第190話 八方ふさがり

■1572年11月

 美濃国 郡上八幡城

 石島家


 織田領内は大騒ぎである。


 性懲りもなくまた兵を動かした浅井さんを牽制するため、北近江へ向かった信長様率いる織田本隊は、浅井さんの応援に駆け付けた朝倉軍と対峙。

 聞いた話によると、信長様は地形を変えてしまう程の大規模な土木工事作戦で敵の攻め手を封じ、どうにか小谷城付近に敵を抑え込んでいるらしい。


 そんな中で起きた大事件。

 武田信玄さんの上洛軍がついに行動を開始したのだ。

 それに合わせて、東美濃で武田家との国境付近に勢力を持つ遠山さんが武田方へ寝返ったらしい。お城を任されていたのは信長様の叔母にあたる人で、その叔母さんに後見される形で信長様のまだ五歳の息子さんが形式上はお殿様だったはずなんだけれども。

 裏切りが世の常とされているこの時代、本当に分からない物である。


「殿、お茶のご用意が整いました」


 陽が用意してくれたお茶点ての準備、そこには一つの御茶碗がある。実は、信長様の御勧めで茶器を買いました。

 泣く泣く買った、という表現が正しいと思う。なんで茶碗一個があんなに高いのか、本気で納得いかないけれども長い物には巻かれなければ生きていけない世の中です。


「よし、今日は上手くお茶を点てるぞ」


 信長様のお気に入りの茶坊主さんが点てるお茶と、俺が点てたお茶はどう考えても同じなのだが、こないだ岐阜に行った時に丹羽長秀さんに呑んでもらったら「全然違う」とダメだしを食らったばかりである。


 茶器代で痛い出費はあったが、郡上の経済は至って順調。美紀さんや唯ちゃんがしっかりと管理してくれているお蔭もあって、税収は着実に右肩上がり。

 一度は半壊した軍勢も、今では千騎を越える兵を動かせるまでに戻り、十五くんと粥川くんが中心となって日々訓練に励んでいる。伊藤さんが言っていた「対武田戦」に備え、鉄砲も買い揃え中だ。


