第三章『猫岳の怪』

 夏目又十郎と小田夕柳軒が試合後の宴席に招かれて各流派の師範たちと交流した後、夜も更けて旅館に帰る道。夕柳軒は、かなり酔っていた。

「御前試合に勝ったのだから、我がタイ捨流が肥後熊本のお家流になるのが筋というもんじゃないか? ……なあ、又十郎」

 夕柳軒は、藩主が自分に声をかけなかったのが不満だったようである。

「先生、無理は言わないでください。年に一度の試合でいちいち藩の御流儀が変わっていたら、たまったものではありませんよ」

「ふう……お前は剣の腕は天才じゃが、その欲の無さは青臭い小僧のままじゃな。世の中、いかに自分を売り込むかで決まるのだ。武蔵を見よ!……宮本武蔵が五輪書を書かなければ、果たして二天一流は今に続いておったかのう〜。柳生もじゃ。柳生但馬が兵法家伝書を書いたのも、実に巧妙な自流の宣伝戦略じゃ……」

 夕柳軒は山深い人吉の田舎で相良家の家臣の家の次男坊に生まれて、六十歳を過ぎるまで人吉に留まって外に出たことがない。家を継げない次男坊だから、タイ捨流の修行に励んで宗家を相伝したのが五十歳の時、それまでの心理的葛藤で、かなりのひねくれた性格になっていた。元来、又十郎のような天才的資質も持ち合わせておらず、ただ愚直に十歳で入門したタイ捨流の稽古を粘り強く続けてきて、結果、同門の誰をもしのいで宗家を継いだのである。

 しかし、名前だけの宗家で凡庸な腕という訳ではない。半世紀も鍛えに鍛えたタイ捨流の申し子とも言える男であり、天狗のような跳躍技は未だに衰えておらず、努力型だからこそ、実戦的な技を教える指導者としては類い稀な才能を持っていた。

 タイ捨流が廃れて示現流一辺倒になった薩摩からやってきた示現流剣士とも何度も立ち合い、小刀を手裏剣打ちにして打ち倒す方策を考え、すべて退けていた。

 敵の弱点をいち早く察知して裏をかく戦術家として、夕柳軒は優れた才能を持っていたのである。

 だから、鵜ノ首陣内の心の一方を破る方策も、夕柳軒が又十郎に指示したものだった。

 無論、目を閉じたまま立ち向かえと言われて、そのまま実践できるのは又十郎くらいのものだったが……。

「な〜、又十郎、このまま人吉に帰っていいものかの〜?」

 夕柳軒は酒を飲むと日頃の憤懣をぶち撒けるのがいつものことだった。

「先生、それなら、もう、二、三日、熊本見物してから帰りますか」

「う〜ん……それもいいが……お前、猫岳のモノノ怪の話は知っとるか?」

「いや、知りませんが……」

 又十郎が興味ありげな顔をしたので、夕柳軒は得意げにニヤリと笑う。


 熊本の北に位置する阿蘇山系に猫岳という山がある。そこには山猫の化け物が出て旅人を食らうという噂が九州一円に広まっていた。

 猫の化け物の話は全国にある。人間に従順な犬と違って、猫は謎めいた動物である。

 現代においても、猫がしゃべったという話や、後ろ脚だけで二足歩行する猫の都市伝説は枚挙に暇がないが、飼い猫が急にいなくなって、どこかに隠れて子供を産むとか、年とった飼い猫は死ぬ姿を主人に見せずにどこかに去っていってしまう……といった習性は昔から広く知られている。

 九州の化け猫話といえば、佐賀鍋島藩の怪猫事件が有名だろう。

 改易虐殺された竜造寺一族の恨みを飼い猫のタマが妖怪となって晴らしたが、最後は討ち取られたという異様な事件である。

 この話は面白がられて全国に広まっていたが、実際には藩内の争いを隠蔽するためにでっち上げられた事件だというのが見識ある者の意見だった。

「それがな〜、又十郎よ。竜造寺の一族は生き残って山中に隠れ住んだと言われておるのだ」

 夕柳軒が、怪談話を子供に聞かせる漫談家のような顔で言った。

「その山が猫岳という訳ですか?」

 いつの間にか真剣に聞いていた又十郎が逆に質問した。

「おおよ……。つまり、猫岳に潜んでいる竜造寺の一族の存在が知れると佐賀藩の追っ手がかかる。だから、秘密を知った旅人を殺した……と、わしは睨んでおる」

 夕柳軒が得意げな顔で断言した。

「なるほど、一応、筋は通りますね……」

「何っ、一応とは何じゃ。失礼な。……まあ、いい。そこでじゃ、又十郎。お主が猫岳に行って、そのモノノ怪の正体を確かめて退治する。さすればタイ捨流の名声は九州一円、いや、全国にまで鳴り響こうぞ……。なっ、いい考えじゃろう。もう、肥後熊本ごときの御家流では済まさん! 柳生超えで、天下の将軍家御流儀になってこそ、丸目蔵人佐先生の宿願を果たすことになるのじゃ〜……ぬははは……」

