非情の世
第69話 潰えぬ闘志
◆◇◆◇◆
◇1567年 7月30日夜
美濃国
郡上八幡城 遠藤家
遠藤慶隆の元に、二通の書状が届いていた。
一通は美濃三人衆の一人で、遠藤慶隆の舅にあたる安藤守就からである。その内容は遠藤にとって衝撃的な物であった。
長井道利が郡上にいては織田への抗戦が難しい、この状態で織田に攻められては織田に下るしかない、そうするに当たって不都合なので今すぐ
といった内容である。
香とは、安藤守就の娘で、遠藤慶隆の妻である女の事だ。
(離縁せよと言うのか)
遠藤自身、妻に対して特にこれといった想い入れは無い。とは言え、実によくやってくれている妻である。
安藤が先んじて織田の傘下に入るとなれば、当然敵同士だ。敵方の将の妻が自分の娘では安藤も立場が危うくなると言うのだろう。
(本気で寝返るつもりか? いや、もうすでに
遠藤の脳裏で、城下で広まった噂話が繰り返される。
そしてもう一通。それは美濃西保城の主である
美濃三人衆と並び称される傑物で、不破光治を含めて西美濃四人衆と称される事もある。その不破からの書状の内容は、安藤からの書状の内容を裏付ける物だった。
長井道利が不在の間に織田が兵を挙げれば、美濃三人衆は長井道利不在を口実に織田に寝返るであろう。わざわざ美濃三人衆に寝返る口実を与えるとは解しがたい。今すぐ戻って美濃三人衆に睨みを利かせるべし。
もし、郡上にて石島に敗北を喫するような事態になれば、その一事のみでさえ寝返りの口実になりかねない。くれぐれも慎重に行動しながら、今すぐに帰還してほしい。
不破からの書状を一読した遠藤は、自分達がまんまと敵の策に引っかかった事に気付いた。気付いてすぐ長井を城へ呼び戻したのだが、しばらくたっても長井自身が郡上八幡に到着していない。
昨夜の敗戦の知らせは遠藤にも当然届いている。これ以上戦を長引かせれば、問題は郡上のみならず斎藤家全体にまで及んでしまう事になりかねない。
「遅い……父上殿はまだか!」
「ハッ! 既に城下にお入りです、間もなくご到着なされるかと」
「ええい、よいわ! こちらからゆく!」
出迎えた遠藤は城門で長井と遭遇すると、両名からの書状を手渡した。
「こんな暗がりでは文字など読めるか戯け!」
不機嫌な長井は篝火の側に寄り、安藤の書状に目を通す。
「ふん、こやつは信用ならん男よ、呆れて物も言えんわ」
長井は安藤を信用していなかった。
数年前、安藤は美濃斎藤家の主である斉藤竜興を稲葉山城から追い出し、一時的に占拠した事がある。
その占拠騒動で活躍したのが、遠藤と同じく安藤の娘婿である
その時は、斎藤家の重臣や美濃の諸勢力が安藤の行動を非難し、支持を得られなかった安藤は大人しく稲葉山城を返還した。
しかし、一度は主家に対して弓を引いた人物である。生粋の斎藤家臣である長井にしてみれば、安藤など信用に足る人物ではないのだろう。
長井は安藤からの書状を遠藤に付き返すと、不破からの書状に視線を移す。
読みながら、長井は顔色を失った。
「……己の非を認むるは悔しいがの、光治めの言いには一理ある。近日中に戻らねばならんな」
長井は敵を侮っていた事を後悔し始めていた。
遠藤が長井を伴って軍議の席に戻った時、そこには見慣れない人物が加わっていた。
「誰ぞ」
遠藤の問に、その者は深く頭を下げて名乗る。
「ハッ! 別府四郎が手の者、名を藤十郎と申します」
(クソじじいの手の者だと?)
遠藤が言葉を発する前に、長井が怒気を発した。
「おのれ! 斬られる覚悟は出来ておろうな!」
長井は藤十郎ににじり寄りながら刀に手をかける。
「無論! ご不要とあらばお斬りくだされ!」
藤十郎は勇ましく声を発すると、遠藤に向って言葉を並べた。
「本日の夕刻より、石島軍には商人や遊女屋が入り込み宴が開かれております」
そこまで聞いた長井は小さく舌打ちすると。
「知っておるわ忌々しい」
吐き捨てるように藤十郎に言葉を浴びせると、自分の感情を押し殺しながら腰を下ろした。
遠藤は藤十郎をじっと見つめている。この男の真意を探ろうとしていたが、それ自体が無駄な行為であろうと気付く。この男の言う事が嘘であろうと真であろうと、本人は真であると疑わずに話すのであろうから、例え嘘であっても差は出ない。
「話せ」
遠藤はこれから話される事が嘘である事を前提に、藤十郎の話を聞く事にした。
「ハッ! 宴の折り、姉小路頼綱殿がお倒れになられました」
「なんじゃと!?」
嘘だと決めて聞いていたが、話の大きさについ身を乗り出してしまった遠藤は、これが嘘ではなく真である場合の利点に憑りつかれ始めていた。
「詳しく申せ、容態は!」
「ハッ! さほど悪くは無いという噂ではありますが、我が主が見舞った所、どう見ても立てる状態ではないとの事」
「そうか……別府殿はどうされるつもりじゃ」
この使者の本来の目的は、恐らくこの次に話されるだろうと遠藤は理解できている。
「ハッ! 姉小路軍は明日の夕刻まで陣を張り、明後日には桜洞に向けて帰還を開始するとの事。そうなれば石島に戦う力はなく、我が主が石島を討ち取り、その首を郡上八幡に献上に上がるとの事でございます!」
(これが本当だとすれば、この戦はあと二日で蹴りが付く)
長井が郡上に来てからまだ三日である。
織田が動く前に勝負を付けてしまえば、誰彼に咎められることも無いのだ。
何かを思案し始めた遠藤に変わり、長井が使者に返事を返した。
「相、分かった、戻られよ」
「ハッ。これにて」
使者がその場を去ると、長井はすぐに部下を呼びつけた。
「荘助の奴が上手くやったのかもしれん、確かめよ」
「ハッ」
その会話に、遠藤が目を丸くして驚いていた。
「父上殿!?」
「ふん、ただでは転ばぬわい。商人の中に我が手の者を紛れ込ませただけよ」
顎に手を当てながらそう言う老人の目は、未だ消えない闘志が光り輝いていた。
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