第4話 灰被りの騎士
真っ黒な胴体から剣を引き抜く。
最後の一体の姿が霧散したのを確認し、エクスは
シェインが栞を握ったまま、小声で呼びかけていた。
「少し先に、追加で大きな一団が見えます。どうします?」
「オレぁまだ行けるぜ」
崩れた塀の隙間からは、またも亡霊の姿をとった大きなヴィランが確認できた。仮面の奥の瞳はぎらぎらと不吉に赤く輝いている。
「いちいち相手してられない。迂回しましょう」
ほっと安堵の息をついたのはシンデレラだ。いくら魔法が使えるとはいえ、普段は普通の女の子をやっている身だ。少なからず負担をかけたのだろう。エクスは、はらはらと様子をうかがう。
「ほら、行きましょう。……リヨン?」
シンデレラの呼びかけに反応は返ってこない。どうしたのだろうと振り返ってみれば、リヨンは俯き、立ち尽くしていた。
その手には抜き身の剣を握ったまま。
ガラスの刃は灯を呑み込み、か細い光を跳ね返す。その光は、ともすれば溜息すらも呼び起こすものだっただろう。
だがその光景は、見惚れてはいけないものだった。
レイナの目が鋭く尖る。
「どういうつもり?」
彼女の声に浮かぶ色は怒りでも非難でもない。警戒すべき何かを前に、鞘から抜かれた声だ。
少女は頭を持ち上げる。くすんだ銀の三つ編みが肩の上でのたうった。
小さな口から飛び出たのは誰にも応えない言葉だった。
「レイナはさ、何もかも放り出して、逃げ出したいって思ったことはある?」
レイナに焦点を合わせた瞳は、どこまでも昏い。
何を言っているのか、問いかける間も無く。
「ごめんなさい」
震えた言葉は、瞳の震えをかき消した。謝罪は先行するものだった。
すぅ、と呼吸音が異様な程に響く。
「何を……!?」
リヨンが指を咥えた。もう、遅かった。
ピイイィィ────!
指笛はたかくたかく耳を打つ。それは、遠くないヴィランの耳も同じこと。
「あなた、やっぱり!」
音に引かれた沢山の飛行型・幽霊型のヴィランが、崩れた塀を容易く飛び越えていく。
矢と魔法が降り注ぐまであと幾許もない。
状況がリヨンを捕らえるよりもまず、ヒーローとの
リヨンを止めるものがもういない。狼狽えるシンデレラはリヨンの手を引き、語りかけるけれど、その手では繋ぎ止められないかのよう。
ひとりまるで場にそぐわず、訥々と少女は零す。
「考えたんだ。でも、わからなかった。与えられた運命がないって、どういうことかわからない」
その言葉は幼子のように、絞り出された声は標を見失った迷い子のように。
「わかんないよ、ボクがキミたちのことをわからないように」
「決められてないキミたちには、わからないよ!」
割れた硝子のような、悲鳴だった。
叫びは剣を打ち鳴らす音群の中に霞んで消えゆく。
シンデレラだけがリヨンの手を離せずに、動かないままだった。
そして不意に、二人の、手を引く力が逆転する。
「あ……」
シンデレラの抵抗は無かった。
リヨンは彼女を連れ、この場から逃げ出した。
「待つのです!」
すぐさまシェインが後を追おうとする。神官少女の力を借りていたシェインは後方に陣取っており、追うには一番近かった。
だが、リヨンの指笛を聞きつけたのは前方の一団だけではなかった。
武装した獣型のヴィランがシェインを阻む。
驚いたのも束の間、白衣の少女に姿を変えていたシェインは杖を振るった。次々と光球が放たれる。雷の光だ。
しかし神官ラーラの力を借りた魔法は、あえなくヴィランの盾に防がれた。
「くっ」
たとえヴィランをすり抜けて彼女らを追おうとも、それでは仲間の背中が危険に晒される。
進むわけにはいかず、当然引くわけにもいかなかった。
前も後ろも敵、敵、敵。あっと言う間に包囲は完成した。
レイナは唇を噛んだ。リヨンの言葉が遅れて、耳の奥で熱を持つ。
「何もかも放り出して、ですって?」
調律の巫女は拳を握りしめる。
「思わないわ。……思えない!」
亡国の王女が戦慄いた。カオステラーにより滅んだ想区。彼女はそれを誰よりも知っている。誰よりもその結末を憎悪する。
認めるわけにはいかない。