「先生、いい年して、そんな馬鹿なことを言っていたら笑われますよ」

 又十郎は泥酔して高笑いの止まらない夕柳軒を促して旅館に急いだ。二人の後を一匹の猫が、闇に紛れて付けていた事など知る由も無い。


 旅館に戻って、夕柳軒を寝かせてから、又十郎は女将に猫岳のモノノ怪の話を知っているか質問してみた。

「ええ、その話なら城下の宿屋の者で知らない者はいないと思いますよ。旅をされる方に猫岳だけは避けるように言っております。特に夜には絶対に入っちゃいけないと言われております」

「そうか、本当にそんな噂があるのか」

「お侍さんも、あの山だけは入っちゃいけませんよ。何年か前にも町で名うての侠客が噂を知って化け物退治してやるって、一人で入っていったんですが、それっきり戻ってきません。ふた月くらいしてから地元の猟師が、その侠客のものらしい朱塗りの鞘に入った錆び刀を見つけてきたんですが、こびりついた血の痕が黒く残っていて、刃はボロボロ、切っ先は欠けていて鞘も柄も爪で引っ掻いたような傷がいっぱいついていたそうですよ」


 女将の話を聞いた又十郎は、酔っ払って熟睡している夕柳軒の傍らで腕組みしたまま座り込み、眠らずに長く考え込んでいた。

 早朝に、又十郎だけ旅支度して旅館を出た。夕柳軒には試合の報奨金と手紙を残して、女将に世話を頼んでおいた。

 昼過ぎに目覚めた夕柳軒が又十郎の手紙を読むと、はじめて深刻な顔をした。手紙には、猫岳のモノノ怪の正体を探ってくるので先に人吉に帰って待っていて欲しいと書かれていた。

「猫岳のモノノ怪……一体、何のことかの〜?」

 夕柳軒は、昨夜のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていたのであった……。


 又十郎は、熊本の北に向かう街道を歩いていた。猫岳に近づくにつれて、人家もまばらになる。

 途中、何度か、すれ違う旅人や行商人から猫岳への道を尋ねたが、誰もが、あそこへ行くのはやめた方がいいと引き留めた。

 化け猫の話こそ出さないが、山賊らしきものが潜んでいるというのが大方の一致した理由だった。

 その中には、旅館の女将が話した侠客の話をした者もいて、俄然、危険な山の現実味が出てきたのだが、正義感の強い又十郎にしてみたら、(これだけ旅人から恐れられているのなら、誰かが山の怪異を晴らさねばならない)と思ったのだった。もしくは、奥に分け入るほどに、その怪異は引力を増し、又十郎を呼び寄せているようでもあった。

 実は、又十郎は、真剣勝負をした経験が一度もなかった。タイ捨流門下では誰一人として並ぶ者がいなくなり、昨日は熊本の名だたる剣の遣い手をことごとく退けて肥後国随一の剣士となったばかりであるが、真剣での勝負を経験していないことの一抹の不安があったのである。

 だから、モノノ怪になぞらえた旅人に仇なす山賊連中ならば、躊躇なく斬り捨てることができる相手と考えたのであった。

 彼の師、小田夕柳軒は、タイ捨流開祖、丸目蔵人佐が、相良家を探索するために忍び込んだ隠密を密かに始末する刺客の役目を与えられていたことを、折りに触れて話してきかせた。実際、夕柳軒も、隠密始末を経験しているらしい。

 タイ捨流宗家は相良忍軍を統べる役目がある。相良家を裏から護ってきたのだ。

 夕柳軒も剣のみでなく忍の技も伝えており、無論、後継者たる又十郎も忍法の修行もこなしてきていた。

 そもそも、新陰流兵法に忍法が含まれていた。これは古い時代の武術流派にとっては特に珍しいことではないのだが、新陰流兵法の忍法は、柳生と丸目に伝えられた。

 柳生一族が徳川政権を裏から支えたといわれるのは、この忍法のネットワークの働きがあったからである。

 そして、相良家に隠密が多く侵入していたのは、柳生の忍法ネットワークを脅かす恐れがあると判断されたからだった。

 実際に、相良忍軍は西国に広い勢力を持っており、それは倭寇とも繋がって海のネットワークとなっていた。タイ捨流開祖丸目蔵人佐は、若い頃には天草島に渡って剣の修行をしていたが、この時に天草島を根城にしている倭寇と接触している。蔵人佐の右腕だった唐人、伝林坊頼慶もまた、倭寇船に乗って日本に来た拳法家だったのである。

