第193話 心を冷やす

■1573年2月初旬

 三河国 苅谷

 石島軍


 伊藤さんが残してくれた伊賀の兵千騎と、郡上八幡から動員した兵千騎。会わせて二千の軍勢に号令を下す。

 既に先行している伊藤さんが率いる伊賀の忍者部隊が武田軍への奇襲に成功し、武田軍はその行軍速度を大幅に落としているらしいのだ。


「殿、先駆けます」

「うん、頼むね!」


 つーくんが十五くんと共に先鋒として五百騎を率いて岡崎へ向かう。

 俺達はこれから岡崎城付近の何処かに陣を張る予定だ。


(伊藤さんてホント凄いよなぁ)


 徳川家康さんがボコボコにされた武田信玄さんを相手に、まるで忍者漫画のような作戦を立てて翻弄しているのだ。

 そこで出番が回ってきた俺達の役割は、武田さんが隊を分散して進んでくるのを牽制する狙いがある。


 あちらは大軍である事を優位にしたいだろうから、態々それを小分けにするのは得策ではないだろう。だとしても、此方がそれに対応出来ないとなれば小分けにしてくる可能性が高くなる。


 元々兵力の無い俺達は、大軍で来られても小分けにされてもどのみち対応出来ないのだが、足止めするならば固まっていてくれたほうが助かる。


 それには、岡崎付近の要所に陣を張り、小分けにして進んで来たら戦うという、こちらの意気込みを見せる必要がある。

 実際に戦闘になったら上手くやれるか微妙だが、大軍団を相手にするよりは幾分ましであろう。


 俺には俺の役割がある。


 あとは伊藤さんが上手くやってくれるのを祈るしかない。



◆◇◆◇◆


◇同日 深夜

 三河国 吉田城付近

 伊賀忍


 数日に渡る足止めも限界に近づいていた。

 伊賀忍の散発的な攻撃に当初は戸惑っていた武田軍であるが、既にその対処を徹底した防衛に一貫しており、攻め寄せた伊賀忍を追う事をしなくなっていた。


「伊藤様、主が申すにはどうにも釣られてはくれんそうです」

「でしょうね。それでもここ数日『よくやった』と言ったところでしょうか」


 陣頭指揮を執る三太夫に代わり、取次役を務めている熊太郎という大柄な忍びが状況の説明を終えた所である。

 百地三太夫、野瀬佐権次を司令塔に、伊賀忍は未だ吉田城近隣に広く展開している。


「熊の字、楓を呼んでください。それから、三太夫の所へ戻ったら展開中の部隊をここへ集めるように伝えて下さい。明日、早朝には動きたいので今夜中に、と」

「へい」


 先行して三河吉田城付近に展開している伊賀忍には、数名の女忍びも同行していた。その取りまとめを楓が行っている。

 しばらくすると、闇の中から小さな影が現れる。

 この日は空が曇り、月明かりは地表まで届いていなかった。


「楓、控えております」

「ああ、悪いね」


 伊藤は言いながらゆっくりと立ち上がった。


「水浴びに行きたいんだ。付いて来てほしい」

「え……ハッ」


 陣所の裏手にある河川は、決して深い川ではない。

 腰までつかればいいような川で、伊藤は冷え込むさ中わざわざ水浴びをした。息は白く、真冬の水は伊藤の肌を切り刻む。


「伊藤様、お体にさわります」

「いいんだ。それより楓、お前も入れ」


 まさか真冬の河川に入るなど思いもしていなかった楓だが、命令とあらば拒む理由はない。


「伊藤様、陣所で湯を用意させておりますので、御気が済みましたら温まって下さいませ」


 楓は言われるままに衣服を脱ぎ捨て、意を決して川に足を踏み入れる。冷たさよりも痛みのほうが強く、ものの数秒で顎が小刻みに震え始めた。


 腰まで浸かった伊藤は、身の感覚が徐々に薄れていくのを感じながら、冷え切った手で水をくみ自身の肩にかけ続けている。


(伊藤様……どうなされたのだ)


 楓は己の身体から体温が奪われていくのも忘れ、異様な雰囲気の伊藤の背にじっと視線を送り、その言葉を待った。


「冷えたかな……なあ楓、心まで冷やすのは容易ではないね。忍びの修行ではどうやって冷徹な心を手に入れるんだ?」


 質問の意図までは理解しかねるが、楓は楓なりに伊藤を想い、気の利いた事の一つでも言わなければならないと感じている。


「さぁ、わたくしは兄様方や女忍び共と違ってそれ程厳しい修行を受けてはおりません。父の政治の道具として使われる予定だったのでしょう。人を殺す術は習いましたが、己が生き残る術や他人を欺く術までは学んでおりません」


 皮膚が軋むように痛み、更にはその痛覚さえも奪い去る冷水の中、楓はゆっくりと歩き伊藤へと近づく。


「そっか。楓、何か望む物はあるかな。今ならそれなりの我儘も聞いてあげるよ」


 伊藤は振り向いて笑顔を向けたが、月明かりの無い闇夜の中で楓の姿を明確には認識できていない。楓が用意して岸に置いた小さな灯り一つでは、常人並かそれ以下の視力しか持たない伊藤の目には何も映しだせない。

 それでも夜目の効く楓には、伊藤の笑顔がしっかりと見て取れていた。


「御戯れを申されますな。わたくしが欲しい物、いえ、願う事は、常に伊藤様のお側にいる事だけで御座います。そこが例え地獄であろうと、楓は伊藤様のお側にありとう御座います」


 本心である。

 身を切るような冷たい水に腰まで沈め、震えの止まらぬ手で、楓は伊藤の二の腕に触れた。


「楓、そろそろあがろう。少し湯で温まったら、今夜は朝まで供にいてくれ」


 伊藤は冷え切った手で楓の肩を抱き、しっかりと引き寄せた。

 密着する二人の肌は、冷え切った川の中にあって異様なほどにぬくもりを伝える。


「伊藤様、何をお考えですか? いえ……何でもありませぬ。そうして頂けるのであれば、何も申しませぬ。ただお側にあり続けます」


 その夜、伊藤と楓は陣所に戻り体を温めると、朝まで互いの身体を寄せ合い、情を交わした。



 翌日。


 伊賀の精鋭が吉田城の北に位置する山間に集められた。多少数は減らしていたが、それでも千騎に近い。

 武田軍やその援護に駆け付けた戸隠の忍びとの戦闘で多少の被害を出したが、それでも武田軍の行軍に遅れを齎した功績は大きいと言えよう。


 とは言え、対する武田軍も被害が大きかった訳ではない。元々、朝倉の動き出しを待っていた部分も大きかったため、無理に進軍して被害を出す事を避けただけである。

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