可憐だった形相にあらゆる激情の色を浮かべ、瞳に青火を放つ。
糸が切れる、音がした。
「相手になってやろうではないか」
幼き姿の大魔法使い、シェリー・ワルムの魔導書が開かれる。彼女の老成した気だるげな瞳には、レイナの強い意志が込められたまま。
【ネイキッド・メモリー】、心を丸裸にし、無防備に晒す黒魔法は容赦なく放たれた。目視できる限りのヴィランが、その影響下となる。
「お嬢、飛ばし過ぎじゃあ……!」
タオが大声を上げる。その間に一攻防を経ていた。槍が通る。先程よりも、ずっと。
「後ろ、任せるわ」
「ったく。任された!」
小さな魔女は駆ける。次々と魔法を放ち、ヴィランを消し飛ばす。
ずんぐりとした幽霊の姿をとったヴィランたちは、剣と杖を振るう間すらもない。奴らにとって分の悪い戦場だった。
だが敵も黙ってやられるばかりではない。
「くうっ」
消えゆく小さなヴィランを影に、仮面のヴィラン、メガ・ファントムが放った魔力弾はシェリー・ワルムの身体を掠めた。
直撃ではなかったとは言え、彼女の軽い身体は吹き飛ばされて地面を転がる。魔導書はヴィランの足下に落ちたまま。
ゆらゆらと黒衣をたなびかせ、レイナの方へ近付いてくる。
次が来る。ひとつ、ふたつ、大きな黒球が高濃度の魔力を孕んで、宙に放たれた。
小さな魔女の姿が白い光に飲み込まれる。そして現れたのは金髪碧眼、青のワンピースの裾をふわりと広げ、ウサギのような黒いリボンを結んだ少女。不思議の国のアリスだ。
アリスに
駆け抜ける。次々と襲い来る弾をものともせず、メガ・ファントムの真正面へと躍り出る。
レイナとアリスの碧眼が、仮面の奥の空虚な瞳を見据えた。捕まえた、と。
「わるいこは寝てなくちゃダメよ」
【ワンダー・ラビリンス】、それは不条理を切り裂く刃の迷宮。
可愛らしい靴が地を蹴り、うさぎのように宙を舞う。
「レディーのたしなみ、教えてあげる!」
剣は甘やかに閃いて、アリスの連撃は華やかに亡霊を切り裂いた。
◇
「お疲れ様」
「こっちは全部片付けたぜ」
姿を戻す。レイナは顔色ひとつ変えなかった。
「リヨン、いいえカオステラーを追うわよ」
今度ばかりはタオもレイナの指図に異を示さない。
ヴィランを一掃した後も、ぴりりと張りつめた空気は変わらない。
エクスは黙りこくる。
リヨンのことが頭の中から離れない。
「本当にそうなのかな」
少女の立ち位置に自分を重ねてしまった。
リヨンが、シンデレラの親友がカオステラーだとしたら。シンデレラの幼馴染として彼女のハッピーエンドを望んだ自分が、きりきりと痛んだ。
「エクスは違うって思うの?」
「うん。リヨンがカオステラーだって思えなくて。思いたくないだけかもしれないけれど」
運命は変わらないものだった。
だれもかれも、疑問だって抱かない。
それが『当たり前』。きっと根本から、物事の考え方が違う。いや、ずれているのは『空白の書』の持ち主の方なのだ。
自らの役割、行く末、寿命。たとえ悲劇でもそれを受け入れる。
それが幸か不幸なのかなんて、エクスには断じることができない。
だというのに、少女騎士の悲鳴は、まるで自らの運命に向けられているようだった。
「もしもカオステラーでないとしたら、リヨンを狂わしてしまったのは僕たちってことなんだね」
『空白の書』の持ち主は、何にも定めてもらえなかった彼らは、誰かの運命を変えてしまえる。
リヨンが知ってしまったから、知られてしまったから。
「そうじゃなかったら、リヨンがあんなことをするもんか。リヨンの役割が『騎士』なら、尚更に。そうじゃなかったら、全部正しく進んでいたはずなんだ……」
あれほどまでに騎士に憧れを抱いていた子だ。『らしく』ないことをするのが、彼女に与えられた運命だとは考えられないではないか。
頭がくらくらとする。
静まり返ってしまった中、タオが何気なく口を開く。
「その考え方はちと、つまんなくねーか」
悶々と悩むエクスに投げかけられたのは、とても軽い調子の疑問だった。
張りつめたままのレイナがタオを小突く。
