猫又暗殺行

長野峻也

第一章『猫又寺』

 山道を薄汚れた軽自動車とライトバンが二台、連なって走っている。

 夏の澄み切った青空に白い入道雲が一つだけ山の間から出ているのが、まるで大質量の巨人のように見えた。ひどく暑い、というより、おびただしい数の有象無象の気配がのしかかってくるような、そんな空気。映像に撮ってしまえばただの清々しい夏の光景にしか見えないだろうが。

 二台の車にはテレビの取材クルーが分乗していた。

 前を走っている軽自動車には、助手席にレポーターのフリー女子アナウンサーを乗せている。

 彼女の名前は石堂良子。27歳になる。

 軽自動車を運転しているのは、ディレクターの松岡啓祐。ちょうど40歳になり制作会社を起業したばかりで、プロデューサーも兼務している。

 撮影スタッフとADは後ろのライトバンに乗っていた。

 目的地の場所は松岡しか知らないので、自身で運転して、先導しているのである。

 九州の阿蘇山系の山の一つなのだが、九州に初めて来た良子は、どこに向かっているのかは知らなかった。空港で降りてから、もう何時間も車に乗りっぱなしで、少々、気がたっている。シートベルトは胸の谷間に食い込み、心地が悪い。粗末なシートのせいで、尻も痛い。

「“ねこまたでら”? 何ですか、それ……」

 目的地を聞いた途端、良子が素っ頓狂な声を挙げたので、車を運転していた松岡がハンドルをきり損ないそうになった。

「あっぶね〜な! ここ、つづら折りの山道なんだから、崖から落ちたら一巻の終わりなんだぞ。でかい声だすんじゃね〜よ」

 松岡がこめかみに浮いた冷や汗を首にかけたタオルで拭いながら、必死な顔で慎重にハンドルを握りしめる。

 一応、舗装はされているが、対向車が来たらどちらかが路肩に停まらないとすれ違えないくらい狭く、しかも曲がりくねっている。雑木林でよく見えないが、片側はかなり急な崖になっていた。時々、樹木の隙間から小さく街が見えるが、驚くほど下の方である。ここから落ちたら絶対に助からないだろう。

 松岡のような都会の道路に慣れている人間には、こんなつづら折りの山道は運転が難しいところだ。

 しかし、良子は早口でまくしたてた。

「だって〜、あたし、れっきとしたアナウンサーですよ。ちゃんとしたレポートだって聞いたから受けたのに、“ねこまたでら”って何なんですか? ニュースの間を繋ぐ怪談物か何かのレポートだったら、入社一年目の新人とか地元のローカルな芸人とかがやる仕事じゃないんですか?」

 松岡も、うんざりした顔で話す。

「お前な〜。入社三年目で局アナ辞めてフリーになったからって、自分で思ってるほど売れてないんだからよ〜。おっぱいデカいくらいしか売りが無いんじゃ、今時はAV女優だって難しいぞ。仕事もらえるだけ感謝しろっつ〜の。文句言わずに小さなことからコツコツと、いつでも誰にでもニコニコってのが、この業界で長く生き残る秘訣だよ〜。せっかくいいおっぱいしてんのにさ、嘘でも癒し系の性格になれねえもんかねまったく、もったいねえなあ……たまんねえなあ、チクショウめ、さっきからぷりんぷりんしやがって!コノヤロウ! 俺にそのおっぱいくれ! 俺にそんなおっぱいあったら、おまえより楽しい人生送れる自信あるぞ、生まれ変わりてえよおまえに! まったく無駄だよなあ、おまえにとっちゃあよぅ!」

(うるせえこのクソ狸が!前だけ見てろ!)

と良子は口に出さずに毒づいた。だが口元は歪んで、チッと音をたてていたかもしれない。だが誰も見ていないだろう。ドッキリ企画の隠しカメラも無いだろう、たぶん。


 石堂良子は地元の新人局アナとしてテレビに出るようになってすぐに、アナウンサーとしては巨大で異様なほど突出して目立つその胸で、たちまち話題の人となった。胸にボールがついているかのような、球状の張りのあるその胸は、地元の名産品になぞらえ“メロンカップ”と呼ばれた。週刊誌などで偽乳か突乳か!メロンカップアナ参上!などともてはやされ、実力はともかく知名度はそこそこ全国区になりつつあったが、いかんせん、性格が悪い、愛想が無い、全くもってオンナらしさの欠片も無く、胸の大きさ以外に華が無いという評判で、いまひとつブレイクできないのだった。まあ、気が強い性格なのは仕方ない。今更人に媚びる技術など身につくわけもない。ならば実力……?

 アナウンサーとしての実力とは何か。

 そもそもアナウンサーって何よ? しかも女子アナって何だと思ってるの? 女らしさって何?