 又十郎も、ゆくゆくは、その裏の仕事を引き継がねばならない。師の夕柳軒は齢六十を越えてもかくしゃくとしていたが、道場での稽古は師範代に任せて、今はひたすら又十郎に己の持てる技のすべてを注ぎ込もうとしている観があった。それは、剣術のみならず、居合術、棒術、槍術、長巻術、手裏剣術、柔術、拳法、そして忍法であった。

「又十郎。お前に欠けているものが何かわかるか?」

 ある日、夕柳軒が尋ねた。又十郎が首を捻っていると、師は続けてこういった。

「それは、性格が優し過ぎることだ。剣客に必要なのは、戦いに臨んだら非情に徹するということだ。お前の腕前は既にわしを超えているが、今、わしと勝負してもお前は勝てぬだろう」

「いえ、私はまだそんな腕では」

「謙遜せずともよい。お前がわしの前では遠慮しておることぐらい気づいておる。だが、遠慮するのはよいとしても、もし、わしが相良家の敵となった場合、お前はわしを斬れるか?」

「まさか、先生を斬るなんて……」

「わしなら斬れるぞ」

 夕柳軒の顔が能面のように無表情になった。冗談で言っているのでないことは、全身から発散される粘つくような殺気が証明していた。

 又十郎は、背中を冷たい汗が流れ落ちていくのを感じて立ちすくんでいた。


 あの日の一件で、又十郎は自分に致命的に欠けているものを理解していた。それを埋めるためには真剣での実戦を体験しておく必要があると思い、その絶好の機会が猫岳の怪異を暴くことだと考えたのだ。

(先生は、そのために私に猫岳の話をされたのに違いない……)

 又十郎は、すっかり勘違いしていた。


 熊本を出発してからその日の昼過ぎには、又十郎は猫岳の麓に達していた。

 タイ捨流に伝わる一挙動で遠い間合を縮める特殊な歩法、“縮地法”を遣える又十郎の足は、普通に歩いても常人の何倍もの速度が出せた。

 さらに中国武術には“軽功”と呼ばれる身を軽くする訓練法があるが、伝林坊頼慶がタイ捨流に伝えた技の中にある軽功と縮地法があわさり、山深い人吉の山中で鍛えた又十郎は、本気で遣えば空中を飛ぶように走ることができた。

 タイ捨流には跳躍する技が多い。流儀を極めた者の技は、まるで天狗のように見えると言われていて、土地の百姓が山中の秘密稽古を見て天狗と見間違えたこともある。

 だから、山中の戦いとなれば不安は無かった。

「さて、これからこの山に入れば、一晩明かすことになるか」

 又十郎は、道端の倒木の上に腰掛けて、旅館の女将が作ってくれていた握り飯を食べ終わると、傍らに置いていた大小刀を抜いて見た。

 大刀は、刃渡り二尺三寸、関の孫六兼元。三本杉と呼ばれる独自の乱れ刃紋が特徴の実戦刀として有名な最上大業物である。夕柳軒が熊本城の御前試合に向けて授けてくれたもので、丸目蔵人佐が刺客請け負いをしていた時に遣っていた刀だという話だった。

 小刀は、刃渡り一尺六寸、胴田貫正国。加藤清正が朝鮮出兵に向けて戦場刀として愛好した刀工一門のもので、重ねがブ厚く、身幅も広い、肥後拵えの実戦向きの武骨な刀である。こちらは又十郎の一族に伝わっていたものである。後の世に実戦向きの刀として人気が出るが、この当時は野暮ったい野鍛冶が鍛えたような刀として見向きもされていなかったが、又十郎の祖父でやはりタイ捨流の遣い手だった又右衛門は、この正国の脇差で暴れ馬の首を一撃で跳ね飛ばしたと伝えられる。

