第115話 明智光秀

◆◇◆◇◆


◇1568年 7月初旬

 美濃国

 岐阜城 織田家


 いよいよ夏本番となるこの日、ここ数ヶ月ひっきりなしに出入りしていた面々が、一斉に信長の元を訪ねていた。

 以前にも訪れている顔ぶれながら、その人数は以前に増して大掛かりな様相を呈している。岐阜城を訪れているのは、足利義昭こそが正当な幕府将軍職に就くべきであると推す面々であった。


 その中心人物は、足利義昭が越前国へ逃れた先で重用するようになった者で、当時においては珍しい教養と博識を備えている人物で、名を明智光秀あけちみつひでという。


 足利義昭からの使節団は明智光秀を先頭に信長に謁見し、足利義昭からの書状を手渡す。


 信長は一読すると、近習に指示してその書状を丹羽長秀へ回した。丹羽長秀は書状を手にして高く掲げ、書状に小さく一礼するとそれを一気に読み込み、一言だけを漏らした。


「ふむ、ようやく我等をたのむという気になられましたか」


 織田信長が美濃を手中に収めてから、足利義昭の手の者はひっきりなし訪れては協力を要請してきていた。

 しかし、それはあくまで『協力』を求めていたに過ぎない。


 足利義昭から「上洛する際には支援してほしい」という内容に過ぎなかったのである。


 実際、足利義昭は上洛の為の軍勢を借りる宛に、いつくかの候補を上げていたのだがそれは次々と頓挫していた。


 甲斐武田家と同族の名門である若狭武田家は、内部抗争が激化したために上洛の為の軍を上げる事が出来ず、当主の弟を義昭に追従させるに留まり、天下に名乗りを上げる好機を逸した。

 次に頼った越前朝倉家は、上洛軍を上げるだけの力を持っていた。しかし領内の統治が優先し、一向一揆との争いが続く中で上洛には消極的であった。

 越前に滞在しながら足利義昭が最も期待したのは、室町幕府の要職である関東管領職を継いだ、越後の上杉輝虎うえすぎてるとらであった。


 義昭の兄である第十三代将軍足利義輝と親密な間柄にあった上杉輝虎は、義昭の求めに対して積極的な返答で上洛の意を示していたのである。

 しかし、上杉輝虎には動きたくとも動けない事情があった。

 長年に渡る甲斐武田氏との抗争は多少の収束はしたものの依然として継続中であり、その武田が仕掛ける調略によって国内の有力者による反乱が相次いでいた。


 関東管領動けず。


 この現実に焦りを抱いた足利義昭は、ついに信長を頼る事となったのである。


 丹羽長秀の言葉には「ようやく」という皮肉が込められていたのだが、明智光秀はその皮肉に対して事も無げに返答する。


「上総介様のご権勢、ようやく憑に値する物となりもうした。我等この日が来る事を待ち望んでおりました」


 一瞬、丹羽長秀の表情が硬くなる。


 明智光秀は丹羽長秀の皮肉に対し『織田家の力が強くなるのが遅かっただけ』と、やり返してきたのである。


「五郎左、良い」

「ハッ」


 この場の緊張は依然として崩れていなかったが、信長自身は既に腹を決めている様子である。


 返答次第では、織田家は将軍候補を抱えて大義名分を得る事になり、正々堂々と大腕を振るって上洛し、上手くいけば天下に大号令をかける立場となる。


「整うておる、早ういたせ」


 信長が明智光秀に向けたこの一言で、織田家中は全てを察した。


「有難きお言葉。しからば、近々に」

「明智と申したな。その方、幕臣ではあるまい」


 光秀の言葉を遮るように切り返すと、信長は身を乗り出して光秀を見つめている。この問いが何を意味するのか、織田家中にそれを察した者は多くない。


 だが、光秀本人は十分にその意図を掴み取っていた。


(今か、俺を高く買う主を断る理由などあるまい)


