「さ、冗談言ってないの、佳澄。そうと決まったらマサ君を連れて先に行きなさい。分かってる? キーワードはマサ君なんだから、しっかり助けるのよ」

「うん。先に潜って案内する。じゃあ本多さん、すぐ行きましょう。ついてきて」

そう言って佳澄はすぐに奥に走った。


真人は佳澄の後を二、三歩追ったところで、顔に手をかざして熱気から守りながら、寛子と渡辺駐在に声をかけた。

「俺達だけ行っても意味ないだろう。行こう」


「本官は職務ですから、皆さんの安全を確認して最後に。火が回ってきてます、清水さんは早く!」


「え、ええ」

寛子は屈んでこちらに来ようとしたが、そのときごうっと音がして、すでに燃えている向こうの間口から、火炎の渦が襲い掛かってきた。

「あっ」

炎に行く手を阻まれて寛子は立ち往生し、よろめいた。


「おばさん!」

思わず戻ろうとする真人を、渡辺駐在が手で制した。

「本多さんは、行きなさい。清水さんのことは本官が責任をもって」

「いや、しかし…」


「いいから。ああ、本多さん。これ持っていったほうが」

そう言って駐在は、腰の辺りから拳銃とホルスターを取り出した。

「ほれ」


真人に拳銃が押し付けられる。想像していた重さの三倍は重く感じた。

「こ、こりゃあ…。ま、まずいでしょう!? それに、あいつらには…」

「ま、護身用に。今はあんたが持っとくほうがいい。昼なら多少は意味もあるでしょうしな」

「しかし…どうして俺にこんなもの…」


「外からの人間ちゅう意味で、黒澤さんは自分には先輩のようなもので。それはそれは恩があるんですよ。黒澤さんがそうしろと言うなら、本官もあんたを助けることにする。そういうことで」

「……」

「私はね、阿賀流が好きなんですよ。駐在ちゅうのはその土地に家族で住んで、そこの人間にならないといかんのですがね。うちの嫁は染まりすぎて白琴会に行っちまいました。私は…どうも、うまくいかなかったようで。さぁ、本多さんは早く行きなさい。清水さん、あんたは私が助けるんだ」


真人は、自分とは少し違う形とはいえ、結婚生活が上手くいかなかったことを告白した渡辺駐在に、不意に親近感を覚えた。

ひょっとしたら、妻が白琴会に行ってしまった後の渡辺駐在は、寛子に好意的な感情をもっていたのかもしれないと匂わせる気配があった。

まあ、それを追及するのは野暮というものだろう。ただ今は、その流れで真人が渡辺から受け取った厚意を誠実に受け止めるだけだ。


「渡辺さん。俺にはまだ良く分からないことがたくさんあって、混乱してばかりだけど、義理人情は守る」

「それでええんだよ。堅苦しいことは考えなさんな。さ、あんたにはあんたの道がある。行きなさい!」


発破をかけられ、真人は渡辺と寛子を残して佳澄に続いた。


佳澄はすでに、煙の立ち込める納屋に入っていた。

灯りは点いていないが、どこからか来る炎の明るさが、ものの見分けがつく程度には視界を確保していた。

真人が追い付くと、佳澄はすでにゴルフクラブを一つ引っ張り出し、小さめのナップザックを背負っていた。


「はい、本多さんの靴。トイレは隣」

佳澄は、いつの間にやら勝手口に放ってあった真人の靴を持ってきていて、自分の靴も突っかけていた。

火が放たれていることを知った時点で、すでに先読みして支度を開始していたのかもしれない。なんとも用意周到なことで、真人は舌を巻いた。


二人でトイレのドアを乱暴に開くと、現代のトイレのイメージからすると意外に広い便所の空間があった。物置小屋程度はある。昔の旧家のトイレというのはこんなものだったのだろうか。


