精霊指定都市さいたま

二三子

第1話 世界大氷結

 俺の名前は野乃原武蔵、高校三年生だ。

 俺は埼玉県さいたま市に住んでいる。そして、ここが今は日本のすべてだ――――


 三ヶ月前、未曾有の氷晶雨と寒波によって、世界は氷河に覆われた――――日本は埼玉をのぞいて、すべての地が氷に覆われ滅んでしまったのだ。

 与野の自宅で目を覚ますと、俺は窓をほんの少しだけ開けた。季節は四月だが、埼玉の春とは思えない零下の風が吹き込んでくる。

(今日はやけに冷えるな……)

 顔だけ出して空を見渡すと、晴れているのに抜けるような青色ではなく、白い薄紗一枚をかけたような不思議な光のベールが覆っている。

 あのベールがなんなのか、誰も知らない。自衛隊駐屯地にある新防衛兵器・精霊の盾によってこの埼玉だけがかろうじて守られたのだと噂する人もいるけど、真相は謎のままだ。

 起きて布団の上げ下ろしをする俺の足元に、ぴたりと柔らかいものが寄った。飼い猫のトランザムだ。甘える時にだけ出す「にゃーん」という声を出している。

「分かったよ、ご飯だな」

 トランザムとともに、吹き抜けの階段を下りる。がらんとした一軒家には人気がなく、暗い。俺はキッチンの裸電球に明かりを灯した。

(あれから、もう三ヶ月か……)

 俺は三ヶ月前の、あの穏やかな日曜を思い出す。


 教育関係の仕事をしている母は講演会があって、東京にある大学に行くため埼京線に乗っていた。ちょうど、赤羽に差し掛かっていた頃だと思う。母は、世界大氷結が起きたその時――東京にいた。

 あんな鬼母でも、いなくなるとせいせいした、と思うのは二日ばかりで、あとは虚無だけが俺の胸に堆積している。警察官の父は既に他界していたし、チャラくてむかつく医大生の兄貴はたぶん、新潟のアパートで氷結された。だから今、この家にいるのは、俺とトランザムだけだ。

 ぼーっとしている俺のパジャマを、トランザムが甘噛みしてくる。

「はいはい、分かったよ。分かったってば!」

 自分のご飯を用意するよりも先に、俺はトランザムのご飯を皿に用意する。大好きな魚味のキャットフードを頬張るトランザムは、きっと俺を便利な餌やりマシーンにしか思っていないのだろう。

 この白い猫……トランザムとの出会いは、俺の家の前で車に轢かれて動けなくなっていたところを介抱してあげたのがきっかけだ。いつの間にかうちに居着いて、今では一番長老だという顔でふんぞり返っている。

「うー、それにしても、今日はやけに寒いな……」

 電気の送電はあまり期待できないから、暖房はつけられない。行田にあるメガソーラー施設のお陰で何とかパソコンくらいはできるが、さすがに今まで通りとはいかない。

 現在の日本は経済と政治の中枢拠点である東京をやられて、首都機能はほぼ麻痺している。羽田も成田も閉ざされた今は海外へ出ることもできない。

 メディアもネットも寸断されているし、今は他の地域がどうなっているかは分からない。ただ、東京との境まで行った人の話によれば、埼玉を一歩出れば途端に体中が氷漬けになってしまうらしい。


 俺は、埼玉が大嫌いだ。

 ださいたまとか、くさいたまとか蔑まれるし、おしゃれな町並みや海なんてどこにもない。同じ県内の人間が集まる時だって繋ぐ路線がないから、大概は池袋で遊ぶ事になる。

 だから高校を卒業したら、池袋じゃない東京の下町か横浜あたりに1kのアパートを借りて、おしゃれな大学生ライフをする……その夢だけを追い続けてきたというのに、まさに青天の霹靂である。

――――でも、埼玉以外全部なくなってしまったんだから仕方ない。

 県民なりのあきらめの良さで、俺は今まで通り北浦和にある高校へ通っていた。


 俺の通う県立浦和高校は一二〇年の伝統を誇り、埼玉でもトップクラスの偏差値を誇っている。

 ただ、問題が一つある。県立浦和は男子校だ――つまり、女子との出会いがない。

 旧制中学の伝統をそのまま持ち越した高校が多い埼玉では、公立といえど女子校、男子校と分かれている所が多い。

 共学に通う事もちらりと考えたが、やたら教育熱心で知られるこの界隈の母親たちの例にもれず、俺の母も熱心な教育ママだった。県立浦和を受けなければ、それこそ鬼の張り手が飛んできた事だろう。今でこそ通学距離の近さや恵まれた級友に感謝しているものの、やはり、女子との素敵な出会いなんて文字は、ない。