「ねえ陽。体調はどう?」

「殿がこうしてお側にいて下されば、体調の方もすこぶる良い状態が続きます」


 笑顔でそんな可愛い事を言ってくれる奥様だが、ちょっと痩せた気がするのだが、そうは言っても単純に大人になっただけな気もする。

 今年で二二歳。

 正にいい女盛りの奥様に、相変わらずデレデレな旦那様になっている。


 心配な体調だが、美紀さんの見立てによればどうも気管が弱っているらしい。空気が乾燥する冬になると咳き込むのは、喘息なのだろうか。


「陽、来年で俺達結婚五周年なんだよね。どこか行きたい所とかない?」


 新婚旅行にも連れて行ってあげれてない。この時代じゃ当然なのかもしれないけれど、俺は陽に感謝の気持ちを伝える手段として何でもしてあげたいと思っている。


「……? ずいぶんとお優しい事を申して下されるのですね。それでは少々我儘を申し上げましょうか」


 そもそもかなりの美人さんである。

 悪戯な笑みを浮かべて思案するその顔を眺めていると、ついついこっちもニヤニヤしてしまう。


 同年12月。


 織田領内に激震が走った。

 信長様が援軍を派遣していた三河の徳川家康さんが、武田信玄さんにボロ負けしたという知らせが駆け巡ったのだ。


 それだけではない。

 俺は急遽、岐阜城へ呼び出されている。


「殿、仕度が整いました」

「わかった。急ごう」


 十三くんが同行してくれる予定だが、俺達に遅れて陽や美紀さん達も岐阜へ向かう予定でいる。


「十三くん、心配ないよ大丈夫」


 心配そうな表情の十三くんを元気づけ、俺は皆に見送られながら郡上八幡城を後にした。


 俺が呼び出された原因は、俺に謀反の噂が立ったからである。噂だけでなく、実際に岐阜城の俺の屋敷が燃えた。


 それだけではない。


 伊賀では伊藤さんの配下となっている百地三太夫さんのお父さんである、既に隠居して百地家を退いたはずの百地丹波さんが反旗を翻し、伊賀名張の山で挙兵したというのだ。

 百地丹波さんの反乱は伊藤さんがあっさり撃破して今は収まっているそうだが、丹波さんは大和方面へ逃走。またいつ伊賀に戻って悪さをするか分からない状態である。


 雪が降り始めた山道を岐阜城へ急ぐ。


 北近江で対峙していた朝倉軍は、雪が降る前に撤退した。

 その為、織田の本隊は信長様と共に一度岐阜城に戻っているのだが、信長様が留守の間に俺の屋敷から出火した事で、岐阜城の緊張感はかなりの物らしい。


 翌日には岐阜城へ到着。


 重臣のお歴々が居並ぶ広間では、その視線を一身に受けながら信長様の目の前で平伏する俺がいる。俺のすぐ後ろには伊藤さんが同じように平伏していた。


「毬栗、他意はないな」

「ハッ。爪の先程も他意は御座いません」


 伊藤さんとは既に打合せが済んでいる。

 全くもって疑われるような事などしてない。堂々と否定すればいいという事になっているのだ。信長様の言葉に自信を持って答えた俺に、今度は柴田さんが詰め寄った。


「ならばこれは何じゃ。石島」


 柴田さんがドカドカと無駄に大きな足音を立てて俺の目の前にくると、目の前に書状の束を乱暴に投げ捨てた。


「しばらく」


 板についてきた武士語で応対しながら、置かれた書状に目を通す。


 その書状は、武田信玄さんが伊勢の北畠さんに宛てた書状。内容は単純に北畠さんを口説いている物で、武田の上洛に協力して船を出せという内容だった。いくつかの書状に目を通すと、気になる一文に出くわす。


『美濃郡上も既に内応済み』


 要するに俺の事だが、俺が既に武田家に内応しているという内容である。


「そのような事は一切ありません。もし仮にそうであるとしたならば、態々岐阜城の屋敷に火を放ったりは致しませぬ」


 この時代の情報は実に不確定な物が多い。

 寄せられる情報の中から、真実に近い物を探すのは一苦労だ。恐らく、信長様も俺が裏切っているとは思っていないのだろう。


「権六、よい」

「ハッ」


 案外あっさり引き下がった柴田さんも、どうやらそこまで疑ってはいないようである。

 柴田さんを下がらせた信長様は、じっと俺を見つめながらしばらく無言でいたのだが、ようやく口を開いた。


「毬栗、伊藤、三河へ援兵致せ」


「ハッ!」

「ハッ!」


 これは予定通りである。


 ただ、この軍事行動の直前に疑いが発生してしまっている以上、その潔白を証明する何かを求められたに過ぎない。

 そして、俺と伊藤さんは岐阜城に妻を置く事で人質とし、裏切らない事を誓う形を取ったのだ。


 俺と伊藤さんがしっかりと釈明会見を済ませ、予定通り対武田の前線を任される事になった。


 現在、織田軍で動ける将兵は限られている。


 木下さんは北近江で対浅井の最前線を務めている。

 明智さんは南近江阪本の地を拠点に、岐阜と京都の連絡経路を守り、同じく丹羽さんも南近江佐和山で連絡経路の守備。


 柴田さんは年が明けたら摂津へ入る予定でいる。

 石山本願寺対策は特に重要で、京都の足利将軍さんを失えば織田家は中央を治める大義名分を失うことになる。特に京都と隣り合わせと言える石山本願寺の動きは封鎖しておかなくてはならない。


 滝川さんは伊勢で旧北畠の勢力に睨みを効かせる役目となる。

 北畠さんの動きがとにかく心配なのである。武田家とのやり取りがされた書状が大量に拿捕された事で発覚したのだが、北畠さんだけでなく、元北畠の勢力には尽く武田信玄の誘いが送られているらしい。

 少しの油断が大反乱を招きかねない状態だ。


 佐久間さんは既に遠江へ援軍に行っており、徳川さんがボロ負けした時に逃げ帰ってきたばかりだ。一緒に援軍に行った平手さんが討死にしたそうだから、織田の援軍も武田軍に歯が立たなかった事になる。