便所の壁には小さな窓しかなく、ここからの出入りは普通には出来ない。

床には、薄汚れた和式便器がぽつんと設置されている。


佳澄が軽く咳き込みながらクラブを差し出した。ここにも白い煙が侵入してきている。

クラブを受け取った真人が目で問いかけると、佳澄は無言でうなずいた。


「ふう…。やるか…」

暗がりの中、もはや白ではなく黄ばんで見える和式便器を目がけて、中段から一息にクラブを振り下ろした。

手に軽い痺れが来る衝撃とともに、陶器が割れる独特の音がして、便器に小さな穴が開いた。

「まだまだ、だな」


時間をかけてもいられない。真人は無心でクラブを下ろし続けた。

汲み取り式便所なだけに、便器の先には何もなく、ただぽっかりと便を貯めておく空間があるだけなのだろう。砕けた便器の欠片はそのまま下に落ちていく。

真人はただ無心に、畑仕事で鍬を下ろす農夫さながらにクラブを上げては下ろし、上げては下ろしを繰り返す。

打ちおろすたびに次第に便器の破壊は広がり、こまごました欠片が散る。粉っぽい粉塵が部屋を舞った。

ついでに便器のはまっていた縁の木枠も力任せに削り取っていく。


「どうだ? そろそろ…」

真人は少し手を休めた。便器の白い部分はほとんどなくなっていて、ギザギザした獣の口めいた入り口が暗く姿を見せている。


佳澄が懐中電灯で照らして様子を見る。

「穴は、通れる広さになったと思う。本多さんも私も標準体型だから。下までは一メートルあるかどうか…。私も降りてみるのなんて初めてだから…」

「そりゃそうだ。ボットン便所の中に降りてみたことがある人間なんて業者ぐらいだろ」


佳澄の身体幅なら下に降りられそうに見える。真人も、身体を横にすればなんとか降りられそうだ。

目を凝らすと、一メートルあるかどうかというぐらいの深さの底が見えた。暗さの中、降り積もった便器の残骸がうっすらと見える。

予想していたような汚物の臭いはしていないが、なんともいえない独特の臭気が鼻をついた。


たかが一メートルもない。だが永遠のバンジージャンプにも思えるこの距離感。

おいおい。

ちょっと分校から矢継ぎ早の大騒ぎが続いているからといって、この辺りで冷静に一度立ち止まったほうがいいんじゃないのか真人よ。

本当に…他に逃げ道はないのか? 渡辺駐在からもらった拳銃もあるんだ。…もちろん撃ち方は知らないが。


「こ、この底に降りて、それから?」

「奥に、外への汲み取り口の蓋があるから。そこが、表につながってるの」

「長い間使ってないって、言ったよな」

「だから乾燥しきってるとは思うけど、でも、臭いとか…たぶん汚泥は残ってると思う。世界で二番目ぐらいに気持ち悪い場所かもしれない」


真人が尻込みしていることを察知したか、佳澄が身を屈めた。リュックを床に下ろし、懐中電灯も置いた。早くも足を便器の穴に近付ける。

「私は、行く。本多さん、真緒を助けたいんでしょ?」

佳澄はためらう様子もなく、ぎざぎざの穴の縁にぶら下がり、えいとばかりに穴を降りて行った。


便器の穴から佳澄の腕だけが伸びてきた。

「狭いけど、奥に行けそう。リュックと懐中電灯を」

おかしな構図だ、と思いながら真人は便器から出ている手に荷物を受け渡した。


「ええい、君だけ行かせるわけがない。俺もいま降りる」

覚悟を決めた真人も、狭い穴に身体をこすりながら、下に降りた。


便槽の広さはおおよそ一、二メートル四方。背を屈めて奥に向いている佳澄とは自然に身体が密着するようになった。真人の背だと、屈まないと頭が当たる寸前で、背が低いエレベーターにでも入ったようだ。


便槽はコンクリート造りのようだ。佳澄が照らしている奥の天井に、外に続くとおぼしき蓋の形が見える。

想像以上の狭さで、息苦しさを感じる。それに、何ともいえないすえた臭気と、足元の妙な感触。長い間使われていないのだから、当然、便槽の中は清掃済みとしても、それでも長い間には色々なものが蓄積していたのだろう。