 又十郎は、師と祖父からもらった二刀に深々と頭を下げると、腰帯に挿して、山を登りはじめた。


 山中の街道を歩いて小一時間が経過しても何も異変は起こらなかった。山の空気は澄んでいて気持ちがいい。

 そろそろ日暮れになる時刻だったが、忍法修行で夜目が利く又十郎にとっては、特にどうということもなかった。

 いささか拍子抜けした気持ちになって、完全に日も暮れたので寝床を確保しようと思った時、ふいに遠くの方に光が見えた。近づいていくと、次第に大きな屋敷の輪郭が見えてきた。

「こんな山中に屋敷があるというのは、やはりおかしい。あれが噂に聞くモノノ怪の住処か。それとも、山賊の住処か……」

 どちらにしても、又十郎の目的地であろうことは十中八九、間違いなさそうである。

 流石の又十郎も、武者震いがした。が、ここまで来て逃げて帰る訳にもいかない。刀をぐっと握り締めて深呼吸すると、屋敷に近づき、門扉を叩いた。

「夜分、失礼つかまつる。どなたかおられませんか?」

 ややあって、扉の向こう側から若い女の声がした。

「どちら様ですか」

 声に迷惑がったり脅えるような色は感じられない。鈴が鳴るような美声だったこともあって、又十郎も少し気が緩んだ。

「済みません。旅の者ですが、山中で日が暮れて道に迷い、難儀しております。もし、宜しければ夜露をしのげるところを一晩お貸しいただければと思いまして……」

 そう話すと、少しの間があって、扉の閂を外す音がし、扉がギシギシと軋み音を立てて開いた。開いた扉から女中らしき女が現れた。

 少し俯いた顔は白く、武家の女中のようだった。

「それはお困りでしょう。この山深い家には、時々、旅の方が迷っておいでになりますので、主人の申し付けで離れに専用の寝所も用意しております。どうぞ、お気兼ねなくお泊まりください」

 俯いたまま話す女の声は、扉の向こうで聞いた声よりずっと年とって聞こえたが、顔を俯いているので年の頃はよく判らない。が、恐らく四十は越えているのは間違いない。

(さっきの若い女の声とは別人か。どうも、おかしいな……)

 又十郎は、女中が先に立って案内するのを警戒しながらついていった。

 武家の作法では、家中に入る時に大刀は預けるのが普通だが、女中は何もいわなかったので、又十郎は大刀を抜いて、敵意がないことを示すために右手に持ち換えた。

 女中に案内された部屋は廊下を突っ切った離れになっていた。十畳ほどの何もない部屋だったが、よく掃除されて清潔に保たれている。床の間に刀掛けがあったが、刀は無い。

 いかにも、ここに置いてくださいと言わんばかりなのが妙に気になり、なにかカラクリ仕掛けでもあるのではないかとまじまじと見るが、特に変わった所は見つけられない。

「すぐ、夕餉の支度をさせますので、それまで風呂で汗を流してください……」

 女中がそう言うと、又十郎が答える間もなくスルスルと立ち去ってしまった。

 又十郎が呼び止めようとすると、入れ替わりに若い女中が現れた。

「さっ、風呂に御案内します」

「あっ、いや……御親切は有り難いが、風呂は御遠慮したいので」

 風呂に入るということは無防備になるということである。女しかいなかったとしても、どこかに男が隠れていないとも限らない。ここは警戒してし過ぎることはないだろう。

 若い女中は、口を噤んで俯くと、踵を返して戻っていった。

(ヘンだ。どうも、この屋敷の女達には生きている人間の感情みたいなものがない。しかし、まさか本当にモノノ怪ということもないだろうが……)

 又十郎が大刀を抱えて座り込み、考え込んだ。

(まず、この部屋だ。俺が来るのがわかっていたように行灯に火が入り、掃除も行き届いている。刀掛けも、置いてくれと言わんばかり……やはり、おかしい)

 四半刻もしない間に、また別の女中達が夕餉の盆を持って現れた。

 又十郎の前に次々に食事が並べられる。

「これはかたじけない……ほ〜、これはまた、綺麗な膳ですな〜」

 又十郎が礼を言うと、女中の一人が、はっとしたように顔を上げて又十郎の顔をのぞき込んだ。目の大きな綺麗な顔立ちの娘だった。

「んっ、何か……」

「いっ、いいえ……失礼致しました」

 その女中は慌てて俯くと、急いで戻ってしまった。後の女中達も無表情に後に続いた。

(今の娘、どこかで会ったことがあるのかな。そういえば、一度、見たことがあるような気もするが)