「おふざけは禁止。つまるつまらないの問題ではないでしょ」
「オレは大真面目だっての!」
心外な、と声を上げる。
「たしかに想区は繰り返すもんだし、あいつらの前の代にも同じ役割を持ったやつが沢山いただろうさ。だけど何もかもが寸分違わず同じだとか、そりゃあロマンがなってねーだろ!」
「そういう意味なら、私もわからなくはないわ。何でもかんでもロマンで片付けようとするのはどうかと思うけど」
「現に、誤差がないというのは大きな間違いですしね」
シェインがうんうん、と同意を示す。
何かがすとん、と落ちた。おそらくは腑に、だ。
「さて、話を戻しましょ」
そのまま半ば放心状態にあったエクスを引き戻したのは、レイナの真剣な眼差しだった。
「エクス、あなたの意見はちゃんと聞きたい。けどリヨンがそうでないと考えるのなら、感情論以外の理由をちょうだい」
エクスは考える。
自分がそう思った根拠を探した。何も無いなんてことは無いはずだ。リヨンへの感情移入は脇において、記憶を辿っていく。
間もなく、大きな引っかかりに気がついた。
「そうだ、シンデレラ……リヨンは、シンデレラという名前を黙っていたわけじゃない。知らなかったんだ。ここであの子は、シンデレラと呼ばれていなかった!」
動揺が走る。このことを知っていたのはまだ、エクスひとりだけだった。
だがレイナは首を振る。
「それは、驚き。でも足りない」
そう、エクスたちをヴィランに囲ませて、シンデレラを連れ去った事実は動かない。
結局のところ信じたいというエクスの性分でしかないのか。これで自分の勘が間違っていたら、エクスは馬鹿げたほどにお人好しということになってしまう。そんな自虐をする未来はちょっといやだ。もう一度頭の中を浚う。
「…………」
役割のなかったエクスがシンデレラの幼馴染であったことはただの偶然だが、リヨンがシンデレラの親友であることは紛れもなく必然だ。
であれば、物語の重要なパーツを担う存在となる。だのにエクスの記憶の中にリヨンは存在していない。一体それはどういうことなのか。
ぽつり、とシェインが呟いた。
「でも、すごく奇妙ですね。かぼちゃの馬車もガラスの靴も、どこをとってもシンデレラなのに。その名前だけが当てられていないなんて」
シンデレラ、それは主役の名前だ。そして、想区すらも冠する名だ。その名前が、存在しない。
「そうか……」
顔を上げる。
無いのは偶然ではなく必然、有ってはいけなかったとしたら。
答えは簡単だったんだ。
「ここは普通の、少なくとも僕らが知っているようなシンデレラの想区じゃない。あるいはもっと、別の何かなんだ」
◇
今は昔の話。
少女の父は騎士だったという。
いっそ軽薄に見えるほどに陽気な男で、語る武勇伝にはきっと脚色だって加えられていたに違いない。
それでも父よりも格好良い人は知らなくて。
そんな父に憧れて、少女は騎士になることを夢見ていた。
物心ついた頃から、剣は握らせてくれていた。辺境の村では『決まり事』に対する考えは厳しいものではなかったけれど、周りからは異様な目で見られたこともあったし、父が非難されたこともあった。
けれど少女にとっては、大好きな父との修練なんてどんな遊びよりも楽しいものだった。
少女の望みでも父の信条でもなく、いつか必要になるだろうという確信、せめてもの保険のためにそれが行われていたのだと気付いたのはずっと後のことだった。
父は未だ幼い少女を残して亡くなった。ある時、村を襲った盗賊から受けた傷が病に転じた故だった。
昔々から定められていた未来が追いついただけのことであって、父が戦わなければ村がずっと酷い惨状になっていただろうことも、父はとうに全てを受け入れていたことも、悲しむことが悲しませることも知りながら、少女はひとり、幾夜も泣き暮らした。
最期に聞かされた己の出自すら、どうだってよかった。
灰になったはずの王女。
殺される運命にあった姫君。
他の誰でもなく、母であるはずの妃の意によって。
火が離宮を飲み込んだ夜、身代わりとなったのは死産となった父の本当の子であると。