口と鼻を上着の袖口の辺りで覆って、精一杯息を吸い込んで、止めた。それでも臭気がしているように感じられる。


佳澄が先に行く。窮屈なコンクリートの棺桶の中を、汚れた壁に身をこすりつけながらズリズリ身をよじって前に這って行く。

真人は佳澄のヒップを追うような妙な具合でその後を追った。佳澄より一回り体格が良い真人は、身体中が壁や底に密着した。


「人生で…こんなところをくぐる日が来るとは…昨日まで思いもしなかったぞ…。ブルース・ウィリスも真っ青だ」

悪態を軽くついて前に進む。息を吸うと、汚物のものとも腐臭ともつかないような形容し難い臭いが鼻をついて、胃を持ち上げた。


佳澄は便槽の突き当りにすでに着いていて、明かりを便槽の天井に向けていた。懐中電灯の光輪から、ムカデかゲジとおぼしき多足類がサッと逃げていった。


「鉄の蓋か? 鍵は?」

「上から乗せてあるだけだから、押します」


佳澄が両手で天井の蓋を押す。

真人も這い寄って佳澄に手を貸した。鉄のザラザラした感じだけではない湿った柔らかな手ごたえもした。苔でも生えているのだろう。


「重いな。…っ!」

腕だけでなく肩まで使って、そのまま立ち上がる勢いを乗せ、ぐっと重い鉄の塊を押す。

蓋が持ち上がった。

「動いた。もう一息。せーのっ…!」


佳澄とタイミングを合わせ、もう一息力をこめる。

蓋がゆっくりと九十度近くまで持ち上がった。真人はそれに合わせて立ち上がり、便槽から上半身を逃がす。外の冷たい風が心地よかった。


真人のすぐ横で佳澄も立ち上がった。

「俺が支えてるから、先に出なよ」

真人が促すと佳澄は這うようにして外に出た。


先に出た佳澄が、真人に代わって鉄の蓋を支えた。両手が自由になった真人が穴からよじ登ると、佳澄は静かに蓋を元のように閉じた。


這い出したところは、火の手が上がっているよこまちストアの母屋のほうからは少し離れていて、すぐ裏手に雑木林があった。

佳澄達のよみどおり、こっちにまでは青服は見張りを付けていないようで、火もまだ回っていない。


「お店が燃えているから、少し明るい。皮肉なものです」

佳澄は鼻息で笑った。

「明かりは消してしまって、逃げましょう」

言葉通り懐中電灯を消し、軽く服をはたいただけで、すぐに真人を促した。


佳澄のタフさに真人は感心した。

母屋のほうにはまだ寛子と渡辺駐在も残っている。それとも、すでに白琴会に投降しただろうか。

どちらにしてもあまりいい運命に続くとは思えない。気にならないはずはないというのに、表立ってはそんなそぶりもみせない。


真人はといえば、ふつふつとヘソの辺りで何かが煮え立っている。宿の襲撃からして理不尽さには腹が立っていたが、ここに来て、今は空っぽとはいえ汚物の中を這って逃げることになるとは。

この臭い。鼻孔の奥に今も染みついてしまったような、年代物のこの臭気。便槽の中で足が踏みつけた何とも言えない感触。壁や鉄の蓋のあの手触り。

真緒がどうなったのかも、分からないまま。

これを屈辱と言わずしてなんだというのだろうか。


無力だ。

真人と佳澄には、今は逃げるしかないのだとしても。

いつか。この腹にたまる怒り。

兄様なのか、美奈子の双子といった仙開の社長なのか。あるいは白琴会の老師とやらなのか。

ぶつける相手が誰で何者なのかもまだ良く分からないが、必ず返してみせる。

誰だろうと、許さない。

その思いを原動力に、真人は佳澄に導かれ、裏手の林に走りこんだ。

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