短い文章

青段

私の影踏み



きっかけが何だったかはわからない。

中学に入ってから私はこっそり、自分の影を特別視し始めた。

自分の影が好きになったのだ。わかりやすく言えば自分の影に恋していた。初恋だった。


影は光がある限りついてくるので毎日が常にデートだったし、大人しくっていつでも文句ひとつ言わない。けれども位置関係によってはしっかりリードしてくれるし、そのうえ光源の数だけ分身してくるのだ、理想の相方であった。


そして私は理想の相方である影の形を美しく保つために、理想的な恰好を作っている。


そのためにはファッションの細かいルールなど気にしない。前髪なんかどうでもいい。影がよければそれでいい。ただただ問題なのは自分の輪郭だけだった。全方位に対してなるべく等しく美しい形でいたかった。

その一環として、髪は全方位思い切り伸ばしたし、セーラー服の上着は丈を切り詰めてからその裏地の胸と背中の部分に控えめなパッドを縫い付けて、スカートは腰の部分で少しだけ短く織り込むという少し攻め気味な改造を施した。


しかしながら、中学生が髪を思い切り伸ばしたり制服をあちこち改造するのは、結構悪目立ちすることだったらしい。おかしい、私の見たインターネットには、みんな普通にやることだって書いてあったのに。

おかげで、生活指導に目をつけられるようになってしまったし、クラスメイトからは不良を見るような目を向けられることは少なくない。私は髪を染めたり、悪い連中と関わったりしてないというのに。


まあ、それでもいいと思う。私には、私の愛しき影がついているのだ。

私は、人間が二本の足を持ったのは、夕日が作る美しい影を伸ばすためなのだと胸を張って家族に説明した。


母も、「いいんじゃない」と言っていた。

父は、「そういう時期もあるさ」と言ってくれた。


私たちの関係は、家族以外には明かしていない。

理解されるとは思えないからだ。クラスメイトや先生は、私のこの恰好を漫画のキャラかテレビの芸能人にでも影響されたと思っている。

それでいいんだ。私は私の影と暮らせれば、ほかの人間などどうでもいい。平穏を崩さないための最低限のコミュニケーションだけとっていればいいんだ。私の影は美しいんだ。


そう自分に言い聞かせて暮らしていたある日のことである。


二時間目が終わって少しあとに、数学教師と入れ替わりに教室に入ってきたのは、学級担任だった。三時間目は体育のはずである。いぶかしむ生徒たちに彼は説明を始めた。


「今日の体育は先生が出張で休みだ。代わりに、何でもいいから体を動かす遊びをしろ。競技は自分たちで決めるように。なるべく普通のやつな。ほら学級委員長、前に出て仕切れ。俺は自分の仕事をしてるから。それと、はやく決めないと、時間がなくなるから急いだ方がいいぞ」


思ってもなかった自由時間に、教室中が色めき立った。


「ドッヂボールしようぜ!」

「痛いからいやよ。ここは大縄跳び大会で!」

「バスケだろ!安西せんせー!バスケがしたいでーす!」

「俺が氷鬼で全員エタフォかけるから!」


黒板と熱心に向き合う学級委員長の真面目眼鏡は、好き勝手に挙げられていく意見を几帳面に書き連ねていく。


そんな中、ある男子がぽつりと言った。


「影踏みやりたい」


その声は大きくはなかったけれど、内容のわりに妙に落ち着いた声だったので、立派な意見として聞き入れられて黒板の端に書き加えられた。


それから一分足らずで競技の募集は打ち切られて、残りの四十分をどう過ごすか、クラス全員の多数決で決めることになった。

学級委員長により、順番に遊びの名前が読み上げられては手がぱらぱらと上がり、それをまた学級委員長が一人ずつ数え上げていく。


結果、氷鬼派と影踏み派が同数でトップということがわかったので、氷鬼形式の影踏みをすることになった。

ルールは簡単。チームに分かれて、鬼側が影を踏んでいる間、逃げる側は動けないというものだ。鬼側の人数が多めになっているので、走り回りたいやつは走りたくないやつに看守をさせればいい。自分の影を踏んでいる鬼が退くか、味方にタッチされるともう一度動ける。どちらかというと氷鬼よりもケイドロに似ていた。


こうして三時間目は影踏みになった。なってしまった。


私は皆が多数決をとっている間、窓の青空を観察しながら現在の選挙制度における一票の格差について思いを馳せていたのだが、これから行う遊びが影踏みに決まった瞬間こそは飛び上がりそうになった。



だって、あんなつまらなそうな遊びを皆が選ぶとは思わないじゃないか。


ふつう、ボールとか縄とか使いたがるだろ!使えよ存分に!



対立案をうまく折衷したからか、誇らしげな学級委員長が学級担任に報告すると、黒板の左側の教卓に座る学級担任はテストの採点をやめて顔を上げた。


「ん?決まった?え、影踏み?珍しいな。じゃあそういうことで、お前ら更衣室で着替えたら校庭に速やかに移動しろ。あと廊下は静かに歩くように」


私はひとり、更衣室にで着替えながら考えた。

私は影を踏まれるわけにはいかない。私の大切な人、いいや影なのだ。踏ませてなどたまるものか。しかし、鬼側が多いし、十分に時間があるので一度も影を踏まれずに逃げおおせることは難しいかもしれない。