 意を決したように息をのみ、光秀は言葉を返す。


「厄介になっている身なれど、幕臣のお歴々とは程遠い身分。畏れ多き事」

「ふんっ」


 光秀の言葉に対し、不満とも取れる音を漏らした信長であるが、その表情は珍しく高揚していた。


 僅かの間を置き、自身の左右前方に鎮座する柴田勝家と丹羽長秀を交互に見る。そのまま何かに納得したように、正面の光秀に向き直ると再び口を開いた。


「五百貫で抱えよ」


 その言葉に広間は一瞬の静寂を保ったが、直にざわつきを見せた。当の光秀さえ、予想外の高禄にその禄が自分に向けられている物かどうか俄かに信じられずにいた。


(五百貫だと? こうも高く買われるか)


 この時期の織田家中で五百貫相当の俸禄の拝している家臣はそう多くない。並み居る織田家中の将を一足飛びに追い抜く大抜擢である。


「ハッ、至急稲葉山に屋敷を用意させます」


 丹羽長秀も当然驚いていたが、主の直観は全て信じる事にしている。


 それは丹羽長秀だけではない。


 この明智光秀の抜擢は、これから織田家が足利義昭を奉じて上洛するための布石となる。重要な使者を迎える席に、その程度の事も理解できない者は出席する事さえ出来ないであろう。


(うんうん、順調だね)


 目を丸くして驚く者、ため息をつく者、それぞれが驚きを隠せぬ中、金田だけは小さく頷いて安堵していた。


(さてさて、上洛戦の準備に入らないとな)


 七月の下旬になると、足利義昭が美濃へ到着。西方の寺に入り盛大な歓待を受けた。


 足利義昭と幕臣はそのまま近江方面の各勢力に対し、織田信長に対しての協力を要請。織田家の使者を伴った上使を次々と派遣し、織田家への協力体制の構築に腐心した。

 特に伊勢伊賀方面に対しては既に何度かの書簡のやり取りが終わっており、織田信長が腰を上げれば事も無く上洛が行われる手筈となっている。


 問題なのは織田家の戦費であった。


 八月に入ると、織田家の評定は戦費についての議論が激しさを増す。そんな時にひょっこり現れたのが、尾張の商家「伊藤屋」であった。


「分不相応の身なれど、お目通り叶いまして恐悦至極に存じまする」


 織田家面々を前に両手をついて深く頭を下げた伊藤屋に対し、信長は「何用か」の一言だけを向けた。


「はっ、此度は上洛の戦費に幾ばくかの与力をさせて頂きたく、誠に勝手ながら兵糧米を準備してまいりました」


 伊藤屋は傍らに控えさせていた長男に目配せすると、長男は持参していた帳面を取り出す。その帳面を受け取ったのは、信長の近習であった。


「これは……伊藤屋殿、これを全て?」


 帳面をペラペラと捲りながら、驚きの声を上げたのは堀久太郎。信長の近習として頭角を現し、現在ではその取次役として家中における立ち位置を掴み始めている。


 この時若干十五歳。


「はっ、来るべき時にと整えた備蓄米で御座います。今がその時と心得て馳せ参じた次第」


 伊藤屋の言葉に小さく頷いた堀久太郎は、その帳面を信長の元へ差し出した。信長は指し出された帳面を手に取る事も無く、その両眼は伊藤屋を鋭く見据えている。


 少々の静寂が流れた後、信長は短く言葉を発した。


「大義」

「はっ!」


 伊藤屋とて馬鹿ではない。信長の言葉が短い事など百も承知である。労いの言葉など求めてはいけない事を重々承知している。


 織田家に尽くした分の見返りは、既に十分得ているのだ。

 今後も尽くしていくだけの価値はある。そして、尽くした分だけの見返りを得られる事も確信している。


 伊藤屋は小さく一礼すると、そのまま評定の席を後にした。

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