 首を捻って思い出そうとしたが、思い出せなかった。しかし、この屋敷で初めて人間らしい感情を示す娘を見て、妙に気になってしまった。

 運ばれた食事は美味そうに見えたが、少し箸でいじって、中身をこっそりと床下に捨てて、食べたように見せかけた。毒が入っていることを警戒したのだ。

 また、しばらくして女中達がやってきた。膳の中身がすべて無くなっているのを、しっかり確認するような間があった。さっきの娘は残念そうな、哀しそうな表情をしたように見えたが、無言で空の膳を運んでいった。思い過ごしであろうか。感覚がいつもより鋭敏になっている。触る者みな斬ってしまいそうなくらいに。

 そして、入れ替わりにまた別の女中が寝具を運んできて布団を用意した。

「では、ゆっくりお休みください」

 深々と礼をして戻っていった。

 又十郎は、用意された寝間着には着替えないまま、刀を握って布団を被って寝たふりをする。体の緊張はほぐし、脱力してじっとしてみる。全く眠くはない。この屋敷の気配と一体になり、耳を澄ます。音はしない。人の立てる音がしない。

(旅の者……山の中の屋敷……風呂……メシ……布団……とくれば、あとは“女”かな……)

 心の中でつぶやいた。声は出さずとも、部屋中に響いているように思えた。ありえない事でも無いだろう。女が来たらどうするか、適当にほぐして床の下に……というわけにもいくまい。どうしたものか、どうしたものか。又十郎は体が熱くなるのを感じた。又十郎は実戦の経験がまだ無いのだった。まあ、この状況では普通に断るしかないだろうが。そんな事で油断して討ちとられでもしたら、それこそ恥である。

 悶々としつつ夜も更けて深夜になった頃、部屋の中に何者かが入ってくる気配があった。布団の中で音がしないように刀の鯉口を切って、いつでも抜刀できるように待ち構えた又十郎の耳に、囁くように声が聞こえた。

「……お武家様……お武家様……」

 声に害意は感じられない。懇願するような響きである。やはり来た!女だ!

「何か用か」

 又十郎が感情を押し殺した声で応じると、ほっとしたように息を吐く気配があった。

「あ〜、よかった。お武家様は何も食べなかったのですね」

「何のことだ?」

 又十郎が後ろを振り返ると、食事を運んだ時に唯一、感情の揺れを見せた、あの娘だった。

「しっ、静かにしていてください。これから、私が案内しますから、すぐにこの屋敷を出て山を降りてください」

 娘が声を潜めて言う。

「どういう意味だ?」

「理由は屋敷を出てからお話します。とにかく、ここにいては命が無くなるより恐ろしいことになります。私を信じて、言う通りにしてください」

 娘が必死に懇願する様子に、又十郎はただならぬものを感じた。予想とは違ったが、何かありそうである。

「よし、承知した」

 娘の案内で又十郎は離れの裏側から屋敷の外へ出た。草鞋は娘が持ってきてくれていたので、屋敷を出てしばらく離れてから履いた。

「よし、ここまで来れば問題ないだろう。理由を話してくれ」

 又十郎から促されて、娘が話しはじめたことは奇怪極まりないものだった。


「あの屋敷に住む者は、現世の者ではありません。そして、あの屋敷の中で食事をとったり風呂の水を浴びたりすれば、その者にも呪いがかかってしまうのです。お武家様はそれを知っていたのですか?」

「いや、知らなかったが、風呂に入っているところを狙われたり、食事に毒を盛られたりしてはいかんと思って避けただけだが……。いや、それより、お前は何者なのだ。どうして、私を助けてくれるんだ?」

「もう、お忘れですか? つい、一昨日、お武家様が川で助けてくれましたよ」

 そう言われて、又十郎は娘の目をのぞき込んだ。月光の明かりを反射して娘の両目は赤と青に輝いている。

「お前……まさか、あの時の猫……なのか?」

「やっと、思い出されましたか」

 猫娘がまたニコッと笑うと、唇の端から尖った牙の先端がのぞいた。

「では……お前も、その……化け猫の仲間なのか?」

「化け猫なんて、ひどい言い方ですね。あの時は綺麗な目の色だと誉めてくれたのに」

 猫娘がすねるような顔をして見せた。

「あっ、これは……すまん。失礼した。……しかし、お前もその……人間じゃないということなのか?」

「はい」

「では、猫なのか?」

「いいえ、強いて言えば“猫又族”ということになりますか……」

「それはモノノ怪ということか」

「いいえ、猫又族は猫又族で、狗神族や蛇や猿、鹿、熊、狸、狐と同じような山の精霊ですよ」

「精霊?」

「太古の昔は人獣の別なく、この国には精霊がどこにでもおりましたが、神とモノノ怪を分けてしまったが故に、人と精霊は別々の世界に住み分けるようになりました。もっとも、時には人から精霊の住む異界へと入り込み、そこで暮らすうちに精霊と同化した者もおります。私達は竜造寺一族の血を引く猫又族で、山の異界に暮らすうちに精霊となったのです」