「おっはよー奇襲アサルト! ドババババ!」

「うわッ」

 廊下で見えないM4を持ち、サバゲーもどきをしているのは、背が小さくて冴えないメガネの八尾光太郎やお こうたろうだ。

「ふざけんな、俺のシグで……」と言い掛けたが、俺は胸を押さえて倒れる。別に撃たれたマネをしてやる必要なんてないんだが、次のテストが近い。この間休んだところのノートを借りるのに必要だから、取りあえず撃たれておいてやる。

「へへ、今日は反撃してくるゾンビじゃねえのかよ」

「今日は寒すぎて反撃する気力もねえ。撃たれてやったんだから、化学のノート貸してくれ」

「ちぇ。たまにはお前も一緒にフィールド行こうぜ」

「やだよ。当たるとアザができてしょうがねえ。俺、お前みたいに高性能のゴーグルもマスクも持ってないし」

 こいつはガチモンのミリオタだ。親が金持ちなので、軍装や暗視ゴーグルは勿論、タミヤのガスガンから海外のカスタムモデルまでなんでも持っている。卒業したら自衛隊に入るつもりだと言っていたが、身体検査に引っかかって落とされたせいで「仕方なく医者になる」と贅沢に言い放ち、いやいやながら俺といっしょに受験勉強をしている。

「こないだ森林公園の近くで夜戦してたら、警察呼ばれちゃってさあ」

「自慢げに語る事かよ……」

 他の町が機能していないというのに、八尾ときたら呑気なもんだ。

「おっはよー捕獲ゥッ!」

 さわやかに背後から伸びた丸太のような腕を、俺は第六感でかわした。

 ガタイはいいがアニオタという残念な体育会系の赤城あかぎ新太あらた。身長一八〇センチもあるのになぜか卓球部に所属している。しかも体の大きさが邪魔してか、卓球の腕は俺より弱い。

 こいつも八尾同様サバゲーにハマっているのだが、やっぱり弱い。俺が足払いをかけると、赤城は無様に床にめりこんだ。

とりあえず、世界は凍ってても高校は楽しい。だが、俺は一女(注:埼玉県立浦和第一女子高等学校)と合コン窓口のあるイケメングループではなく、こんなイケてない男子グループに所属している。(赤城も八尾ももちろんいい奴だが)

それに、浦高では新歓と称してマラソンさせたり、事あるごとにガチなスポーツ大会を開いたり、臨海学校でさんざん遠泳させたり……世間で言われているような高校デビューとはイメージが違いすぎて、高校デビューらしいデビューができなかった気がしなくもない。


* * *


 俺ら三人は教室までの通路をとぼとぼと歩いていた。

「あーあ、受験どうなっちゃうんだろう?」

 赤城が呟いた。

「仕方ねーだろ。東京の大学も軒並み氷漬けだ。まあ俺は第一志望の防衛医大に入れればいいし、ダメなら入間の埼玉医大かな。あ、赤城は文系だから、埼玉大学か、私立のどこかにするしかねーな。まあ、いつ入れるか分かんないけど」

 八尾の言うとおりだ。学校は再開しても、この先俺らがどうなるかはわからない。

 だからこそ、大学に入れたら絶対にテニサーとか、ウェイウェイ言ってる奴の中に紛れ込んで、チャラい・軽い・面白い、三拍子揃った奴になりたかった……なのに。

 埼玉でこんな鬱屈した思いをずっと噛みしめなくてはならないと思うと、お先真っ暗だ。


 浦高には、週番制度というものがある。朝のHRも週番がやるし、週番朝会に参加したり、プリント配布とか、こまごました雑用なんかも行う。

 今週が週番の俺と八尾は、担任の忠島ただしまの所へ行った。

 しなびた玉葱を思わせる風貌の忠島は、ぼーっと職員室の窓の外を眺めていた。

「先生、おはよーございまーす」

 八尾が呼びかけるが、忠島は背中をこちらに向けたままだ。

「あの……先生?」

 再度話しかけると、ハッとした忠島はようやくこちらを向いた。

「ああ……君達か、おはよう」

「先生、大丈夫ですか?」

 八尾が訊ねるが、忠島は黒子のある瞼を細め、ただ人の良い笑みを返した。

 どことなく忠島の目が虚ろなのは、元からではない。前はもうちょっとしゃきっとしていた筈だ。

 忠島の奥さんと娘さんは三週間前、たまたま静岡県の実家に帰省していた。おまけに、溺愛していた飼い犬のシバも一緒だったから、忠島は家族すべてを失ったことになる。心なしか、前から後退気味の前髪部分が更に後退したようだ。