そんなことを今更知って、何になるというのだろう。
けして恵まれたとは言えない暮らししか少女に与えられなかったことへの詫びがあった。そんなものは欲しくなかった。
望まれなかった自分を救い、明日すらも許されなかった自分に十数年もの日々を与えてくれた。
少女の父は、かの騎士だけだった。
涙が枯れた朝、心は決まった。
その時から、少女は少女ではなくなった。
騎士になるための道はひとつしか用意されていなかった。
父がそれを望まないことを知りながら、王都の門を叩いた。
鞄には夢を詰め込んで、身に合わない剣を形見に提げて。
けれども、目の当たりにした現実はどこまでも夢に遠かった。
騎士見習いの宿舎に入り込むまではよかったのだ。
ただ、握らされたのは剣ではなく箒で。待ち受けていたのは汗を拭う代わりに雑巾を絞る毎日。
埃と灰に咳き込んで、追えない夢を間近に見続ける。
騎士に焦がれた。
逃げることすら出来ない。それが、少女の手にした日々の全てだった。
誰にも知られぬように泣くための場所があった。
ある日は父が恋しくて、ある日は自分が惨めに思えて仕方なくて。
そしてある時を境とし、自分の運命を呪って泣く場所になった。
そこは森の中、夏めく時節でもなお凍りついた不思議な泉のそば。まるで時が止まったようで、それが、徒らに時間が過ぎていくのを慰めてくれるような思いだった。
けれどその日は、泣きべそをかく少女がもうひとりいたのだ。
つぎはぎだらけの服の女の子。綺麗だったであろう髪すらも、灰に汚れて輝きを失っている。
「キミ、どうして泣いているんだい」
青髪の少女は腫れぼったい目をこちらに向けて、ぐすりと鼻をすすった。
「……言いたくない。あなたこそ、なんで泣いてるの。剣なんか、抱いて」
会話が始まっても二人は距離を詰めようとしない。離れたまま、膝を抱えたまま。凍る湖面に目を落とす。痩せた暗い顔が映り込む。
「……どうして、ボクは騎士になれないんだろうって」
「『決まり事』だもの。ここでは、女の子は剣を握れない。なぜって言われても、いつかの女王様がそうお決めになったから。もう何年も王家に女性はいらっしゃらないから、当時の王様の後を継いだお妃様だったはずだけど」
すらりすらりと、少女は言葉を吐き出す。身なりに似合わず、この年で歴史書でも頭に叩き込めるような身分だったのだろうか。
驚いたのも束の間。むっとして言い返す。
「じゃあボクは男だ。だからなれる、なるんだってば」
少女が初めてこちらを向いた。大きな青い瞳が、じっと見つめている。
「私、エラっていうの。あなた、名前は?」
まるでどこかのお姫様であったような。少女のもつ不思議な雰囲気に飲み込まれそうになって、声を詰まらせながら名前を言った。そういえば、お姫様だったはずなのは自分の方だったな、と。すっかり忘れていたことを思い出す。
首を傾げられてしまった。
「灰……? 変な名前」
いつかどこか、違う世界であったなら。シンデレラと呼ばれたはずの少女は言う。
「お揃いね」
二人は灰に塗れて笑い合った。
◇
月日は流れ、星は何度も空を巡り、いよいよ夢は張りぼての姿を得て。
ヴィランに埋め尽くされた街の中、方向に構いもせず、リヨンはただただ足を動かした。
こつこつこつと小さな足音が付いてくる。
「ねえ、リヨン、リヨン!」
振り返らない。答えない。
「訳があるのでしょう? 私に、聞かせて」
何を言えばいいのか、わからないから。
シンデレラの目はそんな言い訳を許さなかった。
泣き出したくなる。
「キミに会うまでは、覚悟を決めていたはずだったんだ」
筋書きは決まっている。
運命の書の記述は、とうに覚えてしまった。
正しくないのは『今』だ。
けれど、正しくないことが起こるのだと知ってしまった。
思ってしまったのだ。
「霧の向こうには、違う世界があるんだって」
──もしかしたら、失わずに済むんじゃないかって。
「お願いだ。……ボクと一緒に、逃げて」
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