2-5
強かに降り続ける雨の相槌が妙に心地よい今日、僕はまったく退屈をせずに済んでいた。
大雨によって学校が休みと聞いたときは、一日中この家にいなければならないのかと憂いに憂いたが、義父母の多忙が幸いして同時に中学が休校となった鈴と二人きりだ。それに「休校です」のメールを送ってくれた百合と朝からやり取りが続いている。あと、メモリーとも……。
「お兄ちゃん、最近携帯見ている時間増えたよね。学校でなんかあった?」
「そうかなぁ…まぁいろいろ変わったからね」
そう、僕の学校生活はここ一か月で中学に比べてまったくと言っていいほど変化していた。
校内では百合が何かと良くしてくれていて一人でいる事の方が少なくなった。下校時駅までも相変わらず一緒で、いつも図書室から僕が出てくると、外で待っていてくれている。けれどいつも引っかかるのは
「一緒に帰ってもいい?」と疑問形で聞いてくるところで、彼女の顔に曇りが伺える。
僕に気を遣ってくれているのだろうと断りも指摘もしないが、それが日常となっている今、不自然に思えるのは僕がおかしいのだろうか。
しかし、変化していないことも一つある。毎日放課後は図書室に通っていることだ。
図書室の少女、秋菊紫苑は僕のクラスメイトで空席の主、体が弱く病気がちなのでいつも保健室に行っているらしい。葛葉先生曰く、
「彼女は毎朝、誰よりも早く教室に来ているの。けれど席まで来ると嘔吐しちゃって……。頭を押さえて辛そうにするの。だからいつも保健室で休んでもらってる……」
らしい。そしてこう付け足した。
「昨日は秋菊さんが君の事を訪ねてきたけど、あなたたち何かあったの?」
僕は「少し話をしただけです。ありがとうございました」とだけ返して、職員室を後にした。それから、隣の保健室に行って保険教師に許可をもらい、秋菊紫苑のいるベッドのカーテンを開けた。
「あなたは……」
座って読書をしていた彼女は僕を見て「ノックもしないで入るのはマナー違反じゃない?」と本を閉じた。
「ごめん、ノックはできないけど、一声かければよかったね」
さりげなく指摘をしたせいか、少々不自然な様子でその本を傍らに置いて「それで何用かしら?」と壁にもたれ掛かった。
「頼み事?をしようと思って」
「疑問交じりに言われても困るわよ。まあ、あなたが「頼み事」をしようと言うなら、私にできるかわからないけれど、聞くわよ」
彼女は「頼まれてあげるかは別よ」と人差し指を立てる。その仕草は花巻紫苑とそっくりであったが、似ているだけだと流す。
「ありがとう。放課後、昨日みたいに図書室でお話してくれないか?」
彼女は動揺をしたように、少し目を泳がしたあと再び僕の目を凝視する。
「それがあなたの……。そのくらいいいわよ。丁度私も、それを言おうと思っていたところだから」
「ありがと。じゃあ僕は授業行くから、放課後また会おうね」
それから僕は毎日、図書室の隅っこの席で紫苑と話をしている。まだ、花巻紫苑の事は話していないけれど、結構楽しくやっている。彼女と重ね合わせてしまっていることに罪悪感があることは確かなのだけど。
「そっか……。頑張って私がお兄ちゃんと同じ高校に合格すれば、来年からはまた一緒に通えるね」
僕の部屋で受験勉強をしながら「それになぜ、どう変わったかは入学すればわかるし深くは聞かない」とシャーペンを二度クリックする。
「僕でも受かったのだから、鈴なら簡単だろ?」
「油断大敵」
いたずらに笑う彼女は素早く答案用紙を埋めていく。僕が心配するなどおこがましいほどだ。
鈴の息抜き相手としていようと決めている僕は彼女の邪魔はしないよう、おもむろに携帯を開く。
『キミは悠長にしすぎてはいないかい?
