〇五

 夕食は、肉じゃがとカニサラダと蛤のお吸いもの。最近わたしの好物ばかりが食卓にならぶ。妙に気を使われているのが分かる。

 なにを隠そうママは今、パパと喧嘩ちゅうだったりする。

 夫婦のあいだに、ほとんど会話がない。我が家の食卓は、連日まるでお通夜のよう。

 以前にも、こういうことがあった。あのときは、たぶんパパの浮気が原因だと思う。そうと聞かされたわけじゃないけど、わたしの部屋まで聞こえてきたあの夫婦げんかを耳にしていたら、だれにだって察しがつく。たぶん今回もおなじ。

「ごっそさん……」

 ごはんを半分くらい残してパパが席を立った。バイキングでは店員さんにイヤがられるくらいの大食いなのに、どこか体の具合でも悪いのかな。ママはママで、文句のひとつも言えずにうつむいてるし。

「ねえ、ママ……?」

 遠慮がちに声をかけると、ママはぼんやりした顔でわたしのほうへ視線を向けた。心なしか目が赤い。その目からみるみる涙がにじんできたので、思わず口をつぐんでしまった。

「ううん、なんでもない」

 残りのごはんをかき込んで、お吸いものでムリヤリ流し込んだ。

「ごちそうさまっ、けほっ」

 あわてて食べたので、ちょっと気管に入った。こういう気まずい雰囲気ってちょー苦手。さっさと避難するにかぎる。

 逃げるように部屋へ戻って、カバンから読みかけの文庫本を取り出した。携帯音楽プレーヤーのイヤホンを耳に突っ込んで、ベッドのうえに寝転がる。サティのジムノペディをBGMに、チャンドラーの推理小説を読むとか、このセンスどうよ。ハードボイルドな私立探偵が犯人の仕掛けた罠にまんまと嵌るところから読みはじめて、えんえん二時間、謎の美人弁護士に助けられてなんとか窮地を脱したころには、もう夜の九時近くになっていた。

 机のうえの置き時計をにらむ。邪念を払うようにブンブン首を横に振った。行かないぞ、わたしは行かないんだから。

 よし、はっきり断ってやろう。

 そう思ってトムの携帯に電話をかけた。繋がらない。さては電源を切ってやがるな。

 お風呂から上がって髪の毛を乾かしてるとき、また時計に目がいった。

 九時三十分。

 だああ、ふざけんな。夜の学校へなんか行くものか。

 気がつくとジーンズに履き替え、スタジャンをはおっていた。

 バカだ、わたしは超のつく大バカ者だ。キーホルダー付きの可愛いマグライトをジーンズの尻ポケットに突っ込む。

「ちょっとコンビニまで行ってくるね」

 リビングにいるママに声をかけて、家を飛び出した。このさいアキラなんてどうでもいい。でもトムのやつに待ちぼうけを食わせるのは、ちょっと可哀想な気がしたのだ。


 雨はいったんあがり、濡れた路面に車のヘッドライトがてらてらと反射していた。

 トムは、九時五十分に来いと言った。自宅から中学校までは歩いて十五分くらい。駆け足なら十分で行ける。ギリギリ間に合う。最初は髪が乱れるのを気にしたり汗をかかないよう注意して走ってたけど、途中からどうでも良くなった。歩道橋を渡ると時間を食うので、ガードレールをまたいで四車線の国道を突っ切る。ようやく校門までたどり着いたときには、ゼイゼイ肩で息をしていた。ああ、どうせ来るんならもっと早く決断していれば良かった。

「遅かったな、もう来ねーかと思ったぞ」

 じゃがみ込んでへばっているところへ急に声を掛けられ、ハヒィと情けない息が漏れた。

「あんたが、かわいそうだ、から来てあげた、だけだからね……」

 トムは、街灯のとどかない闇にとけ込むようにしてフェンスへ寄り掛かっていた。出会ったときとおなじ派手なピンク色のシャツ。ヤシの木とハイビスカスが描かれたトロピカルなデザイン。アロハー。

「んじゃ、まいりますか」

 たばこの火をジャリッと踏みにじって、フェンスとブロック塀の境目のわずかなすき間へスルリと身をすべり込ませる。そのまま軽々と学校の敷地へ侵入してしまった。

「ほら、おめーも早く来いよ」

「だから、なかには、入らな、いって……」

 息をあえがせながら手を左右に振ってみせた。フェンスの外から時計塔の様子を確認したらすぐに帰るつもりでいたのだ。でもトムにあきらめる様子はない。眉間にしわを寄せて何度も手招きをくり返す。しまいには走塁をうながすベースコーチのように腕をブンブン振り回した。ヘイ、カモーン。

 あまりのしつこさに、とうとう観念した。

「ぐぐ……覚えてろよ」

 ヨロヨロと立ちあがり、彼のマネをしてなんとかすき間をくぐり抜ける。最近になって本格的に膨らみはじめた胸が少し窮屈だった。でもやっとの思いでなかへ侵入できたのに、トムはもう小走りに駆け出していた。

「おい、グズグズすんな。見つかったらヤバいぞ」

「ちょっと待ちなさいよ」

 ほんと息つくヒマもない。

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