第十八話 求めぬ代償、愛せる喜び

 ――――バッターモンから放たれたのは、その決死の覚悟を肚の底から振り絞るように叫んだ声を体現したような、激しい閃光と爆煙。


 ただ、ただ、閃光と爆煙。


 ヒロシの足を掴むバッターモンの力はほんの少しも緩まない。


「――――今だあ! キリ子ォォーッ!!」


「ぐっ、ちっくしょう! こんな奥の手を……!?」


 ヒロシは一瞬の油断が招いた逆転劇に固く目を閉じ、キリ子が行なうと思われる最大の攻撃に備え、半ば「これまでか」と諦観しながらも身を固めた。



――――数秒の後。


 辺りから閃光と爆煙は静かに消えゆく。


「…………?」


 ヒロシはこのままキリ子に一方的に手痛いダメージを受け、苦い思いと共に再起不能に陥ることを想像していたのだが――――


「……何ともねえ……?」


 ゆっくり目を開け、身体に違和感が無いか調べるが、特に異常なし。傷ひとつ負っていない。


 だが――――足を掴む圧迫感は弱まっていた。


「……おめえ……」


「……へ、へへっ……」


 足元に倒れ伏していたバッターモンは、全身を焦げ茶に変色させていた。


 全ての力を出し尽くし燃え尽きたようにも……虫が次の生命いのちへと移行するためにサナギになったようにも見える。


「……彼女を逃がす為、だけだったのか」


「……ふっ……こんだけの……光と煙だ……どうだ……ビビっただろ…………?」


 バッターモンはヒロシを見上げて、誇らしげに笑った――――紛れもなく、『勝利』の笑みだ。


「……ああ。ビビったよ……おめえの身体を張ったハッタリにも……一途な想いにも、な……」


 ヒロシは眉根をひそめて、半ば憧憬の念を持ってバッターモンを見下ろした。


 この青年が行なったのは、ただのハッタリだ。敵を倒す力ではない。


 だが、自分にここまでのことが出来るだろうか? 


 策を巡らせ、時に相手の心理を読み、己の活路を拓く。そういった戦い方はヒロシにも出来るかもしれない。


 だが――――真に身を焦がすほど、自分の野心や名誉、プライドも投げ打ってでも……『どうしようもなく、愛おしい』……そんな人の為に、ここまでの行動を取る覚悟が、自分にあるだろうか? 


 この青年は見た目はボロボロになったが、その魂は輝いて見えた。そんな輝きを羨ましく思った。


「……なんで、そこまで出来るんだ。あの女……キリ子だったか? あんな力も魅力もある女なら、オトコの一人や二人騙すなんざ、お手のものだろ。おめえ……自分が騙されてるかもしれないって、そんな不安はねえのか? 今だってただ――――」


「逃がしただけだって、か? ……へっ……まだ、わかんねえのか……」


 バッターモンはひと息、溜め息にも安堵にも似た息を吐いた。そしてその誇らしく、精悍な顔立ちのまま続ける。


「……俺は……例え、騙されてたって構わねえ……惚れた、女に……ほんのちょっぴりでも……『愛された』って、夢を見せてくれただけで、満足なんだぜ……」


「…………」


「あんたも、そうなのかい……? 愛情を、傾けた相手に……裏切られたら……それで相手を許せなくなんのか? ……愛情の価値そのものを……『無駄だった』って、否定すんのかい?」


「……!」


 その言葉にヒロシはびくり、と震えた。


 胸が痛い。『その通り』である、と感じた自分が悔しい。その想いが一層、ヒロシの表情を苦く、険しくさせた。


「……俺はよぉ……いざって時に全力を振り絞っても、人を一人逃がせるか逃がさないかってことしか出来ない、ヘタレ野郎だ。それは……依然、否定しねえ」


 虫顔の青年は、静かにその眼から雫をこぼした。悲哀の涙でもなく、ただただ尊きモノへの感謝を込めるように涙を流す。



「……でもよ……こんなちっぽけな俺でも……『愛させてくれた』……たったそれだけで嬉しくってよお……惨めで、ヘタレもいい所な俺の人生で……本気で愛情を傾けさせてくれた人……例え相手が本気で気持ちを返さなかったとしても……俺にとっては極上の幸せ……なん……だぜ……どんな酷い裏切りだろうと……甘んじて、受ける……」


「…………すげぇな。お前……」


 愛情を傾けさせてくれただけで良い。その素晴らしい感覚そのものを大切にして、相手に無尽の感謝だけをする。


 そんな純粋で、半ば酔狂とすら取れる気持ちで生きるバッターモンに、ヒロシは改めて大きな敬意を抱いた。


 もはや、ヒロシの中ではこの青年は本人が言うような『惨めなヘタレ野郎』とは全く思えない。否、思うだけ損で……それ以上に自分の中の虚しさを深めるばかりだと理解した。


「……これを使え。少しは治りが早まるだろうぜ」


 ヒロシは刀を鞘におさめ、傷薬を一つ、バッターモンの眼前に差し出した。


「……あ、あんたにも……そういう相手……出来ると……いい……な…………」


 そう言い終え、バッターモンは完全に気を失った。


「……ありがとよ……バッターモン……おめえを、忘れねえ」


 憧憬。


 ただひたすらに、憧憬。


 その憧憬は、傾奇者としての大舞台で栄冠を手にすることへの憧憬とは全く違う。


 ささやかで、でもとても温かな、人間の情。


「……ちっ…………」


 野心に燃える自分を卑屈に思ったことなど、ヒロシにはこれまで一度も無かった。ただただ、両親のような生き方が誇らしかった。


 だが、今初めて……もっと近くにありそうで、しかし野心では手に入らないような精神の潤い。それを持てない己が情けない。そう思った。


 苦い想いをすり潰そうとするように舌打ちを鳴らしながら、ヒロシはさらにスラム通りの道を進むのだった。


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「……ごめーん……あいつ手強いわぁ」


「なにしくじってんだ、ゴラァア!?」


 逃げ帰ってきたキリ子を、ノリちゃんは言下に怒鳴りつける。


「……ええい、クソがァーッ!! 忌々しい余所者風情が……もう、アッタマ来た! あんたらなんかを信用した私が馬鹿だったよ!」


「の、ノリちゃん〜……そんな怒んないで……」


「……ノリちゃん、ちょっと落ち着けよ」


 なだめようとするガミちゃんと河童をその心配する心ごと押し退け、ノリちゃんはヒロシのもとへ近付こうとする。


「こうなったら、私自ら行く! 余所者から金を掠め取れないで何が『スラム通り一のワル』か!? 金持ちや観光客風情に遅れを取って何がスラム通りの住人よ!? あんたらはどっかで目を食いしばって見てろ! 私の勇姿をな! ……けっ!」


 浅知恵の勇み足。ノリちゃんは完全に逆上し、激情に任せヒロシの所へ駆け出した。


「ちょ、ノリちゃん! 待って!」


 ガミちゃんがそう叫び、四人とも後を追う。


 ――――追いかける直前、物陰から倒れ伏しているバッターモンの姿が、キリ子の双眸に映った。


 キリ子はその双眸に涙を溜め……小声で、しかし強く、温かい声を密かに呟いた。


「……ありがとう……バッターモン。私にはあなただけよ。ずっと、愛してる…………」


 涙を拭い、ノリちゃんの後へ、思慕に浸るカマキリ女は走り出した。

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