 猫娘の説明は信じ難いものだったが、一応、論理的には筋が通っているように思えた。

 又十郎は混乱しながらも、尚も猫娘に何か聞こうとしたが、猫娘がそれを制した。

 屋敷から音も無く、塀の上に屋根の上に、白い着物を着た女達が沸き上がるように現れる。時折月の光を反射するものが見えるが、おそらくそれは槍か薙刀の刃だろう。

「逃げたのが判ってしまったようですね」

「お前も巻き添えにされるかもしれない。私が逃げたのに気づいて追いかけたが、そのまま逃げられたということにして帰った方がいい」

 又十郎が言うと、猫娘は首を振った。

「いいえ、そんな嘘は通用しません。裏切り者は許さないのが竜造寺一族の掟です。それは親方様の末娘の私でも変わりません」

「何っ? お前は竜造寺の姫……」

 驚く又十郎の手を握って、猫娘が走り出した。森の中を凄い速度で飛ぶように走る。縮地法を体得している又十郎が全力で走って、ようやくついていけるくらいだ。

 しかし、その二人の行く手を遮るように、薙刀を持った猫又が現れる。

 猫娘が鋭い爪でなぎ払うと、ブシュッという音と共に絶叫が木霊する。夜気に血飛沫が混ざり、ドサッと一人が倒れる。別の一人が襲いかかると、猫娘は太い樹の幹をザザザッと駆け上がって、薙刀の刃を躱し、隣の樹に飛び移ると見せかけて、樹を蹴って反転し、空中から爪で襲い掛かる……。

 忍者であっても、このような身体能力はないだろう。まさに猫又族である。

 月光の淡い明かりが差し込む林の中で、野獣が戦うような烈しさで猫又族の死闘が繰り広げられる……。

 唖然と立ちすくんでいた又十郎にも、薙刀を持った猫又が迫ってきた。猫娘はまだ死闘の最中で助けに戻る余裕はない。

 又十郎は、我知らず、悲鳴とともに抜刀していた……。

 月光を反射しながら、切断された手首が握ったままの薙刀の刃が、クルクルと空中を舞って地面につき立った。続いてザァッと霧のような血飛沫が飛び散る……。

 タイ捨流、逆握!