大体カノジョの目星はついているようだけれど、それだけじゃ駄目だからね。』
いつもの如くせかして来るメモリーは、相変わらず僕の心を読んで返信をしてくるので気味が悪い。気になることがあれば、たまに僕から返信をするがそれ以外は一方的に向こうからメールが届く。便利と言えば便利だが、色々と面倒だ。
秋菊の方の紫苑、と言うのも面倒なのでシオンと呼ぶ(花巻の方は紫苑)が、シオンと初コンタクトを取った後はきちんと僕なりに、メモリーのメールについて思考を凝らした。
おそらく僕はあの入学式当日の事故で一度死んだのだと思う。医者の驚き方と鈴の状況説明を総合すると、きっとそうなのだと思えるからだ。それに『キミの命はカノジョの大切なものによって救われた』はこのことを示しているのだろうと解釈ができる。
けれどそもそも、根本的にメモリーを信じていいのかと思う人が多いと思う。少々僕も同じことを感じたことはあったが、直感とメールの内容で信用できると僕は判断した。というかせざる負えない。
そして次の疑問は『カノジョ』とは誰か、だ。これもまたすんなりと、自然に答えは出た。僕が事故で助けた女子高生。きっと彼女がカノジョに違いない。僕が守って、僕が救われる。タイミング的にみてもそれは明白である。プラス猶予が事件から一年と言うのも、答えを確かなものにする材料になった。
しかし、肝心の女子高生が誰かまだ確認が取れていない。葛葉先生に聞こうと思ったけれど、何て聞いたらいいか分からずにもう一つ訪ねたかったシオンについて、に切り替えてしまった。
「あぁ疲れたぁ。さすがに五教科を一気に終わらせるのは体力使うね。少し休憩するよ。」
鈴は大きく伸びをして、シャーペンの芯をしまうとその場に寝転がった。机の上の答案用紙にはびっちりと回答が書かれており、短時間でここまでできているとは、と感心する。
警察から説明を受けた鈴であれば、女子高生の名前をわかるかもしれないと思ったが、せっかくの憩いのひと時に嫌なことを思い出させてしまうのは申し訳ないのでやめておく。
――だから、駄目もとでメモリーにでも……。
そう携帯を開いた途端にバイブが受信の知らせをする。
『ワタシはそこまで教えられないよ』
「まだ聞いちゃいないだろ」
案の定断られた僕は思わず、突っ込みを入れてしまった。
「なんか言った?お兄ちゃん」
「ごめん、何でもないよ」
「そっか」と目を瞑ると同時に、また携帯が振動して視線を戻すとまたメモリーからだった。
『義妹さんに聞きなよ。多分知ってるんじゃない?
それに、先生とか委員長ちゃんとか…』
やっぱり知っていると思われる人に尋ねるしかないかと、罪悪感を抑えて鈴に聞くことにした。
「ごめん、鈴」と心に言いながら、僕は再び伸びをする彼女の方に体を向けた。
「鈴、今から僕は鈴自身があまり思い出したくないような、質問をするのだけど……いいかな?」
僕が畏まった様な言い方をしたので、鈴もそれを察するようにきちんと座り直して僕の方を向いた。
「私は、何を聞いてもらっても大丈夫だよ」
ありがたい。こうやっていつも気を遣わせているので、僕は出来るだけ彼女が思い出さなくていいように、簡潔、単純明快に質問をする。
「僕が事故にあった時、助けたっていう女子高生の名前を知っているかい?」
悲しげな表情をする鈴を見て、心が痛くなるが我慢するしかない。
束の間の静寂を洗い流すように、大粒の雨が窓を叩く。鈴の心中でも表しているのだろうかと想像して
も、僕に分かりはしない。ただただ喉の奥で謝り続ける。よくできた妹に感謝するほかない。
「ごめんなさい、名前はわからない。警察の人には、「お兄ちゃんのクラスメイトが」って聞いただけ
で、後はプライバシーの問題で教えられないって」
――僕のクラスメイト?
「あと、葛葉さん?だっけ?お兄ちゃんの担任の……。あの先生が言っていたのは「事故のショックで体調が崩れたみたいでお見舞いに来られないけど、あの子を責めないで上げてね。彼女もそうとう苦しんでいるから」って……。結局誰も最後までお兄ちゃんが助けた子の素性は教えてくれなかったの」
そこまで語り終えるとまた静かに「ごめんなさい」と涙を浮かべた。
「いや、鈴のせいじゃないし、それに謝らないといけないのは僕で……辛い思いさせてごめん」
僕は親指で彼女の涙を拭ってそう言った。それから落ち着くまで数分かかったが、落ち着きだすと早いもので、僕の膝に頭を置いて眠りについた。
目じりを赤らめて穏やかに眠る鈴の髪を撫でながら僕はつぶやく。
「このまま、事故の記憶から解放させて上げられればいいのに……この雨と一緒に辛いことを洗い流せれば……。僕は兄として何もしてあげられないのがとても悔しいよ。ごめんね、鈴香」
僕の死を悲しんでくれるのを再確認させられ、僕はまだ死ねないと初めてはっきりと気付かされた。それに来年の事故の日に死んでしまえば、鈴と一緒に登校もできない。
だから僕はメモリーが先生ともう一人挙げた人物に聞いてみることにする。先生の連絡先を知らなければ今から学校に行くことすらもできない。
『委員長ちゃん』
百合に聞けば何かわかるかもしれない。鈴からも、僕のクラスメイトと言う有力な情報を得られたように、彼女からも何かきっと良い話が聞けるはず。
けれど、僕は文章だけで正しく旨を伝えることは難しそうだ。そして逆に、彼女からの文章を僕が正しく解釈できるかも分からない。だから、百合にはこう送ろう。
僕は携帯を取り出すと「百合」への新規メールを作る。
『聞きたいことがあるので、今から電話してもいいですか?