 その他に有力な将としては、塙さん。

 塙さんは現在京都と大和の経略に当たっている。松永さんが謀反して自宅謹慎処分になっているせいもあり、塙さんが京都と大和の安定化に奔走中なのだ。


 森さん亡きあとの東美濃勢は、現在は織田勘九郎様の傘下に収められているが、遠山さんが寝返ったせいでその対策でてんやわんやである。

 既に何度か小さな戦が発生しており、東美濃の山岳地帯で岩村城という城をめぐって睨み合いが続いている。


 金田さんは摂津で石山本願寺対策中。


 美濃三人衆は氏家さんが戦死した事で最大戦力である大垣城の氏家家が弱体中。その上、近江から岐阜への壁役として不用意には動けない立地だ。西美濃四人衆と呼ばれる稲葉さん、氏家さん、安藤さん、不破さんの役目は岐阜城の守備と言えるだろう。


 とにかく、今の信長様は「手駒」が不足しているのだ。



◆◇◆◇◆


◇1573年1月

 三河国 浜名湖北岸

 武田軍


 前年に三方ヶ原で徳川軍に壊滅的打撃を与えた武田軍は、そのまま西へと進路を取ると浜名湖北岸で年を越した。


 そのまま一気に三河へ侵攻しなかったのは、包囲網形成の一角を担う朝倉義景が豪雪を理由に越前へ撤退した事が原因であった。

 信玄はそれを痛烈に批判する書状を送り付け、直にでも再出陣するように促しているが、再三に渡って近江へ出陣を繰り返した朝倉家は、度重なった戦費によって大いに弱体、疲弊していたのである。


 朝倉動かず。


 信長包囲網の形成は、東から武田、南から北畠、西から松永・本願寺・足利将軍、北からは朝倉・浅井。四方から取り囲む形となっていたのではあるが、朝倉が動かない為にその活動の遅れは深刻な物になっていた。


 織田軍が幾何か入り込んでいる京において、奉行衆を率いて挙兵するのは危険と判断した足利将軍義昭は、時勢が「織田不利」に傾き切るのを待つ日々を過ごしいた。


 それは伊勢の北畠も同様である。

 既に臣従を誓い、その家督を信長の次男に譲り渡している。

 今更それを反故にして寝返ったとなれば、失敗した場合には確実に攻め滅ぼされるであろう。そのため、こちらもより確実な確証が得られるまで、即ち、武田軍が織田領へ侵入するまで様子を見る事に徹したのだ。