 良子はすっかり自分の行くべき道を見失っていた。


「あっ、やっと到着〜。いっぱいおっぱいお待たせちゃん!」

 車の前方に、唐突に開けた場所が見えた。そこは車が十台くらいは停車できる駐車場になっている。

 松岡のもの言いにふて腐れた顔の良子は、腕組みしたままそっぽを向いていたが、松岡は構わず駐車場に車を停めた。

「はい、到着〜。はいはい、お仕事、お仕事。機嫌直してブラの位置直してさっさと降りて〜」

 松岡が妙なハイテンションでドアを開いて促すと、良子は胸の谷間を片手で隠すようにして降りた。胸の谷間は見せ物じゃない、見せ物だとしてもタダではみせない、タダじゃなくてもおまえには見せたくない。

「ん〜、どうしたの〜気分悪いの? 吐く?」

「いえ、大丈夫です」

 気分は別の意味で悪い、もう限界だ。

 駐車場からさらに階段があって、その上に寺があるようだ。石造りの階段が急角度で天に向かって昇っていくように見える。

「ちょっと、何なんですか〜。こんな階段登るんですか〜? あたし、ハイヒールなんですけどぉ〜」

 良子が叫ぶように文句をいうと、松岡がぎろりと睨んだ。いかにもテレビ業界風の軽い男が、急にヤクザ者のような雰囲気に変わったので、良子もたじろいだ。

「じゃあ、靴脱いで裸足で登ればいいだろうが。あんまり、なめたこと言ってんじゃねえぞ。それとも、こっから一人で歩いて帰るか?」

 急にドスのきいた言い方になった松岡の様子に怯んだのか、一瞬にしてキャラが変わったかのようにおとなしくなる。

「いいか。お前もプロなんだったら、どうやればいいかは解ってるだろうから、俺は口出しはせんぞ。それでうまくレポートとれなかったら、お前が事務所のお荷物になるだけだよ。お前んところの事務所の社長な〜、昔、俺の下で働いてたから仕事くれてやってるんだよ。こっちは、若くてやる気のあるレポーターなんか、いくらでも替えがいるんだからよ。お高くとまってると電話番になっちまうぞ。解ったか?」

「はい……」

こいつは一応、この歳まで業界で生き残ってきた人間だ。それなりに筋は通っているし、裏も読んでいる。油断ならない奴だ。決してついて行きたくなるような人間ではないが、この状況では仕方ない。

「よし、じゃあ、行け」

 松岡の見幕に、少なくとも表向き毒気を抜かれた良子はおとなしく従った。

 夏だというのにヒヤリと冷たい空気が吹き過ぎる。その瞬間、さっきまでうるさいくらい鳴いていた蝉の声がまったくしなくなっていることに良子は気づいた。


 長い階段をハイヒールで登るのは、やはりきつかった。夏の日差しもきつい。本当に裸足になろうかと思ったころ、眼前に寺の境内が現れた。

 駐車場からはまったく見えなかったが、山頂を平たく削って建てたような寺で、かなり大きく、年期を感じさせたが、綺麗に掃除されているらしく、さほど古めかしくは見えなかった。

 良子が寺を眺めているうちに、撮影スタッフとADも石段を登ってきた。

「よし、まずは住職に挨拶してから、撮影の段取りを決めよう」

 松岡がADに指示し撮影スタッフを呼び寄せて、寺に近づく。

「こんにちは〜。すいませ〜ん。先程、お電話したテレビの者ですが〜」

 松岡の声に、寺の奥から女が出てきた。

 年の頃なら良子より少し若いくらいだろうが、少女のようにも見える。水玉のワンピースにサンダルをつっかけていて、ショートヘアで丸顔に目の大きい、かなりの美人だ。

 いや、美人と一言で済ませるのに躊躇するような、一目見たら忘れられないような不思議な女だった。一瞬、モデルなのかと思うくらいあか抜けていて、こんな山の中の寺にいるのは似つかわしくない女だった。

「あっ、あのぅ〜……」

 呆気にとられた松岡は言葉が出てこない。

 すると、女はニコッと笑った。が、唇の端にのぞいた糸切り歯が妙に鋭く見えて、良子は背筋に寒気を感じた。何となく、この世の者とも思えない得体の知れない女に思えたのだ。

「お待ちしてました。どうぞ、主人は奥で待っております」

 そう言うと、女はクルッと後ろを向いて、ついてこいと言わんばかりに先導して歩いていく。物腰は柔らかく、ゆっくりしているように見えて、意外に速い。慌てて松岡も良子もスタッフも後を追った。名刺交換のタイミングすら与えられなかった。

「あっ、あのぅ〜……今、主人って言われましたか?」

 松岡が恐る恐る女に向かって質問する。

「はい」

 女は振り返らずにうなずいた。

「あっ、そうですか。いや、随分、お若いので娘さんかと思ったもので……」

「あら、お世辞が上手いですね。私、童顔で若く見られるんですよ。いくら若く見えても、もうお婆ちゃんですからね……」

 女は、やはり振り返らずにそう言って、クスクスと笑った。

「ははっ、いくらなんでも、お婆ちゃんはないですよ。奥さんもシャレがきついですなぁ」

 松岡もつられて笑った。

 だが、良子は笑えなかった。後から思えば簡単に説明がつくことだ。しかしこの時に自分が何に違和感を感じたのかはうまく説明がつかない。何かがおかしいと漠然と感じていた、としか言えない。


