春よ、来い

「春よ、来い」

「へっ?」


 昼休み、お弁当を食べた後パート練習の教室でぼーっとしてたら、突然背後から声がして一瞬にして眠気がどこかへ吹き飛んでいった。おそるおそる振り返ると、僕の後ろにいたのは柑本こうじもとさんだった。


「え、っと……?」


 なにがなにやら分からず困惑していると、柑本さんは僕にフルートを突き出す。……うーんと、フルートで"春よ、来い"を演奏してほしい……ってこと、なのかな? ……僕が? 僕に?


 とりあえずフルートを受け取り、柑本さんの動向をうかがう。柑本さんって、本当に必要なこと、しかもそれを単語でしかしゃべらないから、二人きりの時はこれでいいのかなってすごくどきどきする。もし間違ってて、機嫌を損ねちゃったらと思うと。今のところは奇跡的に大丈夫なんだけど。


 それで、柑本さんはというと、少し離れたところに置いてあったフルート――うら、鵜浦ううらくんのフルートを手に取り、かと思えばこちらに戻ってきた。そして手近な椅子を引っ張ってきて、僕の隣に腰を下ろす。


「えーっと……デュオかな?」

「1st」

「僕が1st? メロディを担当すればいい? ……の? 柑本さんが2nd?」


 すでに音出しをはじめてる柑本さんに尋ねると、おそらく頷いたのできっとそういうことなんだろう。1st、の時はじっと目を見て言われたし、つまりは僕が1st、柑本さんが2ndで一緒に"春よ、来い"を演奏しよう、って意味で、合ってる……はず。


 余談だけど、躊躇なく人の楽器に口をつけるってなんだかすごいな……。吹奏楽部ではそういうのはあんまり気にしないとも言うし、柑本さんも気にしないタイプなんだろうけど、うら、じゃなかった、鵜浦くんは気にしそう。まして異性相手だし……。


 あ、柑本さんはクラリネットだけど、フルートも吹けるみたい。いつだったか、その時も僕ひとりだけだった時に、パート練習の教室に柑本さんがやってきて、無言でじーっと顔を見られた後、「いいですか」とだけ聞かれて、わけが分からないまま頷いたら、おもむろに僕のフルートを手に取ったんだよね。そして吹き始めた音色のきれいさったら。すごく透き通った音色だったことを、よく覚えている。

 ……そのあと、練習の前にちゃんとリッププレートはハンカチで吹いたからね? 汚いとかそういうわけじゃなくて、なんというか、気になるじゃん? 少なくとも、僕は気にする。


 一分ほど音出しをした後、楽器を構えた柑本さんが僕の目をじっと見つめる。準備OKの合図だろう。ぽんぽん、と手のひらで膝を何回か打って、テンポを確認して、僕も楽器を構える。


 合図とともに、同時にブレスをして、演奏が始まる。僕のピアノのイントロの裏で、柑本さんの伴奏の低音が重なって響く。Aメロからは、柑本さんは上ハモリに移行する。メロディと上ハモリのままBメロが終わり、サビは下ハモリへ。そしてイントロを繰り返す。


 目の前に楽譜があるわけじゃない。前から打ち合わせをしていたわけではない。それなのに僕と柑本さんのハーモニーがきれいにマッチして、狭い教室に響く。調和するハーモニーに耳を傾けつつ、柑本さんってすごいなぁ……と感心している間に演奏は終わっていた。


「あ」


 演奏が終わった後、余韻に浸っていたら、声と共に柑本さんの腕が伸びてきた。


「へ?」

「……桜」


 そのことに気付くより少し早く、桜の花びらを僕の髪からとって僕に見せる。窓、開けてたから春の風に乗って知らない間に入ってきてたのかな。


 なんとなくその花びらを受け取り、手のひらに乗せて観察していると、ドアの開く音が聞こえた。顔を上げると、柑本さんが出て行くところで、僕の視線に気づいたのか柑本さんは足を止め、こちらに振り返る。


「ありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げて、それだけ言うと柑本さんはドアを閉めて去って行った。遠ざかる足音を聞きながら、ふぅとため息をひとつ。

 楽しかったけど、まだまだ柑本さんのことは、よく分からないな。


(でも、またできたらうれしいな)

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