海に行く日
『Bedeutung』のメンバーと爽子と海に行く日まであと三日、というところまで迫ったある日。
私は残り少なくなった宿題を一気に片付けようと、自分の部屋で気合を入れてワークに向かっていた。傍らには無糖の紅茶とクッキー。糖分補給のためのお供だ。ただ、あんまり食べ過ぎると水着が着れない体形になってしまうので、ほどほどにする。……や、そんな二日三日で体形が劇的に変わることなんてないなんてわかってるけどさ! そこは繊細な乙女心なの!
なんて、内心誰に訴えてるんだかわからない言い訳をしつつ課題を進めていると、邪魔にならないようにとベッドの上に放っていたスマホが新着メッセージを告げる着信音を鳴らした。
他の音なら無視して宿題を続けていたけど、聞こえてきた音は藤原さんに設定した着信音だったから、宿題をする手を止めてスマホを取りに行く。
『藤原大洋さん:新着メッセージ一件』という表示に、なんだろうと思いながらスマホを操作する。
今度の海に行くことについて、何かあったのかな? 藤原さんからメッセージが来るなんてそのことくらいしか思い当たらないし。――なんてことはない。
あの人は何故かわからないけど、ちょこちょこメッセージを送ってくるのだ。内容はどうでもいいと言ったらあれだけど、重要なことではなくて、いわゆる世間話みたいな内容だ。
友達みたいなやり取りだ。恐れ多くて大っぴらには言えないけど。私からどうでもいい内容なんて送れないけど。でも、メッセージのやり取りとしては友達どうしのやり取りといえなくもない。なんで送ってくるかなんて私にはよくわからないけど。
世間話みたいなメッセージが送られてくるのが迷惑かと言われれば、全くそんなことはない。むしろうれしい。少しでも私のことを気にかけているのかな? みたいな感じがして。
送られてきたメッセージを見る。またいつものような適当な話なのかなーと思っていると、そこに書いてあった内容は予想外でもあって、でも少しだけありえなくはないかとも予想していた事柄だった。
『ごめん! 仕事が入って海に行けなくなった。本当に申し訳ない』
その言葉を見た瞬間、ふっと肩から力が抜けた。
……忙しいもんね。デビューしたてで、いろいろなことがあるはずだもんね。そりゃ、急に仕事が入ることくらいあるよ。うん、仕方ない。
だから、がっかりなんて思ってない。悲しくなんてないのだ。これは、当然予想されたことなんだから。
『わかりました。お仕事頑張ってください!』
そう打って、送信をタップする。
『本当にごめんね。他のメンバーからもごめんって』
『気にしないでください。もともと無理を言ってたのはこっちなんですし。付き添いは他の人に頼むことにします』
そんなやり取りを続ける。なんだかメッセージが進むにつれ、だんだんと実感がわいてきた。あぁ、藤原さんたちと海に行けなくなったんだなーと。
迷惑かけたくないとか、なんだかいろんな言い訳をして最初は一緒に行くなんて考えてない! みたいなことを言ってたはずなのに、一緒に行くことになって、私はとても浮かれていたのだ。
それはもう、行けなくなった、なんて連絡が着て一瞬何も考えられなくなるくらいには、浮かれていたし、楽しみにしていた。
だって『Bedeutung』のメンバーと海に行くのだ。藤原さんと海に行くんだよ? 浮かれないわけがない。行きたくないなんて思うはずがない。水着も新調して、日焼け止めも買って、どうするー? なんて爽子と相談して……。
『このお詫びはまた何かでするから。ほんとごめんね』
『ありがとうございます』
