開幕の喇叭が鳴り響く
「不思議の国?」
妙なキーワードに、私は眉を寄せる。
聞いたことの無い単語である。魔術師の口振りでは何かの劇か娯楽小説のようだが、聞き覚えも見覚えもない。
だいたい花が笑うとか、芋虫とか、どういうことだろうか。喋る植物なんて、【
「あぁ、ニンフ族の? 流石ラヴィともなると、精霊にもお知り合いが? 」
「居てたまるか。話を聞いたことがあるだけだよ」
だいたいあいつらは、端整な男にしか興味が無い。私が声をかけたところで、樹らしく無視されるだけだろう。
「………詰まり、精霊クラスが
「少し違いますね。確かに、『居てもおかしくない』ように世界を調整しますが、整えるのは舞台だけです。それに、精霊を喚び出すわけでも生み出すわけでもありません」
「悪いがクイズをしたい気分じゃあないんだ。手短に言え」
「おや、クロスワードとかお好きかと思ってましたが? 」
「ここが暖炉の前で、手元にココアが有ればな。いいから説明しろ」
現在のところ、【不思議の国】とやらについて聞かされた特徴は、危険ではあるがそこまでのものとは思えない。少なくとも、
これがもし、精霊を喚び出すというのなら話は別だ。
彼らは、足元の羽蜥蜴とは違った意味で、災害の具現化といえる。火や水、或いは植物といった自然物の化身たる精霊は、基本的に勝手気まま。風の吹くままさ迷い歩く自由人である。
散歩する焚き火だと思えばいい――或いはお喋りな竜巻、男好きな茨でも構わない。
燃え盛る真紅の手で握手を求められて、握り返す馬鹿は居ないだろう。
もし彼らを無尽蔵に、かつ無軌道に生み出すのだとしたら、それはもはや災厄の箱、神話級の危険物だ。だが、そうではないのなら。
「簡単じゃよ。その魔導書は精霊を生み出しも喚び出すことすらしない。にもかかわらず、
「………っ!? まさか………」
ある可能性に思い至り、私は息を呑んだ。ざあっという、顔から血の気が引く音さえ聞こえた気がするほどだ。
精霊は用意できない。だが、舞台にその役は必要だ。なら、劇監督はどうする?
私が気が付いたことに気が付いて、ベルフェが肩をすくめる。顔には皮肉げな笑みが浮かんでいるが、その色は、最悪の予想が当たっている証のように、青ざめていた。
察しが良いなと、ファフニルが笑う。
「魔導書【不思議の国のアリス】、その効能は役割の強制。巻き込まれた者達に【不思議の国】のキャラクター役を振る、変質の魔導書なのじゃよ」
見栄を切るようなファフニルの言葉が終わったその瞬間だった。
その言葉が、何かの引き金となったかのように、遥か眼下で異変は起こった。
むせ返るほど濃い魔力の籠った煙が、街のど真ん中からいきなり立ち上ったのだ。
瞬く間に広がる煙は、絵の具のように鮮やかな極彩色。それが街を、サーカステントのように覆い隠している。
煙はその色味よりも鮮烈に、見下ろす私たちにある事実を伝えてくる………始まったと。
始まるぞ、始まったぞ。あとはもう、終わるまで走り抜けるだけ。
「あー、クロナさん。ひとつ質問がありますが………標的が魔導書って場合はおいくらになります? 」
にこやかに尋ねるベルフェを睨み付けて、私は固く心に決める。
絶対に、ぼったくってやる。
呆然と、少女魔術師は空を見上げる。満点の星空はいつの間にか消え失せ、そこには抜けるような青空が広がっていた。
浮かんでいるのは、色とりどりの雲。
視線を下ろせば、足元には踏み固められた土の道。さっきまで踏んでいた石畳は影も形もない。
「やあ」
突然の声に、少女は振り返る。空色のスカートがふわりと膨らみ、直ぐに萎んだ。
露出の激しいピンク色の服を身にまとった
キャッティアの女はニヤニヤという、意地の悪そうな笑顔で少女を見下ろしている。
「貴女は………」
「やあ、アリス。久しぶりだね、僕だよ、チェシャ猫だ」
解るかい、と聞かれて、少女は首を振る。
「そうかい、でもまあ直ぐに解るよ」
「そう、かしら………そうは、思えないけれど。だって、私は………」
そこで少女は言い淀んだ。
その先に続けるべき言葉が何一つ、自分の中に見当たらなかったのだ。
一瞬の会話の空白に、チェシャ猫は声を滑り込ませる。
「ご覧、アリス。白ウサギが駆けていくよ」
「え?」
見ると確かに、視界の端を何やら白いものが通り過ぎた。見ようによってはまぁ、ウサギに見えなくもない。
だが、それをどうしろというのか。
不審げに振り返った少女に、チェシャ猫はニヤニヤと笑いながら短く言う。
「追い掛けなくちゃ。君はそうしてやって来たんだろう? 」
「え?」
そうだっか?
私は、寧ろ追われてここに来たのではなかったか。魔導書の保管室に入り、一冊の魔導書に手をかけて、そして、
「追い掛けなくちゃ、だって君はアリスなんだから」
頭がいたい。アリスとは、誰の名前だ。私は、わたしは、わたしのなまえは………?
「ほら、アリス」
………………………。
ああ、誰かが呼んでる。わたしの名前を呼んでいる。
アリス。わたしの名前。
染み込んでいく。
少女の中身にチェシャ猫の言葉が入り込み、少女を【アリス】に変えていく。
「追い掛けなくちゃ」
「そうだろう? 全部僕の言った通りさ」
少女の瞳から意思の光が消えていく。
少女の髪は長くなり、金に染まる。
再び光が点いた時、少女は何処にも居なくなり、そしてアリスが其処に居た。
「どうしてあんなに急いでいるの? まだまだ今日は長いのに」
「始まるのさ、赤の女王の裁判が。あいつはその始まりを告げなくちゃあいけない」
「さいばん?」
「そうさ。性格の悪い女王様が、間の悪い家来のクビをちょん切るんだ」
「まあたいへん。そんなのって許せないわ」
「そうだね、アリスだもん。それで? どうするんだい? 」
「決まっているわ、女王を殴って止めさせるのよ」
流れるように【アリス】は言って、もうだいぶ遠くなった白ウサギを追って走り出した。
その行く手を見送りながら、チェシャ猫はニヤニヤと笑う。
艶やかなピンクの身体が尻尾の先から消えていき、すらりと伸びた長い足も、スタイルのよい胴体も、幻のように失せていく。
あとに残ったのは、三日月みたいに裂けた口。それが蠢き、呟いた。
「お帰り、何人目かのアリス? 」
口が消えた。そうして誰も、居なくなった。
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