だったら、追いかける側になってサボればいい。

なんだ簡単なことじゃないか。

私は胸をなでおろして、校庭に移動する女子たちの列に加わって歩いた。


校庭についた私に待っていたのは、先に着いていた男子たちとリーダー格の女子による無慈悲なチーム分け会議だった。


「チーム分けどうする?」

「めんどいし、番号の前半と後半にしようぜ」

「それでいいよね。公平だし。じゃあ前半が鬼で、後半が逃げるってことで」


このクラスの人数は三十二人で、私の番号は二十六番だ。


私たちはこうして、校庭を羊のように走りまわることとなった。必死に逃げ続けて、もう十数分だ。だんだんと走っている人数も少なくなってきて、鬼たちの追跡が激しくなってきた。

慣れない運動に汗が噴き出る。もう九月とはいえ、未だに気温は二十度を超えている。

でも、久しぶりの運動は意外と楽しかった。汗をかいても、走っていれば風が体を冷やしてくれる。

いつも体育は適当にこなしてて、部活もやってないから気付かなかった。

私はだんだんと気分がよくなってきたけれど、すぐに後ろから追いかける鬼たちの存在を思い出した。

いやいや、確かに運動は爽快だけど、なぜおまえらに私の大事な影を踏まれなければならないのだ。


私の大事な影だぞ。


お前ら、自分の宝物や恋人を足蹴りにされたらどう思う!


普通、とてもつらい!


「おい!そっちに逃げたぞ!」

「あいつ、あんなに足が速かったのか!」

「私はあっちに行くから!あんたはそっち!」


後ろから、連携した男女の鬼が追いかけてくる声が聞こえる。

私は、その声に追い立てられながら必死で逃げる


やめてくれ。

私の影を踏まないでくれ。

お前らは遊びかもしれないが、私は本気なのだ。踏まれたら、なんかこう精神的にやられてしまう。再起不能だ。


でも、右側を走る私の影は、長い髪がなびいてかっこいいなあ。さすが私の影だ。体育の時間は短パンしか履けないけど、これはこれでいいかな。

もうちょっと背筋は伸ばしたほうがいいか。腕はもっと大げさに振ろう。あごはもっと引いて。

私は走りながら、美しい影を作るために姿勢を調整していた。

そして気が付くと私は校庭の角にいた。


完全に詰んだ。


「よし!追い込んだぞ!」


声変わりを終えたばかりの低めの声に、私は振り返った。いつの間にか私を追いかけていた鬼は一人だけになっていた。彼はクラスで三番目に足の速い男子だった。額を流れる汗をぬぐいながら、深く肩で息をしている。


相手がそんな体たらくでも、角に追い詰められてしまってはどうしようもない。

私は隙を伺ったけれど、左右の雑木林に入ることは禁じられていたので、動くことができなかった。右後ろ側から太陽光がかかって、影が左斜め前に伸びている。彼からだと、私の影の先端は数歩で届いてしまう位置にあった。


「影ふんだ!」


威勢のいい声とともに、体育用の短パンを履いた男子の足が、私の影の、顔にあたる部分を思い切り踏み抜いた。

私は影を踏まれてしまった。

しかも頭を!

もうだめだ!

私は動けなくなった。ルールのせいではない。私の美しい影が踏みねじられて悲しかったのだ。完全に泣いた。


「うっく……ひっく……私の影が……」

「え、なに泣いてるの」


急に泣き出したので、私の影を踏んでいるクラスで三番目に足の速い男子は、未だに遠くを走り回っている男女を気にしながら、手を出したりひっこめたりして慌て始めた。よく見れば、影踏みを提案したあいつだった。ざまあみろだ。もっと気まずくなってしまえ。私の影を踏みねじった落とし前はつけさせてやるぞ。

私はさらに大げさに、腕で目元をぬぐいながら泣いて見せた。いつもながら長い前髪が邪魔だった。


「うっ、ひっく、私の大事な影が……」

「なあ、なんで泣くんだよ?俺なんかやった?困るんだけど……」

「踏んでるじゃないの。私の影。大事にしてたのに……頑張って逃げたのに……」

「何言ってんだよ。影なんていつも教室とかその辺で踏まれまくってるだろ。お前、影が痛いのか?」

「あ、そっか」


はっとした。

驚きすぎて、涙がぴたりと止まった。

別に、影の方からしたら、踏まれるのはいつものことだった。なぜか気付かなかった。

影踏みなんて、名前が大げさなのがいけないのである。


「そうだよね。影からしたら、踏まれることなんてどうでもいいよね」

「え、ほんとに影踏まれただけで泣いてたのかよ。やっぱりお前頭がおかしかったんだな。気い遣って損した」

「うんもう大丈夫ありがとう。いやっふーー!」


心が自由になった。私はうれしくって、駆け出した。

私の美しい影の価値が貶められたわけではなかったのだ。

影は誰にも踏みねじられてなどいなかった。それに、考えてみればこんなの、影の上にちょっと足を置いかれているようなものだ。


「おい、止まれ。ルール違反だ」

「はい」


心は自由になれど、チャイムが三時間目の終了を告げるまで私は動けなかった。

誰も助けに来なかったのだ。たまに話してやってるのに薄情な奴らだった。


なぜだか再び涙が出そうになったので、余った時間で、私の影を縫い止めている男子と話をした。

私に重要なことを気付かせたし、結構いいやつだったので、授業の最後に、これからは自由に私の影の上に足を置いてもいいという権利を与えたが、「もうみんな踏んでるだろ」と断られた。


誰も私の影を踏んでなどいない。影の上に足を置いているだけだ。


失礼なやつだった。




彼との会話は、生涯それっきりである。


そして私の影も、卒業とともにどこかへ行ってしまった。


いまでは一人で生きてます。

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