やり取りが終わって、スマホをベッドに放り投げる。今は、スマホは見たくなかったし、触りたくもなかった。なんか私に不幸な知らせを送ってくる悪魔のような機械みたいな気がして。
大げさに感じているかもしれないけれど、でも私の気持ちはそんな感じだった。
あ、付き添い誰に頼もう……和樹でいっかな。
爽子にも連絡しなきゃ。藤原さんたちが来れなくなったって。
でも、今は……とりあえず何もしたくない。宿題をするのもやめて、私はベッドに寝転んだ。
連絡はあとでいいや。
八月二日。朝の八時。駅前に集合。
――ではなく、和樹の家から和樹が運転する車に乗り、爽子の家まで直行。そのまま海まで行くというルートだ。ちなみにもう爽子の家には到着して、爽子が車に乗っている。
「あっついねー! 夏! って感じ」
爽子がうちわで扇ぎながら言った。まあ確かに暑い。まだ朝でこの暑さなのだから、昼頃にはどんな暑さになっているのだろうか。想像したくない。
「クーラー温度もっと下げる?」
車を運転している和樹が尋ねる。実際に弄るのは助手席に座ってる私なんだけどね。
「んー……いいや。それより窓開けるー」
「りょーかい」
後ろで窓を開けた爽子が「あぁー風が気持ちいいー」なんて言っている。
「途中でコンビニかなんか寄る?」
「寄るー! ジュースとお菓子欲しい!」
「わかった。目についたら入るわ」
結局付き添いは和樹に頼んだ。『Bedeutung』のメンバーが来れなくなったという話をしたら、文句も言わずに付き合ってやると言ってくれた。普段ならめんどくさいとか言ってきたがらないけど、たぶん和樹なりに私に気を使ってくれたんだと思う。
爽子にも勿論来れなくなった話はした。爽子は「そっか。残念だね」と一言だけ言って、それ以降そのことを話題に出すことはなかった。爽子も私に気を使ってくれたんだと思う。
なんだかんだ言って『Bedeutung』のメンバーと海に行くといって一番浮かれていたのは私だから。
今でも少しだけ引きずっているというか、落ち込んでいるというか。せっかく三人で海に行くのだからこんなんじゃダメなんだっていうのはわかっているけど……なにせ、憧れの人と海に行く、それがご破算になる、なんて体験今までしたことがないのだから、そのダメージは思った以上に私にきていた。
少し暗い顔をしていただろうか。前側に顔を突き出した爽子に
「楓、もしかしてまだ気にしてんの?」
なんて言われてしまった。
まあ、確かに気にしてるけど……。
「もー! 気にしたってしょうがないんだからさ。今日は忘れて楽しも? 今日のことは別のことでお詫びしてくれるって言ってたんでしょ? だから、そっちを楽しみにして、今日は今日で楽しもうよ!」
ね? と爽子。
いつまでも気にしてたってどうにもならないのはわかっている。爽子の言う通り気にしないようにした方がいい。今日はせっかくの海なのだから。
だいたい、私は悪くないのだし。何にも悪いことしてないのに落ち込んで楽しいことを台無しにするなんて馬鹿みたいだ。
うん。もう今日は藤原さんのことなんか気にせずに楽しもう。そうしよう。
「そうだね。もう気にしません! 今日は目いっぱい楽しむぞー!」
「おー!」と爽子も乗ってくる。「おい、暴れんな!」と和樹が言ってくるが、そんなものは無視だ無視。せっかく気分を盛り上げているんだから邪魔しないでほしい。
海についたらまずは場所取り! シートを敷いて、パラソル立てて、荷物を置いて。それから水着に着替えて、日焼け止めも塗って。ビニールのボールとか浮き輪も膨らませて、お昼になったら海の家で焼きぞば食べて!