「申し上げます。織田勢、苅谷に入ったとの事」


 本陣を訪れた伝令に、その小さな躯体をゆっくりと向けた山県が質問を投げる。


「数と将は」

「ハッ! 数は凡そ三千、大将は美濃郡上八幡、石島洋太郎長綱との事」


 質問を投げかけはしたものの、その情報は既に武田家自慢の諜報機関によって齎されていた物と同じである。

 その事も含め、武田家は今後の戦略を定めなければならない重要な局面に立たされていた。


 現在武田軍が取り囲んでいる野田城は、交通の要所ではあるが大きな城ではない。守備兵は僅か五百騎。力押しに押し込もうと思えば、吹けば飛ぶような小城である。

 そんな小城を三万もの軍勢で取り囲み、甲斐から金掘衆と呼ばれる金山の労働者集団を動員して水を奪うという大掛かりな作戦に取り組み、あえて時間を費やしていた。


「三郎兵衛」

「ハッ」


 重苦しい雰囲気の中、信玄が口を開く。

 体調はそれ程良いわけでもないが、山県の勧めで駿府へ移り療養したのが功を奏しているためかそこまで悪くも無い。


「我らが動かねば他が動かぬ。だが他が動かねばこのまま東海道を攻め上がるのは難しい」


 尾張で織田の本隊と対峙するような事になれば、三河と遠江は必ずや織田のためにもう一働きするに違いない。そうなれば背後を突かれる形となる。

 織田軍が岐阜から動けない状態、もしくは北近江や畿内へと遠征している状態でなければ、安易に尾張へと足を踏み入れるわけにはいかないのである。


「まずは東海道を狙うがな、無理はできん。木曽を使う方向も考えておけ」

「ハッ」


 徳川を攻め滅ぼすのは膨大な時間がかかる。

 とは言え、徳川を攻め滅ぼさないのであれば、包囲網が機能しない状態で尾張へ踏み込むのは危険である。


 包囲網による織田本隊の牽制が出来ないのであれば、武田は対徳川に専念して上洛を諦めるか、別の手段で上洛を目指すしかない。

 後者を選択するのであれば、現在地である徳川家の領国を足掛かりにするのは危険である。ならば、武田家の領国から直接的に織田領へ侵入する経路を取るしかない。


「朝倉め、織田を倒せとは言わん。せめて北近江へ引付けてくれれば一気に東海道を駆け上がれると言うに。期待は薄いが、その仕度も抜かるな」

「ハッ」


 このまま予定通り、包囲網の一翼を担う存在として東海道を西上するのか。

 それとも、武田家単独で織田家と戦う選択をし、武田領国である信濃から中山道を抜け織田の本拠地岐阜を狙うのか。


 どちらにせよ、武田信玄本人は己の命がそう長くない事を悟っている。遅くともこの一年を目処に勝敗を付ける覚悟を決めていた。



■1573年1月末

 三河国 苅谷

 石島軍


 苅谷という地に陣を構え、尾張方面からの補給を受け取れる体制を整えた俺達は、武田軍の来訪に備えて徳川の家臣さんとの打ち合わせを重ねる日々を過ごしている。


 岐阜城に人質として預けた陽をはじめ、美紀さん、唯ちゃん。伊藤さんの奥様である香さん、優里、瑠依ちゃん。

 女の子達のためにも、俺達はここで頑張らないといけない。


 ぶっちゃけ武田軍は怖い。


 俺はよく知らないが、徳川の家臣さんから話を聞いただけでもゾッとするレベルの最強軍団だ。なんでも『巨大な鉄の塊が坂道を転がり落ちてくるような』勢いらしく、そんなの人間が止めれるわけが無いと思ってしまう。

 東海道は冬でも郡上程の寒さではなく、幾分過ごしやすくはあるものの、武田軍の恐ろしさを想像すると寒気がする。


「伊藤さん、正直、武田軍を止める自信あるんですか?」


 日本酒と呼ぶには少々粗悪品、濁り酒を片手に伊藤さんと語らう。この人が「無理」だと言えば無理なのだろうし、この人が「出来る」と言えば出来てしまう気がする。


「いや、正直このまま東海道を進軍されたらまずいね。武田信玄さんの寿命が数ヶ月延びただけでも『絶望的』だと思うよ」

「え……それ冗談じゃなくてですか?」


 伊藤さんの口から『絶望的』だなんて言葉が出てくるとは思わなかった。


「ここで冗談言ってもしょうがないでしょ」


 濁り酒を一口に煽り、真剣な表情で言葉を続ける。どうやら本気らしい。


「武田軍が上洛しきれなかった要因は色々あるだろうし、その後衰退していった要因も色々あるだろうけど、どれを取っても信玄さんが長生きしちゃったら関係ないだろうね」


 武田信玄さんの所に村上さん達がいる以上、歴史の変革は十分に起こりうる。それに対抗するため、阻止するために俺達がここに来ているわけなのだが、相手が武田信玄さんではそうそう思い通りにもいかないだろう。

 伊藤さんが『絶望的』と言うその状況に、なってもらっては困るわけだが、こればかりは俺達にどうこうできる問題でもない。

 そうならないよう、祈るしかない。


「現段階で、既に武田信玄という人の体調は史実とだいぶ異なっている可能性が高い。そうなるとこっちもある程度は覚悟決めとかないと、びびってイモ引く事になるよ」


 いつもポジティブで俺を勇気付けてくれた伊藤さんも、この状況は楽観視出来ないという事は、これはとんでもなくピンチという事なのだろう。


「逃げちゃうっていう選択肢はあります?」


 ピンチには逃げろと言ったのは伊藤さんだ。


「無しではない。けど今後の事を考えたら、あまり賢くはないね。人質まで出しちゃってるから寝返るわけにもいかないし、逃げるだけでも『やっぱり裏切っていたのか』とか言われそうだし、やりたくないけど、やるしかないって感じかな」

「やるしかない、ですか。そうですよね」


 俺は、この時代に来て早々に直面した山賊達との激闘を思い出した。あの時は伊藤さん一人でどうにかしてしまったが、今回は俺だって役に立てるだろう。頼もしい家臣も多い。あの時はと違う、石島家としてこの難局を乗り切る。


「ありがとうございます。聞けてよかった」


 伊藤さんが言うように、やるしかない。

 俺の直感もそう告げている気がする。


(九郎様、見てて下さいね)


 この戦いが終わったら、京都の妙覚寺へ九郎様のお墓詣りに行こうと思った。せっかくだから、陽も連れて京都旅行も一緒にしたい。


 それにはまず、生きて帰らないといけない。

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