第27話 戦いと痛みと
夏実は苦しみ、そして悲しんでいた。どうして先輩はこんな囲碁を打つのだろうと困惑する。囲碁を打つ大人の人にはマナーの悪い人もいるが、それともまた違うような感じだった。
相手に対する敬意だけではなく、自分に対する敬意をも放棄したかのような捨て鉢な打ち方。そこには周囲に対する憎悪と悲しみが見て取れた。
こんなにも囲碁は楽しいし、世界は時には残酷だが、時には優しいものだと伝えたかった。だから、精一杯に食らいついて打ち続ける。
けれども、自分の声は届かない。実力差があった。夏実の打つ手はことごとく潰され、相手がこちらをより上回ってくる。いつでも勝負を決められるぐらいの手を打てそうにしながら、ネコが獲物をいたぶるように、まだ勝てるかもしれないと思わせるぐらいの、明らかに手を抜いたギリギリの差を保ち続ける。
悔しかった。そういったことをする相手に対してではなく、させてしまうだけの弱さしかない自分に対して怒りが湧く。
囲碁を打っていて、これほど悲しい感情になったのは今回が二度目だった。そのどちらもが相手の思いを十分に受け取れない自分の弱さのせいだ、そんな思いが胸を打つ。
生きるか死ぬかの戦いは、心を安らかにする。後輩との実力差は明らかだった。激しい戦いは次第に終わりに向かっていき、気がつくと相手の石が生きる道はなくなっている。
同年代の相手に勝つのは、特に気分が良かった。自分が周りとは違うのだと、承認されているような感じがする。
「負けました……」夏実がうなだれて宣言する。碁盤の上の模様は、あちこちで互いの石が衝突し、普通ではあり得ないような形で夏実の石が次々と死んでいった。
盤面をじっと見つめながら、夏実が沈んだ声で沙也加に問いかけてくる。
「ねえ、先輩はこんな囲碁をやって楽しいですか?」
「何が言いたいの? 負け惜しみなら興味はないわ」
「そうじゃないんです! ただ、先輩が囲碁を楽しんでいないような気がして、もったいないなって、そう思ったんです」
夏実の言葉に、沙也加が軽い嫌悪感を覚える。何を分かったような口をきいているのだろう。誰にも自分の気持なんか分かって欲しくないのに。
「囲碁を楽しむ、なんてそんなおめでたい話を言ってられると思うの? プロになれるのはここの学校の中でもほんの一握りなのよ。仲良くとか、楽しくとか言ってても自分が勝ち上がるためには周りを蹴落とさなくてはいけない。あなたには覚悟が足りていないんじゃないの」沙也加が珍しく感情を露わにして、長広舌を語る。
夏実は何も答えられなかった。沙也加の言っていることは厳しいけれども、事実だと思う。競争において、互いの結果が平等になることはあり得ない。
今は優子とも仲良くしているが、数少ない椅子を取り合うライバルではある。もし、いざという機会がきたら、情に流されずに全力を出し切れるのか。
もちろん、そういったことを気にせずに全力で対局するのが礼儀だ。手を抜く方が失礼にあたる。けれども、結果として優子が悲しむかもしれない。
夜に語り合ったとき、自分は勝てていないと悲しそうにつぶやいた優子の姿を思い出して胸が痛む。
「先輩、これからも一緒に対局しませんか? すごく強いから色々教えてもらいたいんです」夏実が提案する。一度の対局では伝えられなくても、何度も戦えばそのうちに糸口は見えてくるかもしれない。
「近寄ら——」沙也加が青白い顔をしながら、夏実に怯える。
「え?」
「私に近寄らないで、そういうのすごく迷惑なの……」沙也加が苦しそうに言葉を絞り出す。
どうしてこの子は振り払っても振り払っても、執拗に付きまとってくるのだろうか。本当の意味で理解できない相手を見たような気がして、沙也加は恐怖する。
「でも、囲碁は一人じゃできませんよ?」夏実のその言葉は、自分が一番言われたくないところを突かれた気がして、沙也加は思わず立ち上がる。
「そんなの分かってる! たいして囲碁も強くない人を相手にしたくないの!」大きな声を上げる。感情が高ぶるのを押さえられない。
どれだけ他人と壁を築き、自分の殻に閉じこもったとしても、ゲームはコミュニケーションを伴う。他人と向き合うたびに、惨めな自分と向き合うのが嫌で、辛くなる。だから必死に相手を自分を否定する。
「他の人といくらでも楽しくやっていればいいじゃない、どうして私なのよ……」心から出た言葉は、悲鳴にも似た叫びになる。
取り乱した沙也加の様子を見て、夏実が言葉に詰まる。何かを言いたいのに、うまく言葉が出てこなくてもどかしそうにする。
「片づけておいて」夏実にそう言い残して、沙也加は部屋から出ていく。後には呆然とした様子の夏実が取り残される。
窓の外では雨が本格的に降り出していた。
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