やること楽しむことがたくさんあるのだ。落ち込んでなんかいられない。今日という日を楽しむのだ。
海に到着して、場所取りも終わった。車は近くの駐車場に置いてきた。和樹のお父さんの車だ。和樹自身はまだ車を持っていない。持っていても頻繁に使わないし、そもそも自分で買って維持できないようなものは買いたくないらしい。
海はまだ朝だというのに、すでに人でごった返していた。見渡す限り人、人、人だ。家族で来ている人もいれば、私たちみたいに友達どうしで来ている人、カップルで来ている人とか、様々だ。
私もいつかは彼氏と海に来てみたい。中学の時から思っているが、いまだに実現しそうにはない。好きな男子もいないし、告白もされないし仕方ないね。
「人いっぱいだねー。更衣室使えるかな?」
「どうだろうね。結構待つかも」
駐車場から移動している時に見つけた更衣室に向かって爽子と一緒に歩く。その間にも、時々ぶつかりそうになるくらいには人がいた。
「あちゃー、人がいっぱい。これ何分待つことやら」
更衣室には案の定人がこれでもかというくらいたくさんいた。ほんとに、何分待ちになることやら。
爽子なんかはその人の多さに若干げんなりしている。まあ夏の海なんだし人がたくさんいるのは仕方ない。
「どうする? 並ぶ?」
爽子に問いかける。私は正直並んでもいいのだけれど、爽子はどうなんだろう。あんまり待つのとか好きじゃないし。買い物には時間をかけるけど。
予定が詰まってるわけじゃないし、ここは爽子に任せてもいいかな。
「んー……和樹に車のカギ借りて車で着替える? そっちの方が早いでしょ。ちょっと遠いけどさ」
「そうだね。そうしよっか」
爽子の意見に従っていったんシートを敷いたところまで戻る。そこでは和樹がスマホをいじりながら待っていた。
「かずきー、車のカギ貸してー」
爽子の言葉に和樹がスマホから目を離して顔を上げる。まだ着替えてきていない私たちを不思議そうな目で見た後、視線を私たちの後ろの方に向けて、納得したような顔になった。
「更衣室に人が多すぎて着替えられなかったのか」
「そういうこと。だから車で着替えようって爽子が」
「そっちの方が早いと思って」
爽子がそう言っている間に和樹は鞄から車のカギを取り出した。それを私に渡してくる。
「ほい。あとで返してくれたらいいから。着替えてくる間に飲み物でも買ってこようか?」
「わー! 和樹にしては気が利くじゃん! 私コーラで!」
「じゃあ私はオレンジジュースで」
「和樹にしては、は余計だ。早く着替えてこい」
シートを後にして、爽子と一緒に車に向かう。駐車場から海にかけても人がたくさんだ。
そんなに有名な海水浴場でもないんだけど、その分地元の人がたくさん来ている。車のナンバーとか見ると地元の人の割合が多かった。
海と駐車場の間の道にも人は多かったけど、それ以外にもちらほら人が見える。なんか、海水浴に来た人じゃない感じの服装の人たちだ。海に来る以外に何かあるのだろうか?
「なんか海に来た! って感じじゃない人もちらほらいるね」
隣の爽子に話を振る。爽子は私の言葉を受けて周りをきょろきょろと見まわした。
「たしかに。でも何も海しかないわけじゃないし、そういうこともあるんじゃない?」
「それもそっか」
確かに私たちは海に来たけど、ここは海以外にも水族館やら大型の商業施設やらがある。そっちの方に行く人がたくさんいるのだろう。
そう結論付けて、私たちは車に急いだ。
「あっつ! 車の中あっつ! クーラー! クーラーつけて!」
カギを使って車を開けると、中は灼熱地獄だった。熱気が籠りまくっていて、サウナみたいになっている。
「まず車の中の空気追い出そう! それからクーラー!」
「了解! ドア全部開けて!」
それから私たちはドアを全部開けて、片側のドアを開け閉めする。中の空気を外に追い出すためだ。
ある程度空気の入れ替えをした後、エンジンをつけてクーラーをつける。一瞬私がエンジンつけて大丈夫かな? と思ったけどまあ運転するわけじゃないし大丈夫でしょ。
「ふー。ようやく涼しくなったねー」
「そうだねー。これでやっと着替えられる」
クーラーをつけてしばらくして。涼しくなった車内に爽子と一緒に乗り込んだ。和樹のお父さんの車はワンボックスカーだから、車内は後部座席を倒せばスペースが取れる。
私と爽子は後部座席を倒して、着替えるスペースを確保した。
「この日よけのやつ窓に張ってさ、覗かれないようにしよっか」
後部座席を倒すついでに見つけた銀色の窓に張り付ける日よけを、運転席と助手席の窓、それからフロントガラスに張る。後部座席はよほど顔を近づかれない限り中は見えないから、そっちは張らない。
ていうか、日よけあるんなら出るときに張ればよかった。まあ気付いてなかったんだけどさ。
「よっし、着替えよっか! 和樹をあっと言わせてやるぞー!」
「いや和樹私たちの水着知ってんじゃん」
なんてやり取りをしながら、水着に着替えたのだった。
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