8
真人は再びグラスを空けた。
醒めていた酔いが少し戻ってきていた。
その、どこか鈍い脳であっても、新しい疑惑の存在は認識出来た。
美奈子自身も手紙に書いている。
アガルタ文明の遺産。
理沙子の変節。
黒澤のこと。
特に、黒澤が美奈子と真人の出奔を手引きしたという事実には興味を惹かれた。
寛子からも、佳澄からも、それを聞くことはなかった。これまでの彼女達の言動を考えると、二人が真人に隠していたとは思えない。
黒澤は美奈子にだけ接触して、事後処理の段階になって寛子をコントロールした。それぞれ、別個に。そう考えるのが最も筋が通るようだ。そして寛子は黒澤を信じ切ってはいないにしても、黒澤の忠実なスパイであることで、これまで際どい立場を守ってこられたのだろう。
仙開で初めて会ったとき、白琴会から逃げたときにかくまわれたとき、そのどちらでも黒澤は真人に、過去のこの事実にまったく触れなかった。振り返ると寛子も、黒澤が許可した範囲の情報しか真人に提供していなかったように思える。その辺りが、真緒、佳澄、寛子という真人の信用すべき人物順として示されていたのかもしれない。
どうもただ者ではないし、何か裏がありそうだとずっと黒澤を疑っていた真人だが、その勘は当たっていた。
美奈子の出奔を手引きしたやり方。真人と佳澄の東京への逃亡を手引きしたやり方。その類似も気になった。
あのブルブルと人騒がせなスマホは電源オフでしまってあるが、もし今も電源オンで持っていたら、今ごろブルブルと震えて真人に何かを知らせようとしているかもしれない。
手紙はいよいよ終わりに近付いてきている。
しおりが隣で、手だけで静かにバーテンダーを呼び、真人のグラスを指さした。バーテンダーも無言でうなずく。
真人は便箋の続きに目を向けた。
「それから東京での生活が始まりました。
黒澤の準備は万端でした。キミと私は籍も住民票も、白琴会からの追跡が容易ではないよう細工がされていました。
私はキミの母親代わり、叔母として暮らしました。稼ぎは水商売を始めるとあっという間に順調になりました。元々、対人コミュニケーションを専攻していたことに加えて、あの儀式以来、人の考えや表情の機微が自分でも驚くほどよく読み取れるようになっていて、どこのお店でも、固定客が安定してついてくれたのです。
この頃のことは、キミも良く覚えているでしょう。
私はキミに阿賀流の過去と無縁の人生を送ってほしかった。
それゆえに阿賀流でのことは隠し続けましたし、自分が母と名乗ることは出来ませんでしたが、それでも、私にとっては実の息子と過ごすことが出来たかけがえのない時間でした。ありがとう。
しかし、白琴会の目をくらますべく、黒澤の指示で幾度か転居しているうちに、私の感覚が遅ればせながら疑問を感じ始めました。
もし、私のほうが理沙子の代わりに極度な知性を得ていたら、冷静に考え抜いて、このことの異常さにもう少し早く気付いていたでしょう。
白琴会に直接関わっているはずではない黒澤が、なぜあれほどに様々なことに手を回すことが出来たのか。
いえ。白琴会どころではありませんね。現世とでも言うべき、日本の世の中の仕組みの裏側に手を回すことが出来なければ、私やキミの籍を書き換えたり、阿賀流からの転出もないまま東京で住民登録をすることが、出来るはずもなく、キミがまともに進学することさえ出来なかったはずなのです。
黒澤は危険だ、という、いつぞや感じたものと同じ直感が芽生え、その想いは膨れ上がってしまいました。
何一つ、証拠はありませんでした。それに、私達を支えていたのは黒澤であって、その恩義に仇で報いるようなことには心も痛みましたが、しかし、直感としか表現のしようがないのです。
いま思うと、あれは母としての直感だったように思います。
私は、黒澤からも姿をくらますことにしました。
キミの大学進学が決まり、黒澤の支援がなくとも私の稼ぎだけで学費にもめどが立ち、万が一これから何が起きたとしても、強いキミは自分一人で生きていくことが出来るだろう、と私が判断した頃です。
つまり、あのハガキが届き再び私達の居場所が黒澤に見付かるまでの間の数年間、これだけは、白琴会からも仙開からも、阿賀流という土地から完全に解放された時間でした。
嵐の前の静けさとでもいうべきときでしたね。でも幸せでした。
あのハガキを見たときの恐怖。
来るべきものが来たと思いました。
黒澤からの連絡はあの後すぐに来ました。
黒澤は私が阿賀流に戻ることを要求してきました。黒澤は夕鶴を仙境開発に変えて、阿賀流での権力を拡大していたのですが、さらに地盤を固めるために、私に理沙子と雅俊への協力を要求してきたのです。
それまでの間に阿賀流で何が起きていたのか、どのような権力闘争があったのか、私にはいまだにはっきりとは分かっていません。理沙子が仙開の社長に就いたことも驚きでしたし、黒澤ほどの男がその理沙子に従う地位にいることも奇妙には思えました。
ただ、いずれにしても黒澤はしたたかでしたよ。私が協力するなら、真人の未来を保証すると条件が提示されました。
唯一、真人に何も告げないことが条件でした。真人が私を追って阿賀流に来ることがないように、それが黒澤からのリクエストでした。
今でも、あの夜のことはキミに謝っても謝り切れません。
私に選択肢はありませんでした。キミに何一つ伝えずに去らなければならないとは、胸が何重にも締め付けられるような苦しさでした。しかし、それでも、私の苦しみがどれほどのものであったとしても、その後にキミが受けたであろう苦しみや混乱のことを思えば、本当にあれが正しい選択だったのかと、私は何度も何度もそれから考え続けることになりました。
いくら弁解をしようと、謝罪をしようと、今のキミは私を許してくれないのかもしれません。今さら、母親面をしてどうこうしようとも思いません。
ただ、知っておいてほしいと思い、こうして書いています。
キミはもう大人です。母の想いをどう受け止めてどう行動するか決めるのはキミ自身でいい。
ただ、母はキミといて幸せをもらいましたと、それだけは、伝えておきたかったのです」
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