた。
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