冷え切った楽器とかじかんだ指先

 三年生が引退して、早いもので気が付けばすでに一ヶ月以上が過ぎていた。



 放課後、真っ暗な校舎内にぽつんと一室だけ明かりがついている様子は、廊下から見ると少し不気味だ。

 フルートの音が聞こえるそこを覗いてみると、隅のほうで窓に向かってフルートを吹いている男子の姿が見える。よく見るとその男子から少し離れたところに、きちんと並べられた机の中に紛れるようにして地べたに座っている男子がいた。間近のフルートの音を聞いているのかいないのか、膝に乗せた色とりどりのふせんが飛び出している参考書を熱心に読んでいる。辺りには単語帳が散乱していた。


 放課後は原則として暖房を入れられず、ここが特別教室で普段あまり使用されないということも相まって室内は冷え切っていた。ブレザーの下にカーディガンを着込み、室内にも関わらずマフラーを着用しているが、あまり意味はなしていなかった。ないよりはましだろうが、それでも寒いものは寒い。


 不意にフルートの音が途切れ、吹いていた男子がフルートを膝に置き、もう片方の手にはぁと息を吹きかけた。一瞬ほんのりとあたたかくはなるものの、冷え切った指先を完全にあたためることはこの状況では不可能だ。カーディガンの袖を伸ばして指先まで覆う。


「相変わらずやな、鳩村はとむらくんは」

「へ? す、すみません……」

「演奏のことやなくて。さっきから何回か先生通ってるから声かければええのに」


 演奏のことを言ったのではないと言われてほっとしたのもつかの間、鳩村と呼ばれた男子は縮こまらせていた体をさらに縮こまらせた。


 彼――フルートを吹いている方の男子の名前は鳩村はとむら朔楽さくらといった。


 朔楽にとって、自分から誰かに声をかけることは簡単なことではなかった。たとえ相手が同級生だろうと、後輩だろうと、先生だろうと、容易にできることではない。

 先ほど放課後は原則として暖房を入れられないといったが、先生に声をかけると運が良ければ入れてもらえることもある。もうひとりの地べたに座っている男子――鴨部かもべが言いたかったのはそういうことだ。


 教室の前を通り過ぎる先生に気付かなかったのは、練習に夢中になっていたからだと心の中で言い訳してみる。それからそう、廊下側には背中を向けているから。だから気付かなくても仕方ない。

 ただ、自分も寒いが同じ部屋にいる鴨部も同じように寒いのだから、そこまで気が回らなかったことは申し訳なくて、朔楽は寝癖でぼさぼさの頭をくしゃりとかく。


「なあ鳩村くん」

「はい?」

「俺がなんであんまり部活に来なかったか、鳩村くんは知ってる?」

「えっと……勉強が忙しいから……ですよね?」

「鳩村くんは純粋やなぁ」


 ぷっと吹き出してけらけら笑い出す鴨部に、朔楽は恥ずかしくなってかあっと顔が熱くなるのを感じた。


 鴨部があまり部活に来ないのは勉強が忙しいからと言ったのは鴨部本人だったはずだ。そのことでよくため息をついては朔楽に愚痴をこぼしていた千鳥も同じことを言っていたし、部活に顔を出してほしいと毎日のように思っていたが、それならば仕方ないと思っていた。


 文化祭が終わり、引退してからほぼ毎日のように鴨部は朔楽のところへ来ていた。鴨部と一緒に練習した時間の合計よりも、引退してから一緒に過ごしている時間のほうが、もしかしたら多いかもしれない。

 なぜ毎日のように来るのか、何日か前に勇気を出して聞いてみたが案の定理由は教えてくれなかった。教室だと勉強に集中できないし、家だと誘惑に負けてしまうからだと言っていたが、無音はかえって集中できないとはいえ自分のフルートの音を聞きながら勉強なんて尚更頭に入らないのではないだろうか。ネガティブな朔楽はそう考える。