 逆手抜きにした刀でそのまま斬り上げ、斬り下げ、8の字に刀を回しながら跳躍して距離を取り、納める……タイ捨流の秘剣にして又十郎の最も得意とする技だった。

 死を覚悟した瞬間、身体が勝手に動いて剣を抜き、迫り来る薙刀のケラ首を手首ごと切断してのけていた。

 片手を失った猫又が絶叫しながら片手に残った薙刀の柄を振り上げて向かってくる。それを、逆手に持ったままの刀で柄を受け止め、脇差も逆手に抜いて、首を払った。

 今度は猫又の首が、凄い悲鳴とともに空中に跳ね飛んだ。

 それから先は、もう何をどう戦ったのか判らない。

 又十郎は悲鳴とも絶叫ともつかない声を挙げながら、迫り来る人外の魔物を片っ端から斬って斬って斬りまくっていた……。

 一緒にいた筈の猫娘も、どこにいったか判らない。ただ夢中で刀をふるっているうちに、又十郎は迫って来る猫又達の姿が、やけにはっきりと見えることに気づいた。

 深夜の森の中、僅かな月光の明かりだけで、こんなにはっきり見える筈はない。

 そういえば、戦っている最中に、樹木を駆け上がり、かなり離れた樹に飛び移ったり、人の背丈を越える巨岩の上に飛び上がったりしている。

(自分は何で、こんなことができるのか?)……と、戦いながら又十郎の意識は次第に醒めてきていた。

 もう十数匹の猫又を斬り倒しただろうか? いつの間にか立ち向かってくる猫又はいなくなっている。

 辺りには血の匂いが充満している。荒い呼吸音と、激しく脈打つ心臓の鼓動が徐々に修まってくる。

 ふと、目の前に返り血を浴びた猫娘が現れた。哀しそうな目で又十郎を見ている。

「ああ、ごめんなさい……ごめんなさいね……」

 猫娘がそう呟いた時、又十郎は、ようやく、自分の変化に気づいた。

 夜なのに、はっきり見える。自分の腕に生えている獣の毛が、指先に伸びている尖った爪が……。

 刀を落とした。

 震える獣の手で自分の顔を触った。短く密生した毛、真ん中で割れた上唇、鋭く伸びた糸切歯、尖った耳……そこには人の顔ではない何かがあった。

 又十郎の喉から漏れ出た絶叫は、もはや、人間のものではなかった……。


「おまえは我らの血を浴び、血を飲んだ。それで呪いがかかったのだ」

 二人の目の前に鎧を着た猫又が二人の従者と共に現れた。

「親方様」

 珠子と呼ばれた猫娘が、又十郎を遮るように前に出た。

「その男。人の身でありながら、我らを相手によくぞそこまで戦ったものよ。しかし、我らの血の呪いを受けた以上は、これからは現世に留まることは難しかろう。我らの同族を随分と殺してくれたから、これから一族を増やすのに一役かってもらわねばなるまい」

 猫又族の頭領が話しているのを聞いて、又十郎が言った。

「お前たちの仲間になるくらいなら、今、ここで殺された方がましだ」

「ふっ、虫のいいことを言いおる……よいか、よく聞け。おぬしら人間どもは知らぬが、現世は異界と重なって存在しているのだ。異界の均衡が崩れれば現世の均衡も崩れる」

「どういう意味だ?」

「今、おぬしが我ら猫又族を多数殺したことによって、我らの勢力は著しく衰えることになる」

「それがどうした」

「我らの勢力が衰えたことを知った異界の別の種族は、これ幸いとこの山に侵攻してくるだろう。そして、今の勢力では猫又族は滅ぶしかない」

「ほう、それはお可哀想に!」

 又十郎がやけくそで皮肉を言っても、頭領は動じない。

「猫又族が滅べば、異界は覇権を狙う一族の戦国時代に突入する。すると……」

「すると……どうなるんだ」

「現世も戦国時代になる」

「何だと? どういう理屈なんだ」

「異界の存在によって現世が均衡を保っている。異界と現世は合わせ鏡のような関係なのだ。戦国時代が長く続いたのは、異界で覇権争いがあったからだ。狗神、猿神、蛇、狐、狸、熊の一族が長く争っていた。そして、残った猿と狸が戦い、狸が勝ち残った……」

「それは、もしかして、豊臣秀吉と徳川家康ということか?」

 又十郎が尋ねると、頭領はニヤリと笑った。

「……その前の元寇の時は、中国から河伯、つまり河童が多くやってきた。異界の乱れは現世にも影響を及ぼすのだ。最近のことでは、天草島原の乱もそうだ。あれは異教の神と我が国の精霊との戦いだった。その後、由井正雪の乱もあったが、あれは蛇神の仕業なのだ」

 異界と現世の霊的な関係について語った国学者もいたが、この猫又族の頭領の口から語られると否定できない現実味があった。

「う〜ん……」

 又十郎は混乱して唸った。実際に自分が体験している奇怪な現象を説明するには、頭領の話を信じるしかなかったからである。

「おぬしは、我らが佐賀鍋島藩の竜造寺一族の変化した者であることは珠子から聞いたであろう。これもまた、猫又族と狐の争いだったのだ」

「それは……?」

「おぬしは佐賀藩の『葉隠れ』は知っておるだろう。あの“偽善的な武士道精神”を説くのは何者かの〜。さて、では、狐はどうやって変化するか?」

 又十郎はそう聞かれてハッとした。狐が変化する時は葉っぱを頭に乗せるというではないか? つまり、“葉隠れ”ではないのか?

「判ったようだの。狐に追われはしたものの、我ら猫又族が異界の均衡を保つ勢力を、この山で九州一円まで担当しておったという次第じゃ。時々、迷い込む者を仲間にして細々と保って、予定では、後、百年くらいは現世は安定していられる筈だったのだが、おぬしがその均衡を壊してしまった……という訳じゃ」

「“お父様”、済みません……」

 猫娘こと竜造寺珠子が父である頭領に詫びた。

「珠子。その男、最早、我らの仲間とするしかないが、本人はなりたくないと言っておる。さて、どうするかの」

「この人は私の命の恩人です。それに素晴らしい腕前、男前。何とか助けたいのです」

「お前もまだ人間の頃の気持ちが抜けぬようだの。我らは現世の人間からはモノノ怪と呼ばれておる。殺されるか事故死でもしない限りは永遠に存在し続けることができる。しかし、我らの仲間にならぬというなら、この場で殺すしかないが……」