「先生、お気持ちは分かります。でも、もう凍っちゃったものは仕方ないですよ」

 八尾なりの励ましだが、俺は軽く肘で八尾を小突いた。

「まだ連絡がつかない以上は奥さんも娘さんも……氷結したと決まった訳じゃないはず」

 俺なりの気遣いを言葉にしたつもりだが、言葉にしてしまうと逆にとても虚しいものが残る。口を結んだ途端に、妙な空気が喉元を下りていった。

「すまんね……生徒の君達だって、親兄弟を失っている人もいるというのに。あっ、野乃原君……」

「いえ……」

 俺は表情を潜めた。

「今日のHRで伝える事は何かありますか?」

「ああ。そこに書いてある通りだ」

 俺と八尾に手渡されたのは、いつもの回覧と日誌だ。俺たちは一礼すると、職員室を出た。




* * *


「お前、もうちょっとデリカシーないのかよ。あんな事言うなんて」

「あんな事?」

 教室へ向かう渡り廊下で、俺は八尾に言った。だが、八尾はどこ吹く風といった様子である。

「人は氷結の地へ行けば、死ぬよ。それは事実じゃないか――」

 身長一六〇センチの秀才は、ズボンのポケットに手を突っ込みただ前を見つめている。


 県境を一歩でも跨げば、そこは氷結の地だ。温度計で測れない謎の冷気に包まれ、足下から一瞬にして凍り付いてしまう。

 氷結した彼らを助けだそうとした人たちはもいた。だが、どんな防寒具をつけていても何の効力もなさないで凍りついてしまう――

乗物も意味をなさない。ブラックホークだろうがアパッチだろうが、音速を超える戦闘機でさえ……あの氷結を越える事はできなかった。県境から自衛隊が火炎放射器を使っても氷結は解ける事がなく、それまでの命はまるですべての時が止まったようにされてしまう。


  俺は、外の気温よりも酷な八尾の態度に、やや気分を害した。

「でも、忠島にあんな言い方……大体、お前の姉ちゃんだってまだ……」

「行方不明なら……って何度も思ったさ。でも、もう三ヶ月だ。武蔵、去年の強歩大会を思い出せ。死ぬ気になれば、50キロの道だって七時間で完歩できる距離なんだぞ? 取材で全国飛び回ってる姉なら、東京からさいたまなんて余裕で帰って来られるだろ。ワーカホリックな姉のことだ、大方、大手町のオフィスか行きつけの居酒屋で凍ったんだろ」

 八尾は刹那的な今しか信じていない。だから、人の生死に関わる事に興味があるんだと俺はうすうす感じている。

「八尾……お前、医者なんかなるなよ」

「は? 何でお前にそんな事言われなきゃならねーんだよ」

「人の痛みをわかる奴だけが、人を守れるんだ。でなきゃ、いつか本質を忘れる」

「何だよ、それ。お前の親父さんの事を言ってるのか?」

「……それ以上言うな」

 俺はきっと八尾を睨んだ。

「親父さんの枷に縛られたように、いやいや剣道やってるお前見てりゃ分かるよ。人は忘れる事も時には必要だ。でなきゃ、前になんか進めない」

「黙れよ、八尾!」

 一触即発……だが、八尾は俺から目線を逸らさなかった。

「俺は事実しか信じない。目の前にある事が本物の出来事だろ。人なんて目の前からいなくなったら、それでおしまいなんだよ! 武蔵、見ろ!」

 八尾が3年4組の扉を開くと、とっくに点呼の時間を過ぎているというのに、俺たちのクラスは半分ほど席が空いている。

「……荒井は東京に英検を受けに行っていた。帰りにスカイツリー観光をしたいという不純な動機で、わざわざ東京の会場を選んだせいだ……北野は彼女と横浜でデート、西原と本條、武田はアイドルオタ向けイベントのために渋谷に向かっていた……」

 俗に俺達の言う、脱埼玉組の悲劇ってやつだ。

「よく聞けよ、武蔵。俺達は彼女もいないし埼玉を滅多に出ないから、助かった。だが、たまたまどこかへ行ったから事故に遭った、何かをしたから死んでしまった……そんな偶然で命が左右されてしまう、ひどく脆い生き物なんだ。俺たちが毎日生きていられる確率なんて、本当に奇跡のようなものなんだ」

「八尾! お前っ……」

 勢い余った怒りで、俺は八尾の襟元を掴んでいた。

「別にイヤミでも何でも無い……凍結した人々を現代の医学は治せない……つまり死だ。それは事実だろ」

 背の低い八尾は、掴んだ俺を睨み返してくる。

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