 朔楽の練習を見てくれるわけでもなく、いつも定位置に腰を下ろしては参考書や単語帳とにらめっこしていた。


「あんなん建前に決まってるやろ」

「え? そうなんですか?」

「ほらそうやって鳩村くんは俺がなんか言ったらすぐ信じるやろ? おもろいなぁ」


 再び笑い出す鴨部。それを見つめる朔楽の口はぽかんと間抜けに開いていた。


 言われたことを疑うことなくすぐに信じてしまう性格なのは自覚していた。明らかに盛ったような話は気付くが、ちょっとした嘘やデマには気付かず基本的には鵜呑みにする。少し話しただけでも、朔楽は詐欺に引っかかりそうだとよく言われる。


「本当はただサボってただけやったらどう思う?」

「どう、って……」

「怒るよなぁ? 今までずっと勉強で忙しいから来ないと思ってたんやもんなぁ?」


 もしも、鴨部の言うことが本当だとしたら自分はどう思うのだろうか。鴨部の言うように怒るか、それとも尊敬から軽蔑に変わるか、それとも。


 考えてみてもどこにも行き当たらないのは、朔楽にはそうは思えなかったからだ。自分が部活を頑張っている間に鴨部が何をしていたか、実際に見たことがないから分からないというのもあるし、根拠はないけれど鴨部が不真面目な人間だとは朔楽には思えなかった。


 学年も違うし、部活でもパートが同じなのに鴨部があまり部活に来ないことで接点が薄いから、鴨部のことはよく分からないはずなのに、鴨部が実はサボっている、とは朔楽は信じ難かった。なぜかは自分でもよく分からないし、否定すればまた純粋だと言って笑われるのは目に見えているから、口には出さないけれど。


「でも、みんなが知らないところで練習はしてたんですよね」

「なんでそう思うん? もしかして見てたんか?」


 相変わらず鴨部の顔は笑っていて、嘘をついているのか、本当のことを言っているのかは表情からは読み取れない。


「だって、鴨部先輩、合奏には来てたじゃないですか。個人練習とかパート練習には来ないのに、間違えたりつまずいたりしないで、どんな曲も吹けてたから……」

「それはあれや、俺に才能があるからや」


 今度は冗談っぽく言って笑った。


「鳩村くんからしたらミスなんてまったくなかったのかもしれんけど、まったくミスしない人間なんておらんやろ、ましてほぼ初見で合奏してミスなしなんて」


 少なくとも、隣で聞いていて朔楽は鴨部が大きなミスをしているようには思えなかった。朔楽が気付かなかっただけかもしれないが、先生の代わりに指揮を振ることが多い千鳥ちどりや、耳のいい響介きょうすけも合奏で鴨部に口を出すことはあまりなかったように思う。


「ま、でもそう思われてたんやったら嬉しいかもな」


 参考書を閉じ、辺りに散らばった単語帳を回収しておもむろに鴨部は腰を上げた。座りっぱなしで痛くなった腰をさすりながら、朔楽の横を通り過ぎる。


「俺は上手い人っちゅーのは、才能とか技術もあるやろうけどな、できないところを上手くごまかしてる人だと思うねん」


 ドアに向かっているであろう足音がぴたりと止まり、少し遠くから聞こえた鴨部の声。


「俺はそうしてただけや。鳩村くんはそう思っとったっちゅーことは、上手くごまかせとったっちゅーことやな」


 ドアの開く音、そして足音、そして閉められる音。


 目の前のカーテンをぼんやり見つめながら、思考が追い付かない頭で練習に戻らなくちゃ、とだけ思った。フルートを構え、冷え切った楽器に息を吹き込む。


 練習を再開してすぐ、つまずいて手を止めた。そしてふぅと小さくため息を吐く。


 朔楽が見つめる視線の先には、楽譜を渡されてからずっと苦戦している連符があった。


 ――もし、鴨部だったら。自分が今つまずいているこの連符を、どうごまかして吹くのだろうか。


 シャーペンで何度もぐるぐると囲まれた連符を見つめながら、朔楽はぼんやりと思った。

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