「そんな事はさせません、私はこの方と伴侶の契りを、これから交わす仲! 共に戦って死ぬまでです!」

「はあ……おまえは困った奴じゃのう。人間の頃から惚れっぽくて情にほだされて男にひどい目にあっておったではないか。猫になってさらに磨きがかかったのう。それに今はちょうど発情期じゃ! ただの発情期! 気の迷いじゃ!」

「そんなことはありませんっっっ!!!」

 珠子が全身の毛を逆立ててフゥーッと唸り声を上げると、嵐のような風が巻き起こり、そこには紛う事無き化け猫の姿があった。頭領も一瞬たじろぐほどの気迫だ。周囲の土が巻き起こり、小木は一瞬にして葉をこそぎ落とされ、その葉は手裏剣の雨のように顔をかすめて目も開けられない。このままでは尻の毛まで吹き飛ばされかねない。

「やめい!わかった、わかった!落ち着け珠子!」

 風が止んだ。又十郎は気づけば大木にしがみつき、借りてきた猫のようにおとなしくしていた。自分は呪いによって猫になったばかりか、どうやら化猫にもとりつかれてしまったようだ。

「よし、ならば、こうしよう。猫又として馴染む時間をやろう。おぬしは戦いが好きなようだから、これから日本各地を回って、狗神、猿神、蛇、狐、狸、河童などの一族の親方を始末して回れ。一族の親方がいなくなれば、異界の均衡は保たれる。次の親方を選ぶのに他所と揉めているどころではなくなるからな。こちらにとってもいい話だ。我らが現世の生き物と違うのは、子孫を簡単に増やすことができないということなのだ。猫又族の場合も、一人増やすのに数年かかっておるからな。それがたった一晩で珠子も含めて、たったの四人になってしまったんだからな。どうしてくれるんだ。いくら我々が一族の存続を最優先に考え、個々の命への執着は薄いとはいえ、仲間を殺したおまえが憎いという気持ちも全く無いわけではないぞ!」

「それは申し訳ないことをしたが、そもそも……」

「何だ?!」

「妙な呪いをかけようとしたり、襲ってきたのは……」

「この山に入ってきたおまえが悪いんだ!人間ごときに何の用があるか!」

「それは、まあ……」

 確かに、自分が山に入ってきた理由を考えると、こちらに非が無いでもない。触らぬ神に祟り無し。触るだけでも相手に呪う口実を与えてしまうことになる。しかも、化け物相手に腕試し、試し斬りをしてやろうという傲慢不遜な気持ちがあったのも事実。

「そのモノノ怪の親方を斬って回ればどうなる?」

 又十郎が頭領に質問した。

「無事に終われば、世界は平和、おまえも我々の呪いが解かれ人間に戻れるかもしれん」

「かもしれん、では困る」

「前例が無いので分からんのだ。人間に戻りたいという奴がおらんでな。馴染めば悪くないぞ。少なくとも、人間の頃より格段に強くなる」

 又十郎は腕組みして、しばらく考え込んだ。

(強くなるのか……)

 なんとも魅力的な条件だ。そんな条件に好感をもってしまう自分の卑しさに嫌悪感を覚えないでもないが、それ以上に“強くなる”という言葉に魅了されてしまったようである。先ほど感じた自分の不思議な力、もう一度、いや、何度でも試してみたいという好奇心が抑えられない。どんな達人でも到達できない領域に、自分は軽々と足を掛けたのだ。その為に、何かいろいろなものを無くした気がするが、それはすでに遠い昔の些細な出来事のように思えた。

「それなら、やるしかないな。が……どうやってモノノ怪を見分ける?」

さっそく具体的な話。

「珠子に案内させよう。どうやら、珠子はおぬしを好いておるようだからな。人間の目でみれば百歳ばかり年上の婆さんだが、器量は悪くなかろう。細かい事は気にするな。ようこそ猫又の世界へ! ハハハ……」

 猫又族の頭領は、そう言うと夜気の中に溶け込むように姿を消してしまった。辺りには幻聴であろうか、哄笑だけがいつまでも木霊していた。


「あの……お武家様のお名前は……」

 しばらくして、猫の娘、猫の姫、そしてこれからの旅の共になろう、珠子が尋ねた。

「拙者の名は、夏目又十郎……だったが、果たして今はどうだか」

「名前はそのままお借りになればよろしいかと」

名を借りるとは、はて、まるでさっきとは違う自分であると言いたげな。猫又に自分の体を貸したのか、自分が猫又の力を望んで借りたのか、自分は何者であるのか、よくわからなくなった。自分は首尾よく、モノノ怪に化かされたような気がしないでもない。

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