 女に連れられて長い廊下を突き当たりまで歩くと、寺の本尊のある大広間に出た。

「テレビ局の方がいらっしゃいましたよ」

 女が呼びかける。大広間の中央に黒い袈裟を着た男が正座して待っていた。

「よく、おいでくださいました。私がこの寺の住職です」

 住職も若かった。妻に負けず、こちらも異様なくらいの美男だった。髪も普通にしているので、とても僧侶には見えない。

 山奥の田舎を馬鹿にするわけでもないが、こんな美男美女がなぜここにいるのだろうかというのが、正直な感想だった。かといって都会の真ん中にいても、この人達は同じように違和感をかもしだすだろう。要はどこにいてもこの世からは浮いている、そのようなオーラ……何か俄然面白くなってきたような。一体自分は、何を期待しているのだろうか。

 松岡が名刺を出して挨拶する。住職は合掌礼して名刺を受け取り、じっと見つめてから懐にしまった。

「で、この寺に伝わる妖怪の話をお聞きに来られたのですね……」

 住職がそう言うと、松岡がニヤリとした。

「そうです。そのお話をしていただいて、それを番組中のお盆怪奇特集で報道させていただきたいのです」

「ははは……怪奇とはこれまた、参りましたな」

「おぉぅ、それはそれはとんだ失礼を……いや、あのですね、最近の輩はどうにも怪奇とか、それだけじゃなしに、何でもナメとるんですよ、テレビとか、あと俺なんかもずいぶんと人にナメられておりますがね、さっきもね……それはともかく、そういうまあ、なんというか、何かに対する“畏れ”というものを知らん最近の人間どもをですね、こう……」

松岡は両手で誰かの首を掴むような仕草をする。その手には、具体的な相手に対する、確たる憎しみが込められている風だった。

「首ねっこをつかまえて、こう、ギャフンとね、とっちめてやらんとダメだと思うんですわ、年長者をナメんなと!」

 住職は愉快そうに笑った。

「はははっ、まあそんな手荒な真似は仏門の身にある者としては、遠慮したいところですがね。お気持ちは分からんでもありません。ほどほどにお願いしますよ」

「ああ、ありがとうございます、こちらこそお願いいたします。おい、良子。こっちに来い。打ち合わせだ」

 呼び捨てに少しムカっとしながらも良子が近寄ると、住職の目が鋭く光ったように見えた。何かが目の奥を射抜いた感触があってギョッとした表情で住職を見てしまったが、にこやかな笑顔で座っているだけだった。何もおかしいところはない。ただとても美男であられるだけだ。

「こちらがレポーターの方ですか? あ〜、よくテレビで見ておりますよ。石堂良子さんでしたね? こんな有名な方においでいただけるとは、嬉しいですね」

 住職がお世辞を言うのにも、良子はまともに返事できない。さっきから感じる妙な感じと、あと、果たして自分は胸が大きいだけの性格ブスと思われていないだろうかという恥じらいの気持ちが混ざって、パニックに陥りそうだった。

「どうも、少しお疲れのようですな……」

「い、いいいいえ、すみません」

「いいんですよ。この寺には妖気があると言われる方もいらっしゃって、人によっては幻覚が見えたりするらしいんですよ。伝説が伝説ですからね……」

ああそうだ、今大事なのはその怪奇の方だ。個人的な煩悩などどうでもいい。良子はさらに萎縮してしまった。

「その伝説を聞かせていただきたいんですよねぇ……」

 松岡の物言いが妙にギラついているように感じた。いつものエロ話の時とはまた違う、とてもいやらしい感じ。

「わかりました。それではかいつまんで、この寺に伝わる伝説についてお話しましょう。少し長くなりますが」

 軽い打ち合わせの後で話すものと思っていたら、いきなり本題に入りそうになったので、撮影スタッフが慌ててカメラやライト、マイクを準備する。

 ディレクターの松岡は目をギラギラさせたまま住職を見つめて、ADにもスタッフにも何の指示も出そうとしない。スタッフも何も聞かずに黙々と準備している。

 住職はその気配の妖しさに、さらに切れ味が増しているようであった。

 良子だけが、この場の期待感……そうだ、誰が何ともなく、何かを期待しているような静けさの中、息苦しさを感じていた。

 ふと、振り返ると音も無く、住職の妻がお茶を運んでくるところだった。「どうぞ、お茶です」

 差し出されたお茶は、何故かぬるい。舌に自然にまとわりつくような温度。


「それでは、我が寺が、なぜ、猫又寺と呼ばれているのか……その理由についてお話しましょう。縁の起こりは江戸太平の時代に溯ります……」

 住職は静かに伝説を話しはじめた……。

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