良ければ、電話番号を教えてください』
慣れた手つきで素早く打つと、一テンポ置いて送信ボタンを押した。我ながら大胆なことをした。
僕はどんな返信が来るか、心臓を握られるような思いで待った。拒絶されるかもしれないという恐怖は意外にも僕を襲っている。脈打つ音は聞こえないのに、心臓のあたりが苦しい。
何分経っただろうか、もう僕がこの苦しみに耐えられなくなってきた頃、携帯がメールを受信した。
メモリーだったら怒るぞ。とわざと心の中で唱えてから、確認すると百合からだった。
『いいよ。番号は……』
良かった。
安心した僕は肺の中で詰まっていた空気をすべて吐き出して力を抜いた。そしてゆっくりと送られてきた番号を入力していく。
「できた」
こんなに丹精込めて電話番号を入力したのは始めてだ。まぁ鈴以外の電話番号を入力するのすら始めてなのだけど、と感傷的になりつつ、最後の発信ボタンへと親指を持っていく。
――これを押せば繋がる。どうか間違えてはいませんようにっ。
語尾と一緒に押された受話器を上げているボタンは、画面に映されて待機音が鳴りだした。
――一回、二回、三回……。
「もしもし、桃田です」
――でた。
「も、もしもし、は、花濱匙です」
緊張のあまり噛み噛み。クラスメイトとの初通話、第一声がこれなのだから……伸びしろは十分か。携帯の向こう側では百合が大笑いしながら「緊張しすぎよ」と茶化すように言った。
僕はそんな彼女と羞恥心を振り払うように、早々、話を切り出した。
「早速だけど、本題に入っていいかな?あまり気持ちのいい話じゃないんだけど……」
「いいわよ、私の知っていることならなんでも」
百合が笑い交じりに、答える。
「僕が事故で学校に行けなかったのは知っているよね?」
「もちろん。先生からも聞いていたし…」
「じゃぁ僕がクラスメイトを庇って、轢かれたのも知ってる?そのクラスメイトが誰かを聞きたいのだけど……」
「ちょっと待って!」
彼女はそう言うと黙り込んでしまった。携帯の向こう側で何が起きているかは分からないけれど、ドンという音と共に彼女の吐息だけがノイズ混じりに届く。
「どうかした?なんかまずいこと聞いちゃったかな?」
再び物音がしたあと、大きく息を吐くのが分かった。
「そうじゃないの……。実はね、私……。匙君が交差点でトラックに轢かれて、数メートル飛ばされたのを実際見ていたの……」
百合の言葉に僕は後悔をした。とんでもないことを、聞いてしまった。きっと人が轢かれるのを間近で見てしまうとトラウマになるほどのショックを味わうだろう。
「ごめん、そうとは知らないで……僕は」
「いいの……この話は明日学校で直接話をしましょ。電話ではあの時の事をきちんと伝えられない気がするの。だから……」
「分かった。けれど、名前だけでも教えてもらっていいかな?」
なぜ僕はそんなことを尋ねたのかは分からない。明日聞いても同じことなのに、どうしても今、女子高生の名前を知りたくなった。好奇心とかではない。聞かなければならない、と自然とその言葉が出ていた。
躊躇いもなく声に出ていた。
「それは……」
電話前とは違って、今度は鼓動が高鳴っている。電波を通じて百合に届きそうなほど、強く、速く。
耳の集中力は極限まで高まり、彼女が息継ぎをする音まで認識している。そして彼女の口から出た名前
に、僕は味わった事のない、衝撃を受ける。そう、トラックに轢かれた時のような。
「秋菊さんよ」
僕はその夜、再び少女の叫びを聞いた。今度は以前よりもノイズが少ないようだ。似ているカノジョの声に。誰が誰に向かって叫んでいるか、正確にはわからないけれど、確かに似ているんだ。毎日毎日、放課後に聞いていた、懐かしい声が、面影が、誰かのために叫んでいる。
――まただ、また光が迫ってくる。もっとその声を聞かせてほしい。来るな、来ないでくれ、僕はまだ分からないんだ。だから……。
しかし、その光は容赦なく僕を包み込んでいく、この言葉と共に。
「助けて」
耳を裂くような甲高く鳴るアラームを消して僕は布団の上に座りこんだ。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、まるで僕を包み込んだそれみたいだ。どこまでも白く万物を照らし包み込む。
「速く、メモリーの試練をクリアして、カノジョを、「鍵」を探し出さなければ」
僕はそう呟いて、クローゼットのジャージを取り出した。
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