千本桜
「千鳥がやりたいって言うなんて意外だったよ」
「まあ、たまにはな。いろいろと挑戦してみるのもいいかと思って」
アニメソングは国民的アニメ以外のものは顔をしかめ、ゲーム音楽もスーパーマリオやファイナルファンタジーなど、一般の楽団や学校でもたびたび演奏されているようなものでも首を傾げるような千鳥に、VOCALOIDの曲をやりたいと言ったら、首を縦に振るとは誰も思わないだろう。千本桜を演奏することになったのは、多数決でやりたい人が多かったからだが、なんと今回はその中にめずらしく千鳥もいたのだ。おそらくその場にいた千鳥以外のほぼ全部員が、千鳥のほうへ視線を向けていた。
「逆に俺はあんまり乗り気じゃなかったけどね」
「なんでだ?」
「金管暇なんだよね。伸ばすか刻んでるかだからつまんなくて」
「そうなのか……。それはすまなかった」
今、有牛の手元にはないが、千鳥の楽譜とは対照的にトロンボーンの楽譜は白かった。細かいリズムが多いのも大変だが、ひたすら伸ばしているだけ、刻んでいるだけというのもそれはそれで大変だ。
「ねえ千鳥、イントロ吹いてみてよ」
千本桜のイントロは、約三十秒間クラリネットとサックスが忙しく八分音符と十六分音符を刻んでいる。そう難しくはないのだが、いかんせん長いのと運指が左手の人差し指付近であまり動きが良くないので、個人練習では集中的に練習していた。
「明日合奏があるだろ」
できないわけではないし、少し吹いてみるくらいなら、とは思うのだが、あの千鳥が手を上げるなんてと後ろ指をさされるくらいには、千鳥自身も自分にVOCALOIDはイメージがないというか、現に存在は知っていてもなんとなく抵抗があって避けてきたものだし、なんだか気恥ずかしい。
「そうだけど、今できなかったら明日もできないかもしれないし、一回やってみたら?」
有牛の言うことはもっともで、千鳥は眉間にしわを寄せる。それに、失敗する可能性はあっても、そもそもできない、自信がないというわけではないのだ。初見の時こそ苦戦したものの、今では難なく吹けている。
そんな千鳥を尻目に、有牛は譜面台に置いていた千鳥のチューナーを勝手に取ると、メトロノームを楽譜に書いてあるテンポに設定する。規則的な電子音に合わせて、有牛がクラリネットの楽譜を口ずさむのが聞こえた。
「最初からインテンポはきつくないか……」
「じゃあもっと速くする?」
「なんでだよ。普通は遅くするだろ」
「あえて速いテンポで練習して慣れるのも手だよ」
「分かった分かった、インテンポでやるよ」
何食わぬ顔で有牛がどんどんテンポを速くしていくので、慌ててそれを止める。おとなしく上げたテンポを下げてくれたので安心したが、チューナーは有牛の手にあるので、果たして本当にインテンポに戻してくれたのかは分からない。インテンポよりもやや速く感じるのは、気のせいだろうか。
「あ、ちょっと待って。楽器持ってきてもいい?」
「有牛もやるのか?」
「うん。だってクラ、最初ないじゃん。俺最初あるから、つなげてやってみようよ」
クラリネットとサックスの忙しい部分がはじまるのは、半拍のアウフタクトを除いて五小節目、楽譜の練習番号でいうとAから。クラリネットはそれまで休みだ。Aまで動いているのは主に金管。
一回吹いてみるだけだし、何もそこまで。そう言おうと千鳥が口を開くより先に、有牛はさっさと楽器を取りに教室を出て行ってしまった。今日のトロンボーンのパート練習場所はクラリネットの隣の隣の教室だから、戻ってくるのにそう時間はかからないだろうけれど。
「お待たせ」
案の定、足音が遠ざかっていったかと思えばすぐにまた近づいてきて、三十秒と経たずに有牛は戻ってきた。もちろん、その右手にはトロンボーン。
千鳥の横に並ぶと早速楽器を構えて、有牛は軽く音出しをはじめる。有牛が息を吹き込むと、鈍いイエローの輝きを放つベルから、トロンボーンらしい太い音が飛び出す。昼食をとるために三十分ほど放置していたせいでピッチは少し低くなっているが、音量は出だしから安定していた。
しかし、いつも思うのだが、トロンボーンは目印がついているわけでもないのに、なぜああも的確にスライドを動かせるのだろうか。たった三つのピストンで二オクターブもの音を出せるトランペットもだが、木管からすると金管はいろいろと不思議でならない。
「んじゃ、俺のタイミングで始めていい?」
「どうぞ」
千鳥のチューナーでテンポを確認し、体に覚えさせた後、有牛はトロンボーンを構える。クラリネットは最初五小節は休みといっても、テンポの速い曲だからすぐに出番がくるから、その隣で千鳥も楽器を構える。
本来、楽譜ではアウフタクトにはトロンボーンは音がないのだが、今だけ耳コピでアウフタクトから吹き始める。アクセントのついた四分音符がフォルテで四つ鳴ったら、例の忙しいイントロが始まる合図。八分音符はテヌートで、十六分音符はスラーをかけて。アーティキュレーションにも気を付けて、なおかつ走らないよう、遅れないよう、テンポも意識して何度も同じフレーズを繰り返す。
「こんな長かったっけ」
一回も間違うことなく、おそらくテンポからずれることもなく吹き切った後、勢いで思わず吹いてしまったメロディを途中で止めて有牛が呟く。まったく予想していなかった台詞に、千鳥はがくりと体の力が抜けた。
「確か三十秒くらいはあったかな」
「そんなに長かったっけ。まあいいや。お疲れ。無理言ってごめんね」
「いや、午後の練習の課題が分かってよかったよ。それより、ずれてなかった?」
「俺が聞いた感じは大丈夫だと思うよ。ところどころちょっと走ってるかもってとこはあったけど」
合奏の時にできなければ意味がないが、とりあえずはほぼ完璧に吹けていたようで安心する。千鳥なら絶対に最初から、特に不安に思っている箇所があればインテンポかもしくはそれ以上のテンポで練習することはしないが、やってみると案外、自分が思っているよりはできるらしい。
「俺も吹きたいなぁ、ここ」
「……トロンボーンで?」
「うん。楽しそう」
「トロンボーンでやるのはきつくないか……」
「だから楽しいんじゃん」
「……こう言ったら失礼だけど、有牛ってマゾだよな……」
「楽器やってる人ってみんなそうじゃないの?」
あっけからんと言った後、早速千鳥の楽譜と向き合ってトロンボーンでそこを吹き始める。最初からインテンポで挑戦して、しかもなぜか数小節はつまずかずにほぼ楽譜通りに吹けているあたり、有牛はやっぱり変態だなと千鳥は思った。
(変態は褒め言葉、だっけか)
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